3章14節 閑話休題:アキラのいない一日
王都での新しい生活が始まって、三ヶ月が過ぎました。
アパートの窓から差し込む朝陽が、部屋の床を暖かく照らしてくれる。
隣で眠っていたはずの夫の大きないびきが聞こえないのは、少しだけ寂しくもあるけれど、その分、朝の時間は私のもの。
この静けさが、私は結構気に入っていました。
この暮らしができるようになったのは、ひとえに、あのアキラが命がけで戦ったヒュドラ討伐の報酬のおかげです。
ギルドから手渡された、ずしりと重い革袋。
それは、これまでのどんな報酬とも違う、確かな重みを持っていました。
王都に帰還して数日が過ぎた、ある日の夜のことです。
宿屋のベッドで、アキラがふと、子供のように言いました。
「なあ、エル。そろそろ宿屋を出て、アパートみたいなところに住んだりは、できないのかな?」
その、あまりに無邪気な提案に、私は思わず苦笑してしまいました。
この人は、本当に金銭のことには無頓着なのですから。
でも、その言葉は、私の心にも小さな灯をともしました。
(……そうね。あの大金があれば、もしかしたら……)
私は、頭の中で必死に計算をしました。
ヒュドラ討伐の報酬金。
それに、私の懐の奥にある、最後の切り札。
あの夜、ガンサーさんから頂いた、もう一つの革袋。
これに、ほんの少しだけ手伝ってもらえば、きっと……。
「……そうね。明日、探してみましょうか」
私の言葉に、アキラは「本当か!」と、子供のようにはしゃいでいました。
そうして、私たちは王都の壁の内側、ギルドからもそう遠くない、静かな地区に、この小さなアパートの一室を借りることができたのです。
広くはないけれど、日当たりの良いリビングと、ささやかな寝室、そして何より、自分たちだけの台所がある。
それは、紛れもなく、私たち二人だけの「城」でした。
その日から、私たちの生活は、ようやく本当の意味で始まったような気がしました。
アキラは、これまで以上に仕事に精を出し、パーティー「希望の園」の名は、王都のギルドで確固たるものになっていきました。
そして、そんな新しい生活にもすっかり慣れた、ある日のこと。
アキラは、一ヶ月に及ぶ、初めての長期護衛依頼へと旅立っていったのです。
北方の交易都市ドランメンまで、商人のお偉方を護衛するのだと。
「心配するな、エル。ただの護衛だ。ヒュドラの時みたいな、無茶な戦いにはならないさ」
彼はそう言って、私の不安を拭うように優しく笑うと、仲間たちと共に、北の門へと消えていきました。
そして、彼が旅立ってから、十日が過ぎました。
私は、アパートの寝室で一人、静かに目を覚まします。
私は、いつもよりゆっくりと時間をかけて身支度を整えます。
朝食は、台所で焼いたパンと、残っていた野菜で作った簡単なスープ。
宿屋の食堂とは違う、自分だけの味。
午前中は、家事に追われました。
部屋の隅々まで丁寧に掃除をし、窓を開けて新しい空気を入れる。
アキラが旅立つ前に置いていった、少しだけ綻びのある予備のシャツを取り出し、丁寧に繕います。
彼がいつ帰ってきても、心地よく過ごせるように。
それは、彼の帰りを待つ、妻としての私の大切な仕事でした。
用事を済ませた後、私は買い物かごを手に、市場へと向かいました。
一人でこの賑やかな大通りを歩くのにも、もうすっかり慣れたものです。
色とりどりの野菜、威勢のいい魚屋さんの声、焼きたてのパンの甘い香り。
その全てが、私の心を浮き立たせます。
そして、市場での買い物を終えた後、私は一軒の小さな喫茶店の前で足を止めました。
かつて「砂嵐」のリアさんたちが話していた、「雪どけイチゴのタルト」。
(たまには、自分へのご褒美も、いいわよね)
私は、意を決して店の扉を開け、けっして安くはないそのお菓子と、それに合うという花の香りの紅茶を、一緒に注文しました。
運ばれてきたタルトは、まるで宝石のように美しく、一緒に頼んだ紅茶からは、ふわりと甘い花の香りが立ち上っていました。
一口食べた瞬間、私の口の中に広がる、甘酸っぱくて、夢のような味。
それは、私が王都に来てから、ずっと、ずっと憧れていた味でした。
店の窓から差し込む柔らかな日差しの中で、私は一人、静かな幸福感に包まれていました。
満足感と共にアパートに戻った頃には、陽はすっかり傾いていました。
一人きりの部屋は、昼間よりも少しだけ、広く、そして静かに感じられます。
私は、市場で買ってきた新鮮な野菜でサラダを作り、残っていたスープを温め、それから小さな干し魚を焼いて、一人、質素だけれど栄養のある夕食をとりました。
そして、ランプの灯りの下、先日買ったばかりの新しい布地を広げます。
(これで、アキラの次の旅のための、もっと丈夫なマントが作れないかしら)
彼の喜ぶ顔を想像すると、自然と笑みがこぼれました。
夜が更け、部屋の窓から外を眺めます。
夫が向かった北の空を見上げながら、私はただ、彼の無事を祈りました。
早く帰ってきて、このタルトの味を、あの人に教えてあげなくちゃ。
そして、今度は二人で食べに来よう。
私の願いは、そんなささやかなものでした。




