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3章19節「楽園の崩壊」


サラマンダー討伐の功績は絶大だった。


王都に帰還し、ギルドに依頼達成書と、調査団が発行したサラマンダーの討伐証明書を提出したあの日、俺たちはゴールド等級へと昇格を果たしたのだ。


その報は瞬く間に王都の噂となり、俺たちはもはや単なる「腕利きの新人」ではなく、王都でも指折りの実力派パーティーとして、誰もがその名を認める存在となっていた。


 


その夜、俺は有力な貴族との食事の約束があった。


金等級パーティーのリーダーとして、こうした席に呼ばれることは、もはや珍しいことではなくなっていた。俺は、家を出る前に、エルに優しく告げた。


「今夜は、貴族の方との食事なんだ。少し遅くなるかもしれないが、心配しないでくれ」


「ええ、分かったわ。気をつけてね、あなた」


妻の健気な笑顔に見送られ、俺はまず、冒険者ギルドへと向かった。先日終えた依頼の、細々とした報告書を提出するためだ。リーダーとして、こういう雑務も疎かにはできない。


 


ギルドを出て、貴族地区へと歩を進めるにつれて、通りの景色は徐々にその様相を変えていった。


商人たちの活気ある声が飛び交う地区を抜けると、建物の背が次第に高くなり、家の前には手入れの行き届いた庭が姿を現し始める。


やがて、それらは高い塀に囲まれた、壮麗な屋敷へと変わっていった。


石畳の道は塵一つなく磨き上げられ、ガス灯とは違う、魔力を帯びた街灯が、柔らかな光で夜道を照らしている。


いつの間にか、自分もこの街の景色にすっかり馴染んでいるものだと、俺はそんなことをぼんやりと考えていた。


 


約束の時刻通りに貴族の居館に到着し、重厚な扉を叩く。俺を迎えたのは、仕立ての良い衣服に身を包んだ、初老の執事だった。


「『希望の園』のアキラ様でいらっしゃいますね。大変申し訳ございません。主人が、先ほど急遽、王城へ呼び出されまして、本日の会食は取りやめとさせていただきたく……。この度の非礼は、後日必ずお詫びを、と」


その、あまりに丁寧な謝罪に、俺は恐縮してしまった。


「いえ、お気になさらず。急なご用事とあらば、仕方のないことです」


俺はそう言って、丁重に辞去した。


 


予期せず、夜の予定がぽっかりと空いてしまった。


(……さて、どうするか)


いつもなら、このままグッズやグンターを誘って、馴染みの酒場へ繰り出すところだ。だが、その日の俺は、なぜかまっすぐに、妻の元へ帰りたい気分だった。


早く、あの我が家へ帰りたい。たまには、二人きりでゆっくりと夜を過ごすのもいい。俺は、エルの肌の温もりを、思い出していた。


 


貴族地区を歩いていると、俺の目に、これまで足を踏み入れたこともないような、瀟洒な店が映った。


ガラス張りのショーケースの中には、色とりどりの、まるで宝石のような菓子が並べられている。貴族たちを相手にした、特別な菓子スウィーツの店だった。


俺は、ふと、ずっと昔のことを思い出した。まだ旅の途中、レールダルの町で食べた、ただのパンケーキに、エルが子供のようにはしゃいでいた、あの笑顔を。


(……土産に、買っていくか)


 


俺は、少しだけ気恥ずかしい気持ちで、店の扉を開けた。


店内に漂う、甘く、香ばしい香り。


俺は、ショーケースの中の、ひときわ美しい、赤い果実が乗った焼き菓子を一つ、指差した。


「これを、二ついただこう」


「かしこまりました」


店主から告げられた金額は、金貨一枚。貴族街の店にふさわしい、予想通りの高価なものだった。


しかし、俺はその金額を聞いても、全く躊躇うことなく、懐から金貨を取り出している自分に、ふと気づいた。


店主が、釣り銭を用意している。その、わずかな待ち時間の中で、俺の心に、静かな、しかし確かな感慨が込み上げてきた。


(……そうか。俺は、もう、こんな金額を、当たり前のこととして支払えるようになったのか)


 


元の世界では、妻にこんなささやかな贅沢をさせてやることもできなかった。


この世界に来て、必死に戦い、仲間たちと力を合わせ、ようやくここまで来たのだ。


かつては一ヶ月分の生活費にも匹敵したであろう金額を、今、自分は当たり前のこととして、妻への贈り物に使おうとしている。


俺は、自分のこれまでの頑張りと、その結果として手に入れた成功を、この菓子の値段を通じて、改めて実感していた。


愛する妻を、自分の力で幸せにできる。


その事実が、俺の心を、これ以上ないほどの幸福感で満たしていた。


 


「お待たせいたしました」


丁寧に包まれた菓子の箱を受け取ると、俺は店を出た。


早く、この菓子を手に、エルの喜ぶ顔が見たい。


そして、今夜は二人で、ゆっくりと楽しい時間を過ごそう。


俺は、少しだけ早足で、我が家へと、帰路についた。


貴族地区の柔らかな光を背に、アキラは自分のアパートがある地区へと足を向けた。


道の両脇に立ち並ぶ建物は、壮麗な屋敷から、見慣れた商人や職人たちの住む、より生活感のあるものへと変わっていく。

その変化が、アキラには心地よかった。あの華やかな世界も悪くはないが、やはり自分の帰るべき場所は、エルがいる、あの温かい部屋なのだ。


懐の中にある、菓子の箱がかすかに音を立てる。


(驚くだろうな)


