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4章2節「冒険者としての名を捨てて」


交易都市ドランメンの堅牢な城門を、一人の男が、亡霊のような足取りで目指していた。


伸び放題の髪と髭。泥と、そして乾いた血に汚れた衣服。

その目は、かつての活気も温かさも失い、ただ深い絶望と、獣のような警戒心だけを宿していた。


かつて、ゴールド等級の冒険者としてその名を馳せたアキラの面影は、そこにはどこにもなかった。


「……止まれ。身分は」


門番の、侮蔑と警戒が入り混じった視線が、アキラの全身を舐めるように見た。


「……北の森から来た、ただの猟師だ」


アキラは、咄嗟にそう答えていた。偽の身分証など、持っているはずもない。

だが、この街は傭兵や、様々な人種が出入りする場所だ。


身なりの汚い猟師の一人や二人が入ったところで、それほど怪しまれることはないはずだ。


彼は、門番の男の手に、そっと銀貨を二枚握らせた。


門番は、訝しむようにアキラを睨みつけたが、手のひらの銀貨の重みを確かめると、やがて面倒くさそうに手を振った。


「……ちっ。もめ事を起こすんじゃねえぞ」


その言葉を背に、アキラは町の喧騒の中へと、その身を紛れ込ませた。


 


二ヶ月。


最後に、人間らしい生活というものをやめてから、それだけの時間が過ぎていた。


腹の底から湧き上がるのは、食料を求める、動物的な飢餓感。

だが、それ以上に、彼の心を支配していたのは、あの夜、自分の手で愛する妻と親友を殺めたという、どうしようもない絶望だった。


彼のその異様な風体と、ぎらついた獣のような目に、さしものドランメンの住人たちも、さっと道を空け、こそこそと噂をしながら彼を避けていく。


目的は一つ。商人アントンの店だ。

しかし、正面から訪ねていけるはずもない。


彼は、店の裏通りで、日が暮れるのをじっと待った。


人々の往来が途絶え、通りのランプに火が灯り始める。

その、あまりに長い時間、彼は壁に背をもたせ、ただ一点を、虚ろな目で見つめ続けていた。


 


やがて、店じまいを始めた丁稚の少年の一人を捕まえると、銀貨を一枚握らせ、アキラはかすれた声で告げた。


「……アントン様に、お伝えしろ。『北の森で、野盗に礼を言っていた男が、再び酒を酌み交わしたいと』。今夜、月が一番高くなる頃、西の倉庫街、三番倉庫の前で待っている、と」


それは、かつてアントンと旅をした者だけが知る、合言葉だった。


少年は、アキラの異様な風体に怯えながらも、銀貨の重みに負けて、こくこくと頷き、店の中へと駆け込んでいった。

 


□■□■□■


 

指定された倉庫街は、夜になると人通りが完全に途絶え、まるでゴーストタウンのようだった。


アキラは、倉庫の影に身を潜め、じっとその時を待った。


(……密告、されていないか)


アントンが、俺の伝言を聞いて、すぐに役人に知らせた可能性。

この倉庫街は、すでに衛兵たちに包囲されているのかもしれない。


それを考えると、心臓が冷たくなる。


彼は、周囲の屋根や、路地の暗がりに、異常なまでに神経を配っていた。


だが、聞こえてくるのは、遠くの酒場の喧騒と、風の音だけだった。


異常はない。


 


やがて、遠くから、複数の足音が聞こえてきた。


アキラは、咄嗟に剣の柄に手をかける。


現れたのは、アントンだった。


しかし、彼は一人ではなく、屈強な護衛を二人、背後に控えさせていた。


王都から流れてくる噂で、「希望の園」のアキラが妻とその相手を殺害し、逃亡したことは知っていた。


目の前の男が、自分を襲って金品を奪う可能性も、彼は十分に考慮していたのだ。


そして、倉庫の暗がりの中、変わり果てたアキラの姿を認めた瞬間、アントンはその噂が真実であったことを悟り、そのあまりの落ちぶれように、思わず息をのんだ。


 


「……アキラ殿。一体、何があった」


アントンの声は、硬かった。


アキラは、何も答えなかった。


ただ、その場に崩れ落ちるように膝をつき、子供のように声を殺して泣いた。


二ヶ月もの間、孤独と恐怖の中で溜め込んできた、全ての感情が、堰を切ったように溢れ出した。


 


アントンは、そんなアキラの姿を、ただ黙って見つめていた。


やがて、護衛たちに目配せをすると、彼らはアキラの両脇を抱え、誰にも見られぬよう、馬車の中へと運び込んだ。

 


