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2章8節「初めての依頼と小さな贈り物」

モーエン村を出発し、さらに十数日が過ぎた頃。


これまで旅をしてきた、なだらかな丘陵地帯の風景は、徐々にその様相を変え始めていた。街道はより広く、硬く踏み固められ、他のキャラバンや、王都へ向かうのであろう立派な馬車とすれ違うことも増えてくる。シルヴァ川の大きな支流が、街道に沿うようにして、ゆったりと流れていた。


そして、旅に出て一ヶ月以上が過ぎたある日の昼下がり。一行の前に、ついにその姿が現れた。


「……大きい……」


エルが、感嘆の声を漏らした。


これまで見てきたどんな村や町よりも、遥かに巨大な石壁。その高さは三メートルを超え、長い歴史の中で何度も補修されたであろう跡が生々しく残っている。壁の上には、等間隔に見張り台が設置され、槍を持った兵士の姿が見えた。かつて、この町が森林開拓の最前線であったことを物語っている。人口三千人の中継都市、ハーマルだ。


町の門をくぐると、その活気に二人は圧倒された。レールダルとは比較にならないほど多くの人々が行き交い、その喧騒は耳を聾するほどだ。道の両脇には、様々な商品を並べた露店が所狭しと軒を連ね、香辛料の刺激的な匂いや、焼きたてのパンの甘い香り、そして鉄を打つ甲高い音が混じり合って、町全体が生きているかのように脈打っていた。


キャラバンの中心である商人は、町の広場に到着すると、一行に向かって声を張り上げた。


「―――よし、今夜はここまでだ! このキャラバンは、これにて解散とする! 俺たちはここで、南方から運んできた物資の荷をほどき、新たに仕入れを行う。次のサンドネス村へ向けて出発するのは、五日後の朝だ。参加したい者は、その刻にこの広場へ集まるように!」


王都への旅を急ぐ者たちは、その言葉を聞くと、商人に短く礼を述べ、すぐに出発する別のキャラバンを探しに行ってしまった。しかし、アキラたちは特に旅を急いでいるわけではない。むしろ、この活気ある町をゆっくりと見て回れることに、心を躍らせていた。


「よかったわね、アキラ。五日間もここにいられるなんて!」

「ああ。まずは、ちゃんとした宿を探さないとな」


その役目は、当然のようにグッズが引き受けてくれた。彼は、まるで自分の庭であるかのように、町の裏路地をすいすいと進んでいく。


「この辺りの宿は、表通りより少し安い割に、飯が美味いんだ。俺のおすすめさ」


彼が案内してくれたのは、少し古びてはいたが、清潔で、家庭的な雰囲気の漂う小さな宿屋だった。


その日の午後は、三人で町を散策して過ごした。エルは、生まれて初めて見る、色とりどりの布地や、きらびやかな銀細工の露店に、子供のようにはしゃいでいる。アキラは、そんな彼女の姿を、ただただ愛おしい気持ちで見つめていた。自分の力で、彼女をこんな場所に連れてくることができた。その事実が、彼の胸を温かいもので満たしていた。


夕食は、グッズが知っているという、少し高級な料理屋でとることにした。


「ここの猪肉の黒ビール煮込みは、絶品なんだぜ」


運ばれてきた料理は、村では決して味わえない、複雑で豊かな味がした。三人は、旅の成功と、これからの未来を祝して、エールで乾杯した。


 

□■□■□■ 

 


翌日。


その日は、朝から二人きりで過ごすことにした。グッズは、「野暮用がある」と言って、どこかへ出かけてしまった。


アキラとエルは、手を繋いで、昨日見て回れなかった場所を、あてどなく歩く。まるで、付き合いたての恋人同士のように。エルは、道端で売られていた、木の実を飴で固めた素朴な菓子を買い、その半分をアキラの口へと運んだ。