彼は、エルの喜ぶ顔を想像し、自然と口元が緩んだ。きっと、子供のようにはしゃいで、その場で箱を開けるに違いない。


「まあ、きれい!」

「こんな素敵なお菓子、どうしたの?」


なんて言いながら。

そして、二人で並んで座って、同じ美味しいものを食べるのだ。


彼女が一口食べて、そのあまりの美味しさに目を丸くする――その顔が見たくて、自分は頑張ってきたのかもしれない。


そんな穏やかな夜が、今から始まるのだ。


 


見慣れたアパートの階段を、いつもより少しだけ速いペースで駆け上がる。


早く、彼女の喜ぶ顔が見たい。


その一心で、彼は自室の扉を開けた。


 


「エル、ただいま! 土産を買ってきたぞ」


言いかけて、アキラは言葉を止めた。


いつもなら、「おかえりなさい」という、明るい声が返ってくるはずだった。

だが、部屋の中は、シンと静まり返っている。


リビングのランプは灯っているが、そこにエルの姿はなかった。


 


(……おかしいな。どこかへ出かけているのか?)


だが、玄関の隅には、彼女がいつも履いているサンダルが、きちんと揃えられていた。


アキラは、手にしていた菓子の箱を、そっとテーブルの上に置いた。


静寂が、やけに耳につく。


風邪でも引いて、もう寝てしまったのだろうか。

だとしても、ランプをつけっぱなしにしておくなんて、彼女らしくない。


その時だった。


 


「……ぁ……ん……」



寝室の方から、くぐもった、妙な声が聞こえてきた。


それは、苦しんでいるようでもあり、喜んでいるようでもある、奇妙な響きを持っていた。


(……なんだ?)



悪夢でも見ているのか? それとも、どこか具合でも悪いのか。


アキラの心に、じわりと不安が広がっていく。

彼は、音を立てないように、慎重に寝室の扉へと近づいた。


 


声は、続いている。


それは、エルの声だった。


だが、アキラが今まで聞いたこともないような、甘く、そして乱れた声だった。


そして、その声に混じって、もう一つ、聞き慣れた男の、荒い息遣いが聞こえてくることに、彼はまだ、気づいていなかった。


 

「エル? 大丈夫か?」



アキラは、心配そうに声をかけながら、寝室の扉に、そっと手をかけた。


返事はない。ただ、くぐもった、甘い声が漏れ聞こえてくるだけだ。彼は、意を決すると、ゆっくりと扉を開いた。


そして、見た。




最初に、彼の目に映ったのは、ベッドの上で絡み合う、二つの裸体だった。




一つは、見慣れた、しかし今は見たこともないほどに乱れた、妻の姿。

そして、もう一つは、その妻の身体を、後ろから貪るように抱きしめている、親友の姿。




時間が、止まった。

いや、アキラの思考が、完全に停止した。


目の前で繰り広げられている光景を、彼の脳は、理解することを拒絶した。これは、何かの悪い夢だ。そうだ、ヒュドラと戦った時のように、疲れて、悪夢を見ているに違いない。


だが、夢にしては、あまりに五感が、鮮明すぎた。


部屋に充満する、汗と、安物のワインと、そして、媚薬の甘ったるい匂い。

耳を貫く、エルの、嬌声。

そして、グッズの、獣のような、荒い息遣い。


リビングのテーブルの上に置かれた、菓子の箱のことが、ふと頭をよぎった。彼は、この部屋で、妻と一緒に、あの菓子を食べるはずだったのだ。その、ささやかな幸福を、手に入れるはずだった。


 


媚薬の効果なのだろうか。アキラは、最近通い始めた色街の店で、同じような光景を何度か目にしていた。虚ろな瞳、感覚の世界だけに沈み込み、周囲への注意を一切失ってしまった女たちの姿を。


だが、まさか、自分の妻が。自分の親友と。自分のベッドの上で。


二人は、まだ、アキラの存在に気づいていないようだった。


その瞳は虚ろで、焦点が合っておらず、ただ目の前の快楽だけに、その精神の全てを委ねてしまっている。


アキラが部屋に入ってきても、彼らがその行為をやめる気配は、微塵もなかった。


 


(……なぜ?)


アキラの頭の中に、その、あまりに単純な疑問が、繰り返し響き渡る。


(なぜ、エルが?)

(なぜ、グッズさんが?)

(なぜ、俺の家で?)

(なぜ、俺のベッドで?)

(なぜ、俺がいるのに、やめないんだ?)


