4章3節「絶望の歩み」
交易都市ドランメンを後にし、ビョルンと名を変えたアキラは、東の自由都市グレングルドを目指して、再び旅路についた。
竜牙山脈の麓をなぞるように続く北の街道は、これまで旅してきた南の道とは全く違う顔をしていた。季節は冬を間近に控え、標高が上がるにつれて、肌を刺す風はすでに冬の匂いを運んでいる。雪こそまだ降ってはいないが、朝晩の冷え込みは厳しかった。
アントンが用意してくれた「駆け出しの銅等級冒険者」という偽の身分証。それは、彼の旅のスタイルを根底から変えた。もはや、森や山に獣のように潜む必要はない。堂々と、街道を歩くことができる。
だが、その自由は、彼の心を少しも軽くはしなかった。むしろ、人々の目に晒されることが、新たな苦痛ですらあった。街道沿いに点在する、旅人たちのための簡素なキャンプ地。そこで交わされる他愛もない会話や、焚き火を囲む家族の笑い声。その全てが、彼が失った楽園の記憶を呼び覚まし、彼の心をナイフのように抉った。
彼は、そうした人の温もりを避けるように、夜はいつも、街道から離れた森の中で、一人静かに火をおこした。
一人になると、決まって悪夢が彼を苛んだ。
焚き火の心許ない光の中でうたた寝をすれば、血の海に沈むエルとグッズの姿が、嘲笑うかのように現れる。彼らの、媚薬に爛れた虚ろな瞳が、なぜ、と問いかけてくる。
そのたびに、彼は悲鳴を上げて飛び起き、夜明けまで火を見つめながら、震える身体を抱きしめるしかなかった。
精神は、日に日にすり減っていく。
ドランメンからグレングルドへと続く道は、北方の山脈や森から現れる強力なモンスターや、食い詰めた傭兵崩れの野盗が跋扈する、極めて危険なルートとして知られていた。
そのため、キャラバンを組まずに旅をする者は少ない。
しかし、身内の危篤など、何らかの理由で旅を急ぐ者たちが、危険を承知でこの道を行くことも、稀にあった。
ビョルンは、追手への警戒心と、何より他人との交流を避けるため、主要な街道そのものではなく、街道から少しだけ外れた森の縁を、亡霊のように並行して進んでいた。
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その日の昼下がりだった。
すぐ近くの街道の方から、甲高い、女性と子供のものらしき悲鳴が聞こえてきた。
(……うるさい)
それが、彼の最初の感想だった。
この静かな、絶望に満ちた旅路において、その悲鳴は彼の心を逆撫でする、不快な騒音でしかなかった。
彼は、その騒音の元を排除するために、音のした方へと、眉をひそめながら向かった。
木々の隙間から見えたのは、ありふれた惨劇だった。
数体の、大型の魔狼。その黒い体毛は、バーゲストと呼ばれる種だろうか。彼らが、簡素な馬車を襲い、小さな家族連れを蹂躙しようとしていた。
父親らしき男が、折れた剣を手に、絶望的な抵抗を試みている。母親は、幼い子供を強く抱きしめ、ただ悲鳴を上げることしかできない。
その光景が、ビョルンの心の奥底に眠る、失われた日々の記憶を、無意識のうちに刺激した。
彼は、名乗りを上げたり、警告を発したりすることは一切なかった。
ただ、亡霊のように森の木々の間から姿を現し、何の言葉も発さず、戦闘に介入した。
彼の戦い方は、もはや「希望の園」のアキラのそれではない。
仲間を守るための連携も、華麗な剣技もない。
ただ、最短距離で、最も効率的に、敵の命を刈り取るためだけの、冷徹な動き。
一体目のバーゲストが、父親に飛びかかろうとした瞬間、ビョルンの剣が、その首を胴体から切り離した。
二体目が、その異変に気づいて彼に牙を剥いたが、次の瞬間には、眉間に剣を突き立てられ、痙攣しながら地面に倒れた。
それは、もはや戦闘ではなかった。
ただの一方的な、虐殺だった。
やがて、最後のバーゲストが断末魔の悲鳴を上げて倒れた時、そこには静寂と、濃密な血の匂いだけが残された。
生き残った父親が、震える声でビョルンに駆け寄り、感謝の言葉を述べようとした。
「あ、あの……助けていただき、ありがとうござ……」
しかし、その言葉は、途中で途切れた。
ビョルンが、ゆっくりと、彼の方を振り返ったからだ。
彼は、懐から取り出したぼろ布で、剣に付着した血を、まるで汚物でも拭うかのように、無言で拭き取ると、その虚ろで、一切の感情を映さない瞳で、家族を見つめ返した。
その、あまりに人間離れした、異様な雰囲気。
父親は、自分が目の前のモンスターたちよりも、遥かに恐ろしい存在に救われたのだという事実に気づき、感謝の言葉を飲み込んだ。
彼は、恐怖に顔を引きつらせ、後ずさりしながら、妻と子供を強く抱きしめた。
彼らは、ビョルンに報酬を渡すことも、共に旅を続けることを提案することもできず、ただ、この得体の知れない男が早く立ち去ってくれることを、心の中で祈るだけだった。
ビョルンもまた、彼らに何の興味も示すことなく、再び無言で、森の中へと姿を消していった。




