2章7節「穏やかな日々の裏で」
9/30 昨日・一昨日は用事で初めて予約投稿を利用しました。
今日からは通常の投稿に戻しますので時間がばらけたらごめんなさい。
ソッリ村を出発した翌朝の空気は、昨日までと何も変わらなかった。
エルは、いつも通り甲斐甲斐しく夫の隣を歩き、その日の行程や食事の心配をしている。
グッズもまた、何も変わらない陽気な笑顔で、他の旅人たちに冗談を飛ばしては、朝の気怠い空気を和ませていた。昨夜の出来事を引きずるような雰囲気は、二人の間には微塵もなかった。
その日の夜、野営の準備をしていると、グッズが革袋に包んだ、まだ封の切られていないワインの瓶を二本、得意げに掲げてみせた。
「よお、アキラ。昨日の祝杯の残りだ。瓶は重くてかなわん。今夜あたり片付けちまわねえか?」
それは、旅慣れた者にとっては、ごく自然な提案だった。
アキラも、親友との語らいを心待ちにしていたため、喜んでその申し出を受けた。
そして、その夜もまた、アキラは最初に酔い潰れた。
親友との語らい、妻の笑顔。満ち足りた幸福感は、彼の警戒心をすっかり解きほぐし、心地よい眠りへと誘う。
残されたのは、エルとグッズ、そして静かに爆ぜる焚き火だけ。
二人は、アキラが眠ってしまった後も、しばらく言葉少なにご飯の残りを食べ、ワインを飲み続けた。
「……アキラの奴、本当に幸せそうだな」
グッズが、ぽつりと呟いた。
「ええ。この旅が、本当に楽しいみたい」
エルは、愛おしそうに夫の寝顔を見つめる。
「あんたみたいな、いい嫁さんがいてくれるからさ」
グッズの言葉に、エルは少しだけ頬を赤らめた。
どちらからともなく、視線が交錯する。
一度越えてしまった一線は、二度目を越えるための抵抗を、驚くほど低いものにしていた。
二人は、どちらともなく立ち上がると、アキラの穏やかな寝息を背に、森の暗闇へと、再び吸い込まれていった。
□■□■□■
その日を境に、それは二人の間だけの、密やかな習慣となった。
三日に一度ほどのペースで、アキラが先に眠りについた夜、二人は誰にも気づかれずに、短い逢瀬を重ねる。
そこには、悲壮感も、罪悪感もなかった。
この世界の価値観において、それは褒められたことではないが、魂を苛むほどの罪でもない。
アキラに隠れて共有するこの「秘密」は、二人の間に、共犯者だけが分ち合える、奇妙な絆を育んでいった。
この習慣が成立してしまったのには、一つの、皮肉な理由があった。
アキラは、宿屋のような完全にプライベートな空間では、エルに対して非常に情熱的だった。
しかし、多くの人々が寝静まっているとはいえ、すぐ近くに他の旅人がいるキャラバンでの野営中は、元の世界で培われた倫理観と、妻であるエルへの配慮から、彼は性的な関係を持つことを自制していたのだ。
夫としての、その「誠実さ」こそが、妻と親友が過ちを重ねるための、十分な時間と機会を作り出してしまっている。
その事実を、彼は知る由もなかった。
エルは、アキラとの情熱的な関係も、心から愛していた。
だが、グッズがもたらす、遊び慣れた男だけが知る、繊細で緩急に富んだ未知の快楽は、彼女の身体に初めての種類の感覚を教え込んでしまった。
彼女は、二つの異なる幸福の間で、巧みにバランスを取り始めていた。
□■□■□■
旅は、ヴィーク村、そしてモーエン村へと淡々と続いた。
街道の轍に沿って、荷馬車の軋む音と、人々の他愛もない話し声が続く。
ソッリ村を出て数日が経つと、これまで見てきた、森と平野が入り混じる風景が、少しずつその様相を変え始めた。
木々の背が低くなり、葉の色も明るい緑へと変わっていく。
やがて、一行が小さな丘を越えた時、二人の目の前に、信じられない光景が広がった。
「わあ……!」
エルは、思わずといった風に声を上げた。
「アキラ、見て! 丘が、どこまでも続いているわ!」
見渡す限りの、なだらかな緑の丘陵。
そして、その合間を縫うようにして広がる、広大な牧草地だった。
白い点のように見えるのは、羊の群れだろうか。
ウンドレダル村周辺の畑とは、その規模が比較にならない。
彼女は、子供のようにその場でくるくると回り、初めて見る地平線に目を輝かせている。
アキラもまた、その開放的な光景に言葉を失っていた。
「……ああ。広いな……」
彼は、ただそれだけを呟き、大きく息を吸い込んだ。
草いきれの匂いと、家畜の匂いが混じった、生命力に満ちた空気が肺を満たす。
そんな牧歌的な風景の中にも、脅威は潜んでいる。
ある日の夕暮れ、草むらから飛び出してきたのは、巨大な牙を持つ猪のような魔獣だった。
しかし、それもキャラバンの屈強な護衛たちの前では、ほんの数分で肉塊へと変わった。
エルはその光景に少しだけ顔を青くしたが、アキラは頼もしく彼女の肩を抱き、グッズは「今夜は猪鍋だな!」と陽気に笑った。
アキラは、ただ、幸福だった。
愛する妻は、日に日に美しくなっていくように見えた。
新しい景色を見てはしゃぐ姿も、夜、自分の腕の中ですやすやと眠る寝顔も、全てが愛おしい。
最高の親友は、いつも自分たち夫婦を気遣い、退屈な旅を楽しいものにしてくれる。
彼の語る物語は、いつだってアキラの心を躍らせた。
元の世界の灰色の日常では決して得られなかった、確かな手応えのある人生。
彼は、この旅がもたらす全ての出来事を、一点の曇りもない純粋な幸福として、ただ受け止めていた。