最後の疑問が、彼の心の中で、大きく、大きく膨れ上がっていく。


それは、もはや嫉妬や、悲しみといった、人間的な感情ではなかった。


もっと根源的な、自らの存在そのものを、根こそぎ否定されたかのような、絶対的な屈辱。


俺は、ここにいる。お前たちの、すぐ目の前に。


それなのに、お前たちの目には、俺が映っていないのか。


俺という存在は、お前たちの快楽の前では、道端の石ころほどの価値もないというのか。


 


ぷつり、と。


アキラの頭の中で、何かが切れる音がした。


それまで彼の思考を支配していた混乱と、悲しみと、疑問が、まるで沸騰したかのように、一つの感情へと収斂していく。


―――殺意。


どす黒く、熱く、そしてどこまでも純粋な、殺意。


 


視界が、赤く染まっていく。


耳元で、獣のような、低い唸り声が聞こえた。


それが、自分自身の喉から発せられていることに、彼は気づかなかった。


彼の身体は、思考よりも先に、動いていた。


腰に下げた、愛用のバスターソードの柄を、強く、強く握りしめる。


 


一歩、また一歩と、ベッドへと近づいていく。


その足音に、ようやく、グッズが気づいたようだった。媚薬で濁った彼の瞳が、驚愕に見開かれる。


「……アキ、ラ……?」


だが、もう、遅すぎた。


 


ザシュッ、という、生々しい音が、部屋に響き渡った。


アキラの振り下ろした剣は、何の抵抗もなく、まず、親友だった男の背中を、深々と切り裂いていた。


次に、彼は、まだ何が起きたのか理解できていない妻の、その驚愕に見開かれた青い瞳を見下ろした。


そして、その白い胸に、剣の切っ先を、突き立てた。


剣が、肉を貫く感触。

アキラは、その手応えを確かに感じていた。


だが、彼が期待していた、あるいは当然起こるべきだと思っていた反応は、どこにもなかった。

悲鳴も、苦痛に歪む顔も、命乞いも。


刺されたはずの二人は、まだ、動いていた。


その瞳は虚ろなまま、アキラの存在など映してはいない。

ただ、媚薬によってもたらされた、偽りの快楽の波の中で、喘ぎ続けている。


胸に剣が突き立ったままのエルが、恍惚とした表情で、グッズの首筋に顔を埋めた。


その、あまりに人間離れした光景が、アキラの中に残っていた、最後の理性の楔を、完全に引き抜いた。


(……痛くないのか? 苦しくないのか? 俺がお前たちを殺そうとしているのに、なぜ、まだそんな顔でいられるんだ!?)


激情が、思考を焼き尽くす。


彼は、獣のような咆哮を上げながら、何度も、何度も、二人の身体に剣を突き立て続けた。


肉を断ち、骨を砕く、鈍い音が、静かな部屋に響き渡る。


それでも、二人は苦しまなかった。

ただ、その動きが、ゆっくりと、ゆっくりと、弱々しくなっていくだけ。


やがて、その動きも、完全に止まった。


 


―――そして、静寂が訪れた。


 


部屋に響いていたのは、アキラ自身の、荒い息遣いだけだった。


はっ、はっ、と、まるで長距離を全力で走り抜けたかのように、肩で息をする。


手の中で、ずしりと重い剣の感触。

べっとりと付着した、生温かい液体の感触。


視界を覆っていた赤い霞が、ゆっくりと晴れていく。


そして、彼は、見た。


血の海と化した、自分たちの寝室。

動かなくなった、二つの亡骸。

その胸に、深々と突き立った、自分の剣。


「……あ……ああ……」


言葉にならない声が、喉から漏れた。


自分が、何をしてしまったのか。


その、動かしようのない現実が、彼の思考を、今度は冷たい絶望で塗りつぶしていく。


エルを殺した。グッズさんを殺した。


愛する妻と、唯一の親友を、この手で。


 


リビングのテーブルの上に置かれた、菓子の箱が、ふと目に入った。


彼女の喜ぶ顔が見たくて、買ったのだ。

二人で、一緒に食べるはずだったのだ。


吐き気が、胃の底から込み上げてくる。


(……殺した)


その事実が、彼の心を、恐怖で支配した。


元の世界の常識が、彼の頭の中で警鐘を鳴らす。


殺人。

それは、いかなる理由があろうとも、決して許されることのない、絶対的な大罪だ。


捕まれば、死罪か、あるいは一生牢獄の中だ。


この国での彼の功績や名声が、あるいは罪を軽くするかもしれない――

そんな、この世界の常識は、彼の頭には微塵も浮かばなかった。


(逃げなければ)


 


思考よりも先に、身体が動いていた。


彼は、衝動的に、しかし手慣れた様子で、旅支度を整え始めた。


革袋に、ありったけの金貨と食料を詰め込み、マントを羽織る。


一度だけ、彼は寝室を振り返った。


そこに広がっていたのは、彼が自らの手で破壊した、かつての楽園の、無残な残骸だった。


アキラは、アパートの扉を静かに開けると、夜の闇の中へと、転がり込むようにして飛び出した。


当てもない。

ただ、北へ。王国法の手が及ばぬ、無法地帯へ。


その背後で、テーブルの上に置かれた菓子の箱が、ランプの光を浴びて、静かに佇んでいた。


その箱が、誰かに開けられることは、もう、永遠にない。




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