3章1節「王都にて始まる日々」
私の名前はエル。ウンドレダルという、辺境の小さな村で生まれ育ちました。
そして今、私の目の前には、これまで物語の中でしか知らなかった、信じられない光景が広がっています。
王都、スタヴァンゲル。
そのあまりの荘厳さに、私はただ息をのむしかありませんでした。
昼過ぎ、私たちは王都の門へと続く、長い長い列の最後尾に並びました。
門にたどり着く前から、城壁に沿うようにして、びっしりと家々が立ち並んでいます。そのほとんどが、粗末な作りの掘っ立て小屋。
スラム、というものなのでしょう。
ウンドレダル村の全てが、この一角に収まってしまいそうなほどの規模に、私は少しだけ怖気づいてしまいました。
でも、そこに住む人たちは、道にまで溢れてくるようなことはなく、ただ淡々と、自分たちの暮らしを営んでいるようでした。
幸い、列は思ったよりもスムーズに進み、私たちはそれほど待つこともなく、巨大な城門をくぐることができました。
その瞬間、私の五感は、情報の洪水に呑み込まれたのです。
どこまでも続く石畳の道。
ひしめき合うようにして建ち並ぶ、見たこともないほど高い建物。
行き交う人々の、怒涛のような喧騒。
香辛料の刺激的な匂い、焼きたてのパンの甘い香り、そして、どこからか聞こえてくる、陽気な楽団の音色。
ハーマルですら大都会だと思ったのに、ここは、まるで違う世界でした。
「―――よし、このキャラバンはこれにて解散だ! 各自、達者でな!」
商人の声で、私ははっと我に返りました。
三ヶ月もの間、寝食を共にしてきた旅の仲間たちが、それぞれの目的地へと散っていきます。
「さて、と。まずは宿探しだな。こっちだ、ついてきな」
グッズさんが、慣れた様子で私たちを先導してくれます。
彼が案内してくれたのは、大通りから少し入った路地にある、清潔で、家庭的な雰囲気の宿屋でした。
「一泊、銀貨が十枚……」
提示された金額に、私は内心で舌を巻きました。
これまで泊まってきた村の宿屋の、倍以上の値段です。
グッズさんに聞くと、王都ではこれでも格安の部類に入るらしいのです。
(アキラの稼ぎに、期待するしかないわね……)
まだアキラがレールダルで売った毛皮の代金は残っていますし、最悪、「砂嵐」さんたちから頂いたお礼もあります。
でも、それは最後の手段。
アキラは、そんな私の心配など露知らず、初めて見る立派なベッドに、子供のようにはしゃいでいます。
もう、こういうお金に関心がないところも、アキラのいいところであり、欠点でもあるのです。
時々、本当に少しだけ、イラっとしますけど(笑)。
「じゃ、俺は自分の部屋に荷物を置いてくらあな。夕飯時に、また迎えに来るぜ」
そう言って、グッズさんは去っていきました。
王都に自分の部屋を持っているなんて、やっぱりすごいな。
私たちも、早く宿屋暮らしから抜け出して、自分たちの部屋を借りたいものです。
その夜、グッズさんは約束通り迎えに来てくれて、三人で彼の行きつけだという賑やかな食堂へ向かいました。
木の扉を開けた途端、カウンターの奥から、丸太のように太い腕を組んだおかみさんの、怒鳴り声のような歓迎が飛んできます。
「おやまあ、グッズじゃないか! 生きてたのかい、この唐変木! とっくの昔に、どこぞで野垂れ死んだのかと思ってたよ!」
「がはは、ひでえ言い草だな、母ちゃん!」
周りの席からも、
「よっ、グッズ! 生きてたのか!」
「どこ行ってたんだよ!」
「儲けたんだったら奢れよ!」
と、次々に声がかかります。
その全てに、彼は軽口で返していく。
本当に、みんなに好かれているんだな、と私は思いました。
ただ、何人かの綺麗な女冒険者さんが、親しげに彼の腕に絡んできたのには、少しだけ、本当に少しだけ、妬けてしまいましたけれど。
食事は、本当に美味しかった。
宿に戻ると、グッズさんは「明日は野暮用がある」と言って、自分の部屋へと帰っていきました。
久しぶりに、アキラと二人きりの夜。
村を出てから、こんなにゆっくりできるのは初めてかもしれません。
アキラの、少し不器用で、でもどこまでも真面目で必死な愛情表現も、私は嫌いではありません。
むしろ……。
(……でも、あの人、体力が底なしだから……)
そう思った時には、もう朝でした。
やっぱり、寝不足です。腰のあたりに、微かな、でも確かな違和感を感じます。
私は、崩れ落ちそうになる身体にぐっと力を入れ、何でもないふりをして、朝食のために食堂へと向かいました。
決して、私が朝に弱いわけではないのです。断じて。
その日は、一日中、アキラと二人で王都を見て回りました。
ハーマルでも驚きましたけれど、王都の活気は桁違いです。
まっすぐ歩くのも難しいほどの人通りに、少しだけ目が回ってしまいます。
私たちは、手を繋いで、迷子にならないようにしながら、色とりどりの露店を冷やかして歩きました。
お昼過ぎには、甘い香りに誘われて、私たちは小さな喫茶店に入りました。
そこで、奮発してパンケーキを頼んでしまったのです。
ふわふわの生地に、蜂蜜と木の実がたっぷりかかっている。
一口食べた瞬間、私は、幸せでとろけてしまいそうでした。
ほっぺたが落ちるって、きっとこのことですね。
きっと、私の顔は、自分でも見たことがないくらい、にやけてしまっていたのでしょう。
アキラが、おかしそうに私の頬をつついて、からかってきます。
もう、ぷんぷんです。
夕方、遊び疲れて宿に戻ると、ちょうどグッズさんが私たちを訪ねてきたところでした。
「よう。いいところに来たな。晩飯、行こうぜ」
その夜は、昨日とは違う、少し落ち着いた雰囲気の食堂に連れて行ってくれました。
そこで、彼は、まるで約束でもしていたかのように、あっさりと切り出したのです。
「なあ、アキラ。パーティーのメンバー、何人か見繕っておいたんだが、明日にでも会ってみるか?」
仕事が早い。
こんなに早く見つけてきてくれるなんて、思ってもみませんでした。
旅の途中でも思ったけれど、この人は、少しチャラチャラした態度とは裏腹に、驚くほど要領が良くて、何でもそつなくこなしてしまう。
本当に、すごい人です。
アキラは、もちろん、目を輝かせて頷いていました。
明日、朝からメンバー候補の人たちと会って、簡単な顔合わせと力試しをして、午後にはギルドへ登録に行く。一日がかりの、忙しい日になりそうです。
「エルを一人にさせるのは、悪いが……」
アキラが、申し訳なさそうに私を見ます。
心配してくれるのは、もちろん嬉しい。
でも、今はそんなことより、早くパーティーを結成して、きちんとお金を稼げるようになってほしいのです。
まだ余裕があるとはいえ、この宿代は、決して安くはないのですから。
(……もう、そういうところだぞ、アキラ)
私は、心の中で小さく溜息をつくと、夫に向かって、最高の笑顔で言いました。
「大丈夫よ。私のことは気にしないで。それより、明日は、頑張ってね!」




