4章1節「逃亡者」
いよいよ新章に突入します。
だんだんダークな方向へ入っていきます。
夜の王都スタヴァンゲル。
貴族地区の柔らかな魔力の光が、静かにその街を照らす一方で、ギルド周辺の繁華街からは、猥雑な喧騒が未だ響いていた。
そんな静と動が入り混じる夜の街を、一人の息の荒い男が、影から影へと駆けていた。
アパートの扉を飛び出したアキラは、当てもなくただひたすらに走り続けた。どこへ向かっているのか、自分でもわからなかった。
彼の頭を支配していたのは、血の海と化した寝室の光景と、この手で愛する妻と親友を殺めたという、冷たい事実だけだった。
「……殺した……俺は……」
喉の奥から、乾いた声が漏れる。彼は、今までの満ち足りた生活を、たった一晩で、この手で、無残に破壊してしまったのだ。
足がもつれ、転がるようにして路地裏の暗がりに身を潜める。遠くから、夜警の見回りの声と、規則正しい足音が聞こえてくる。
恐怖が、彼の身体を震わせた。
元の世界の常識が、彼の頭の中で警鐘を鳴らす。
殺人。それは、いかなる理由があろうとも、決して許されることのない、絶対的な大罪だ。捕まれば、死罪か、あるいは一生牢獄の中だ。
(まずい。このままでは、挙動不審だと見抜かれる……!)
彼は、自分が王国中から追われる指名手配犯になったと信じ込んでいた。全ての街の門に自分の手配書が張り出され、屈強な追手が森の隅々まで自分を追っている。そんな妄想と恐怖に駆られていた。
(逃げなければ。……でも、どこへ?)
彼は、ふと、故郷とも呼べるウンドレダル村を思い出した。
無骨だが面倒見のいい師匠ガルドの言葉なら、このどうしようもない状況を、きっと打破するヒントをくれたかもしれない。
しかし、その甘い記憶は、次の瞬間、妻を殺したこの身で、温かい村人たちの元へ帰ることなど、できるはずがないという、当たり前の冷たい現実に直面し、彼は絶望に打ちのめされた。
その時、一人の男の顔が浮かんだ。
アントン。かつて、彼のキャラバンの護衛を務めた、抜け目ないが、どこか人の良い商人だ。
アキラは、彼が王都を拠点としながらも、交易都市ドランメンに小さな支店を持っていると聞いていた。
旅の途中で見せた、彼の現実的な、しかしどこか温かい人柄。
それが、今の彼にとっては、唯一すがるべき蜘蛛の糸のように思えた。
行くあては、そこにしかない。
そのことに思い至ったアキラは、恐怖に怯えながらも、どうにか理性を保ち、人通りの少ない裏道を素早く歩き、王都の北門へとたどり着いた。
「こんな夜更けに、どこへ行く」
門番の、鋭い視線が突き刺さる。
アキラは、震える手で、懐から金等級のプレートを取り出した。
「……ギルドからの、緊急の依頼だ」
門番は、その黄金に輝くプレートを一瞥すると、それ以上何も問うことなく、重い音を立てて門を一つ開けてくれた。
王都を抜け出したアキラは、かつてアントンのキャラバンを警護していた記憶をたどり、主要な街道を完全に避け、ただひたすらに北へ、森や山といった、人気のない場所だけを選んで進んでいった。
それは、想像を絶する困難だった。
道なき道がどこまでも続いていた。
誰かが追ってきている、という見えない恐怖が、彼を焦らせた。
元は優れた猟師でもあるアキラだから、多少足元がぬかるんだ土であろうが、滑りやすい苔に覆われた岩であろうが平気なはずだった。
しかし、急く気持ちが彼の足をもつれさせ、何度も転倒したり滑落したりした。
夜になっても、彼は恐怖から、ろくに眠ることができなかった。
うつらうつらと意識が遠のくたびに、血まみれの二人がなまめかしく行為をしている様や、血の海に横たわる無残にも死した二人の姿が幻影のように彼の前に現れた。