□■□■□■


  


アントンが用意してくれた隠れ家で、アキラは数日ぶりに、人間らしい生活へと引き戻された。


最初の二日間、彼は泥のように眠り続けた。だが、それは安らかな眠りではなかった。

うなされ、叫び、何度も悪夢の中で飛び起きた。血の海に沈むエルとグッズの姿が、彼の瞼の裏に焼き付いて離れなかったのだ。


そのたびに、隠れ家の世話を任されたアントンの使用人が、黙って新しい水差しを置いていってくれる。

その、言葉のない人の温かさが、彼の荒れ狂う精神を、ほんの少しだけ鎮めてくれた。


 


□■□■□■


  

三日目の朝。


長い悪夢の果てに、アキラはふと目を覚ました。窓から差し込む柔らかな日差し。清潔なシーツの感触。身体を包む、温かい毛布。


彼は、その時になって初めて、自分が誰かに保護されているという事実を、ぼんやりと認識した。


「……目が覚めたか」


テーブルの向かいで、アントンが静かに茶をすすっていた。


「……ずっと、見ていてくれたのか?」


かすれた声で尋ねると、アントンは静かに首を横に振った。


「なに、毎朝この時間に、様子を見に来ているだけだ。腹は、減っているだろう。そこにスープがある。冷めないうちに飲むといい」


 


その日を境に、アキラは少しずつ、人間としての感覚を取り戻していった。


温かい食事を口にし、湯で身体を清め、夜は悪夢にうなされながらも、眠りにつく。


そして、毎朝、変わらずそこに座っているアントンと、言葉少なに対峙する。


五日が過ぎた頃、アキラはついに、自らの身に起きたことを、ポツリポツリとアントンに語り始めた。


エルとグッズの裏切り、激情のままに二人を殺めてしまったこと、そして、王国中から追われているという、絶望的な恐怖。


 


アントンは、その話を、ただ黙って聞いていた。


彼が知っていたのは、自身も目をかけていたパーティー「希望の園」のリーダーが、自らの妻とその親友を手にかけて王都から消えた、という、商人仲間から流れてきた噂だけだった。


「……王都で、それほどのことをしでかせば、捕まれば間違いなく、絞首刑だろうな」


その、あまりに現実的な言葉に、アキラの身体が微かに震えた。


「……行くあてが、ないのです」


アキラの、絞り出すような声に、アントンはしばらく黙考していた。

そして、一つの道を、彼に示した。


「裏社会の話になるがな」


アントンは、商人としてのコネを使い、アキラのための偽の身分証を用意できると語った。


「そして、ここから東へ行け。治外法権の自由都市グレンガルドだ。あそこには、過去を問わん連中が、掃いて捨てるほどいる。傭兵団に潜り込め。お主ほどの腕があれば、どの団も歓迎するだろう。団の中にいれば、王都の目も届きにくくなる」


アントンは、そこで一度言葉を切ると、アキラの目をじっと見据えた。


「だがな、アキラ殿。グレンガルドは前線基地のようなものだ。傭兵団に属せば、いつ戦争に駆り出されるか分からん。お主ほどの腕なら遅れは取らんだろうが、命の危険があることには変わりがない。それでも、行くか?」


 


その問いに、アキラは、力なく、しかしはっきりと頷いた。


「……今更、俺一人の命の心配をしても、仕方ありません」

  


□■□■□■


  

さらに数日が過ぎた。


アキラは、アントンから手渡された偽の身分証と、自らが持ち出した金貨を路銀として、東を目指す準備をしていた。


伸び放題だった髪と髭は剃られ、清潔な、しかし目立たない旅人の服を身に着けていた。


その顔に、かつての快活さはない。


だが、二ヶ月間彼を支配していた、獣のような狂気は、鳴りを潜めていた。


「……この御恩は、いずれ必ず」


アキラは、そう言って、自分が王都から持ち出した金貨の袋を取り出し、その半分をアントンに差し出した。


だが、アントンはそれに手をつけようともせず、静かに首を横に振った。


「気にするな。その金は、お前がこれから生きるために必要になるものだ。これも、商売のうちだよ。達者でな」


アントンは、そう言って、最後まで感情の読めない顔で、アキラを見送った。


 


アキラは、二度と、振り返らなかった。


彼の中の、かつての「希望の園」のリーダー、アキラは、このドランメンの街で、完全に死んだ。


ここから始まるのは、偽りの名を名乗る、ただの傭兵の物語だった。




ドロドロモードに突入しております。

人間のおどろおどろしい内面を描きたいと考えています。

こういうところではあれですが、応援いただけると嬉しいです。

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