「甘いな」

「えへへ。美味しいでしょう?」


その、何でもないやり取りの一つひとつが、アキラにとっては宝物のように感じられた。


彼は、この世界に来て初めて、心の底から幸福だと感じていた。


村を救ったという、確かな自負。

愛する妻の、弾けるような笑顔。

そして、心から信頼できる、最高の親友。


元の世界の灰色の日常では、決して手に入れることのできなかった、確かな手応えのある人生。


その夜、宿屋の部屋で、二人はまたしても互いの身体を求め合った。旅の疲れなど、どこかへ吹き飛んでしまったかのようだった。


 

□■□■□■ 

 


中継都市ハーマルでの滞在三日目の朝。


アキラとエルは、宿屋の食堂で、焼きたてのパンと温かいスープの朝食をとっていた。昨日の町でのデートの余韻が、まだ二人を穏やかな幸福感で包んでいる。そこへ、いつものように陽気な声が割り込んできた。


「よお、二人とも。朝から熱々だな」


グッズは、すでに食事を終えていたのか、空の皿を片手にひらひらと手を振った。


「実は、さっきギルドで面白いもんを見つけてな。簡単な依頼なんだが、興味あるなら来るかい? なんでも、町の裏山の中腹でゴブリンを見た奴がいるらしくて、その調査だ。俺一人でも十分なんだが、予行演習にはちょうどいいかと思ってな」


「ゴブリンの調査……」


その言葉に、アキラの目が輝いた。依頼、ギルド、調査。それは、彼が「砂嵐」から聞いて以来、憧れていた冒険の世界そのものだった。


「行く! 行かせてくれ!」


食い気味に答えたアキラだったが、次の瞬間、はっと我に返って隣のエルを見た。そうだ、自分が行ってしまえば、この見知らぬ町でエルが一人になってしまう。彼は、途端にばつが悪そうな顔になった。


「あ……いや、でも、エルを一人にするわけには……」


そんな夫の様子に、エルはくすりと笑った。


「もう、子供みたいなんだから。私は大丈夫よ」


彼女は、わざとらしく大きな欠伸をしてみせる。


「むしろ、誰かさんのせいで、昨夜はあまり眠れなかったんですから。私は部屋に戻って、ゆっくり二度寝させてもらうわ。目が覚めたら、昨日見つけた布地屋さんでも、もう一度見てこようかしら。だから、遠慮なく行ってらっしゃいな」


その、あまりに直接的な冗談に、アキラは顔を真っ赤にして狼狽えるしかなかった。


 

□■□■□■ 

 


町の門を出て、一時間ほど歩くと、目的の山が見えてきた。鬱蒼とした森というよりは、雑木林といった趣の、なだらかな山だ。


「この辺りで見たって話だが……」


グッズが周囲を見渡す。アキラは、一年以上続けてきた狩人の目で、地面に残された痕跡を注意深く探した。


「……あった。こっちだ」


彼が指差した先には、素人目には分からないほどの、しかし確かな獣道と、そこに残された小さな足跡があった。猟師としての経験が、ここではグッズを上回っていた。アキラは追跡の先頭に立ち、グッズは周囲を警戒しながらその後ろに続く。


昼過ぎには、彼らは目的の場所を発見した。岩肌が剥き出しになった崖の中腹に、人が屈めば入れる程度の、小さな洞穴が口を開けている。


「……ここだな」


二人は、少し離れた茂みに身を隠し、じっと様子を窺った。洞穴はそれほど深そうではなく、他に抜け道があるようにも見えない。


「奥に何匹かいるかもしれねえが、大した数じゃねえな。せいぜい、五匹から十匹ってとこだろ」


アキラもグッズも、その点では意見が一致していた。


「どうする、アキラ。この依頼は調査だけでも完了だが、もし討伐して証拠を持ち帰れば、追加で報酬がもらえることになってる」

「もちろん、やるさ」


アキラは、即答した。グッズは、その答えを待っていましたとばかりに、にやりと笑う。


「よし来た。じゃあ、行くか」


やる気に満ちて腰を上げようとするアキラを、グッズが手で制した。


「待て待て、焦るなよ、アキラ。こういう、出口が一つしかねえ狭い場所を攻める時はな、やり方があるんだ」


グッズはそう言うと、腰の革袋から、こぶし大の、硬く丸められたボールのようなものを取り出した。そして、懐から取り出した燧袋(ひうちぶくろ)から取り出した火種で、そのボールの導火線らしきものに火をつけた。