そして、その幻影の中のエルやグッズの目が、なぜ殺されなければならなかったのかを、彼に訴えかけてくるようだった。
冬が迫った北国の冷たい雨が、彼の体から体温と、正常な心を奪っていった。
彼の精神は追い込まれ、常に異様な殺気を放っていた。
その気配のせいか、野生動物は決して近づいてこなかった。
彼に近寄るのは、その殺気に吸い寄せられるかのように現れるモンスターばかりだった。
彼は、本能でモンスターたちと戦った。
剣を抜き、感情なくそれを振う。
モンスターの攻撃をかわし、致命の一撃を叩き込む。
その動きは、まるで訓練された機械のようだった。
そうして、彼は、飢えに耐えかねたらモンスターの肉を喰らい、泥水やモンスターの血をすすって渇きをしのいだ。
彼が持ち出した金貨の袋は、山の中では何の役にも立たず、ただの重い荷物でしかなかった。
□■□■□■
そうして、王都を逃げ出して一ヶ月半が経った頃だった。
山間の細い獣道を、アキラは亡霊のような足取りで歩いていた。彼の腹は、限界まで空腹で、精神的なストレスも極限に達していた。
その時、遠くから、複数の男たちの陽気な声が聞こえてきた。焚き火の煙が、木々の間から立ち上っている。
(……野盗か)
彼の内なる感覚が、その存在を明確に捉えていた。普段の彼であれば、戦闘を避けて迂回しようとしただろう。だが、飢えと渇き、そして何より、終わりのない孤独と罪悪感が、彼から正常な判断力を奪っていた。
彼の視界に、野盗たちが楽しげに語らいながら、酒を酌み交わしている姿が映った。焼かれた肉の香ばしい匂いが、彼の鼻腔をくすぐる。温かい食事が、湯気を立てている。
その、あまりにも幸福そうな光景。
それは、彼が自らの手で破壊してしまった、失われた日常そのものだった。
ぷつり、と。
再び、彼の頭の中で、何かが切れた音がした。
彼は、獣のような低い唸り声を上げると、腰の剣を抜き放ち、野盗たちの宴の中心へと、何の躊躇もなく突っ込んでいった。
「な、何だ、てめえ!」
抵抗は、一瞬だった。
アキラの圧倒的な力と、理性を失った狂気的な剣技の前に、野盗たちはただの獲物でしかなかった。
彼は、一人、また一人と、彼らを感情なく切り刻んでいく。
一人目の男は、首筋を浅く切られ、血が噴水のように吹き出す。男は、くぐもった悲鳴を上げようとしたが、その声は、次の瞬間、心臓を貫かれたことでかき消された。
二人目の男は、斧で切りかかってきたが、アキラはそれを紙一重でかわすと、がら空きになった腹を深々と貫き、臓物を引きずり出した。
三番目の男は、アキラの異様な殺気に恐怖して逃げ出そうとしたが、背後から投げつけられた剣によって背骨を砕かれ、もんどり打って倒れた。
アキラは、転がった男に近づくと、その頭蓋を、熟れた果実でも踏み潰すかのように、無遠慮に砕いた。
悲鳴も、命乞いも、彼の耳には届かなかった。
彼が正気を取り戻した時、そこには静寂と、鉄錆の匂いだけが残されていた。
アキラは、転がった野盗たちの骸の山から、まだ温かい食料や水を奪った。
そして、まるで何もなかったかのように、それを貪り食らう。
彼の目の奥には、かつての活気も温かさも失われ、ただ深い絶望と、生きるための冷たい意志だけが宿っていた。
この世界で生き延びるために、最早、手段を選ぶ余裕など、彼には残されていなかった。
キャラバンであれば十日で移動できる距離を、アキラは悪路を彷徨い、道に迷い、二ヶ月もの時間を要した。
彼が、心身ともにボロボロの状態で、ようやく交易都市ドランメンの城壁をその目に捉えた時、その姿は、完全に変わり果てていた。
衣服は泥と血で汚れ、髪は伸び放題。
その目は、かつての活気も温かさも失い、ただ深い絶望だけを宿していた。
もはや、そこに、かつての「希望の園」のリーダー、アキラの面影は、どこにもなかった。




