1章3節「覚醒と戸惑い」
硬い藁のベッドは、しかし心地よい疲労感に包まれた明の意識を、すぐに深い眠りへと誘った。
―――夢を見た。
オークの振り下ろす大斧をいなし、ゴブリンの群れを薙ぎ払う。銅の剣を振るうたびに、返り血が視界を赤く染めた。終わりのない戦いの夢。だが、その合間に、ふと別の感覚が混じり込む。背中に感じた、少女の柔らかな重みと確かな体温。うなじにかかる甘い吐息と、耳元で囁かれたか細い声。それが誰だったのかを思い出す前に、明の意識は再び深い闇へと落ちていった。
次に目を開けた時、窓から差し込む陽光が、部屋の埃をきらきらと照らしていた。
(……やばい、寝坊した!)
全身を貫く、強烈な焦燥感。灰色の日常に染みついた社畜の習性が、明をベッドから弾き飛ばした。遅刻だ。上司の怒声が幻聴のように聞こえる。慌ててスーツを探そうとして、自分の格好が皮の鎧のままであることに気づき、動きが止まった。
そこは、鈴木のアパートではない。見慣れない、質素な木の家。
(……ああ、そうか。ビヨンド・アヴァロンの中か)
昨夜の出来事が、ゆっくりと記憶の底から浮かび上がってくる。森の散策、ゴブリンとの戦闘、そしてエルと名乗った少女。そうだ、自分はまだゲームの中にいるのだ。安堵のため息をつくと同時に、新たな疑問が頭をもたげた。
(おかしい……)
もうとっくに、午前零時は過ぎているはずだ。サービス終了時刻を迎えれば、強制的にログアウトされると鈴木は言っていた。それなのに、自分はまだこの世界にいる。
「……ログアウト」
明は、ゲームのマニュアルで読んだコマンドを、小声で呟いてみた。しかし、何も起こらない。視界の隅に表示されるはずのシステムメニューが、どこにも現れないのだ。
「メニュー表示。システムコール。……くそっ、なんだってんだ!」
焦りが募る。何度試しても、ゲームからの離脱を試みるコマンドは、虚しく空を切るだけだった。鈴木が、気を利かせて少し長めに遊ばせてくれているのだろうか? いや、それならそれで、そろそろ起こしに来てくれてもいい頃合いだ。それとも、何か致命的なバグでも発生したのだろうか。最悪の事態が頭をよぎり、背筋に冷たい汗が流れた。
コンコン、と控えめなノックの音がした。
「恩人様、お目覚めでいらっしゃいますか?」
ドアの向こうから聞こえてきたのは、穏やかな老婆の声だった。村長の奥さんだ。
「あ、はい。起きてます」
明は努めて平静を装って答える。相手はNPCだと分かっているが、そのあまりに自然な物腰に、つい丁寧な言葉遣いになってしまう。ドアが静かに開き、村長の奥さんが朝食の載った盆を手に、にこやかな笑みを浮かべて入ってきた。
「昨夜はよくお休みになれましたか? 朝餉の用意ができましたので、お持ちしました」
木の皿に載っているのは、昨夜と同じ黒パンと、ベーコンのような分厚い干し肉、そして湯気の立つスープ。明は礼を言ってそれを受け取り、戸惑いながらも木のスプーンを手に取った。
「あの……」
「はい、なんでございましょう?」
「今、何時くらいでしょうか?」
「そうでございますねえ。もう皆が畑仕事に出てしばらく経ちますから、八時をとっくに回った頃合いかと」
八時。現実世界なら、とうに始業時刻を過ぎている。明の顔から、さっと血の気が引いた。
「恩人様はどちらかへ向かわれるのですか?」
奥さんの問いに、明は我に返った。予定など、あるはずもない。今はただ、この世界から脱出する方法を探すことしか考えられない。だが、それをこのNPCに話したところで、意味があるとは思えなかった。
「いえ、特に何も……。もし、ご迷惑でなければ、しばらくこの村に滞在させていただくことは可能でしょうか」
この村にいれば、何か情報が得られるかもしれない。あるいは、運営からの何らかのアナウンスがあるかもしれない。そんな淡い期待を込めて、明はそう口にした。
「まあ! それはありがたい。この家はもともと空き家ですので、どうぞご自由にお使いください。何かあれば、いつでも私どもに」
奥さんは心底嬉しそうに言うと、深々とお辞儀をして部屋を出ていった。
一人残された明は、手つかずだった朝食に視線を落とす。今は食事どころではなかったが、ここで食べなければ、この先の体力も気力も持たないだろう。覚悟を決めてスープを一口すする。その瞬間、明は目を見開いた。
(……味が、する)
昨夜は感じなかった、滋味深い肉の出汁と、野菜のほのかな甘み。パンをかじれば、香ばしい麦の風味が口の中に広がる。これは、ゲームではない。本物の食事の味がした。
混乱したまま食事を終えた明は、ふらふらと外に出た。村は朝の活気に満ちている。畑を耕す男たち、井戸端で洗濯をする女たち、元気に走り回る子供たち。その全てが、作り物とは思えない生命感に溢れていた。
どうなっているんだ。
どうすれば、ここから出られるんだ。
明は、答えのない問いを頭の中で繰り返しながら、目的もなく、ただ村とその周辺を一日中さまよい歩いた。
できるだけ矛盾が少ないようにというのを心がけて書いています。
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