「まあ、見てろって」


彼は、煙を吹き始めたボールを、正確な投擲で洞穴の中へと放り込んだ。


次の瞬間、洞穴の中から、けたたましいゴブリンたちの叫び声と共に、もくもくと刺激臭のする煙が噴き出してきた。


「うげっ、げほっ!」


煙に燻し出されたゴブリンたちが、涙と鼻水を流しながら、転がるようにして外へと飛び出してくる。


「―――今だ!」


グッズの叫び声と同時に、彼は茂みから飛び出し、一番近くにいたゴブリンの首を刎ねた。アキラも遅れじと飛び出し、混乱しているゴブリンたちを、面白いように切り伏せていく。


戦闘は、あっという間に終わった。


煙が収まるのを待って洞窟内を調べたが、すでにゴブリンの姿はなかった。住み着いて日が浅いのか、食べ物を食い散らかした跡があまりない。二人は、討伐の証拠としてゴブリンの耳を切り取ると、意気揚々と町へと戻った。


 

□■□■□■ 

 


ハーマルの冒険者ギルドは、陽も傾きかけた夕暮れ時だというのに、酒の匂いと荒くれ者たちの喧騒で満ちていた。初めて足を踏み入れるその空間に、アキラは少しだけそわそわしていた。


グッズは、そんなアキラの様子を面白そうに眺めながら、手慣れた様子で受付へと向かう。依頼の完了を報告し、討伐証明であるゴブリンの耳を提出すると、受付の女性は慣れた手つきでそれを確認し、報酬である銀貨の入った革袋を彼に手渡した。


「お疲れさん。まあ、一杯やろうぜ」


ギルドに併設された酒場で、二人はエールで乾杯した。


「ギルドってのは、こういう場所なのか」

「ああ。この後、俺たちの報告を受けて、ギルドの職員と、町の役人が何人か、あの洞窟を調査しに行くことになってる。もし、奥にまだ何かいたり、別のモンスターの痕跡が見つかったりしたら、また新しい依頼が出るってわけだ。後始末も、ちゃんとやるのがギルドのいいところさ」


グッズが、そんなギルドの仕組みを教えてくれていると、彼はふと、報酬の入った革袋から、銀貨を数枚取り出して、アキラの前に置いた。


「ほらよ。お前の分け前だ」

「えっ、いや、いい。俺は、ただ好奇心でついていっただけだし、まだギルドに登録もしてない」


アキラが慌てて遠慮すると、グッズは笑って、その銀貨を彼の手のひらに握らせた。


「馬鹿野郎、水くせえこと言うなよ。お前がいなきゃ、もっと面倒なことになってたかもしれねえんだ。それに、遠慮するほどの金額でもねえ。まあ、今日の酒代ってことで、受け取っとけ」


そう言って、グッズは「じゃあな」と軽く手を上げると、先に酒場から出ていってしまった。


一人残されたアキラは、手のひらに残る、数枚の銀貨の重みを、じっと見つめていた。


それは、決して大きな金額ではない。だが、彼にとっては、一年かけて稼いだ毛皮の代金よりも、あるいは「砂嵐」からもらった謝礼金よりも、遥かに重い価値を持っていた。


(……これが、俺が、冒険で稼いだ、最初の金か)


じわじわと、腹の底から、どうしようもないほどの高揚感が込み上げてくる。


彼は、その足で、昨日エルが目を輝かせていた、町のバザールへと向かった。そして、数ある露店の中から、小さな、しかし可憐な花の髪飾りを一つ、買い求めた。決して高価なものではない。だが、今の彼にとっては、それが何よりも価値のあるものに思えた。


早く、エルの喜ぶ顔が見たい。


アキラは、小さな贈り物を懐にしまい込むと、少しだけ早足で、彼女が待つ宿屋へと帰っていった。



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