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2章6節「秘密の始まり」

バーゲストの群れを撃退した翌日からのキャラバンの旅は、それまでとは空気が一変していた。


陽気な雑談は影を潜め、誰もが口数少なく、警戒を強めながら歩を進めている。昨日の襲撃は、この世界の旅が決して安全なものではないという、厳しい現実を一同に突きつけていた。


護衛たちは、アキラのいる位置を常に気にかけるようになり、商人や他の旅人たちも、彼に会釈する際には確かな信頼と尊敬の色を浮かべるようになった。だが、それは彼を特別視するというよりは、この危険な旅を生き延びるための、頼れる仲間の一人として認めた、というのに近かった。


そんな引き締まった空気の中にあっても、変わらず陽気さを振りまく男が一人だけいた。グッズだ。


「よお、アキラ! 昨日はよく眠れたかい?」


彼は、朝の気怠い空気の中、アキラとエルの元へ、からりとした笑顔でやってくる。その屈託のなさに、アキラも自然と笑みを返した。この数日で、三人はすっかり打ち解け、焚き火を囲む夜も、街道を歩く昼間も、自然と行動を共にするようになっていた。


その夜も、三人はキャラバンの中心から少しだけ離れた場所で、ささやかな焚き火を囲んでいた。エルが手際よく作った干し肉のスープをすすりながら、グッズが語る冒険譚に耳を傾ける。アキラは、子供のように目を輝かせてその話に聞き入っていた。やがて、旅の疲れと酒の心地よい酔いが回り、アキラはエルに肩を預けたまま、うとうとと船を漕ぎ始める。


「……あらあら。子供みたい」


エルが、愛おしそうに夫の髪を撫でる。


「はは、無理もねえさ。あんたみたいな可愛い奥さんをもらって、毎日じゃれ合ってりゃ、体力も尽きるってもんだ」


グッズの悪戯っぽい言葉に、エルは頬を赤らめた。アキラが完全に寝入ってしまったのを確認すると、エルは、これまで胸の内に秘めていた不安を、ぽつりとこぼし始めた。


「……あの、グッズさん。私たち、これからモルデという街へ行って、冒険者になろうと思っているんです。でも、アキラはともかく、私のような村娘に、街での暮らしが務まるのか、少しだけ……不安で」


それは、アキラの前では決して見せない、彼女の素直な弱音だった。


「それに、アキラは腕は立ちますけど、世間知らずなところがあって……。冒険者になって、本当に食べていけるのでしょうか」


グッズは、それまでの冗談めかした態度を改め、真摯な目で彼女の話に耳を傾けていた。


「……なるほどな。まあ、アキラの腕があれば、食いっぱぐれることはねえよ。それは俺が保証する。ただ……」


彼は、言葉を選びながら続けた。


「モルデ、ねえ。あそこは学術都市だから、ギルドの依頼も遺跡の調査だの、珍しい植物の採集だの、安定はしてるが、正直言って地味で、報酬もそこそこというのが多い。もちろん、依頼が途切れないってのは、新人にとっては大きな利点だがな」


「……そう、なのですか」


「ああ。正直、アキラほどの腕利きがやる仕事じゃねえと思うぜ。もっとも、あんたが、旦那にはあんまり危険な目にあってほしくないってんなら、モルデはいいかもしれねえが」


グッズはそう言うと、焚き火の薪をいじりながら続けた。


「その点、王都スタヴァンゲルは違う。あそこには、国中からありとあらゆる依頼が集まってくる。もちろん危険な仕事もあるが、ゴブリン退治から商人の護衛まで、それぞれの腕前に見合った仕事が、山ほどあるんだ。アキラの力なら、安全な仕事を選んだって、モルデよりコンスタントに稼げるとは思うぜ」


コンスタントに稼げる――その言葉は、エルの心に深く響いた。一発当てるような博打ではない。愛する夫の安全を確保しながら、確実で、豊かな生活。それこそが、彼女が心の底から望んでいるものだった。


「でも……王都には、知り合いもいませんし……」


「はは、そいつは心配いらねえよ」


グッズは、にっと笑ってみせた。


「俺はもともと王都育ちで、今もちょうど帰る途中なんだ。あんたたちが来るってんなら、安い宿探しからギルドのあれこれまで、この俺が全部面倒見てやるぜ」


その、あまりに心強い言葉。エルの心は、大きく揺れていた。


「……アキラと、相談してみます」


 

□■□■□■ 

 


翌日、エルはアキラに、昨夜グッズと話した内容を伝えた。もちろん、自分の不安を吐露した部分は巧みに隠し、「グッズさんが、アキラのことを心配していた」という体で。


「モルデは安定しているけど、王都の方が、アキラの力がもっと活かせるかもしれないって……」


そこへ、タイミングを見計らったかのようにグッズがやってくる。


「よお、話は決まったかい? まあ、無理にとは言わねえが、もし王都に来る気があるなら、遠慮なく俺を頼ってくれよな」


アキラは、悩んでいた。


知り合いのいるモルデへ行くという、堅実な道。

未知数だが、より大きな可能性を秘めた、王都への道。

そして何より、この親友となった男と、このまま別れてしまうことへの、一抹の寂しさ。


その日から、アキラが眠りについた後、エルがグッズに相談を持ちかけることが、二人の間での密やかな日課となった。そして翌日、エルはそこで得た情報を、まるで自分がキャラバンの皆から聞き集めたかのように、アキラに語って聞かせるのだった。


「グッズさんが、こんなことも言っていました」「王都のギルドでは、こういう依頼が多いそうです」


アキラは、自分のために、自分たちの未来のために、必死に情報を集め、考えてくれているエルのその健気な姿に、心を打たれていた。


 

□■□■□■ 

 


やがて、一行の前に、次の目的地であるソッリ村が見えてきた。そこは、ただの宿場村ではない。街道が、二手に分かれる、運命の分岐点。北西へ進めば、学術都市モルデへ。真北へ進めば、王都スタヴァンゲルへと至る。


キャラバンの中心である商人が、声を張り上げた。


「―――よし、今夜はソッリ村で一泊だ! 俺たちの一行は、このまま北の街道を通って王都へ向かう。明日の目的地は、次の宿場村であるヴィーク村だ! 西のモルデへ向かう者は、ここで別れとなるから、そのつもりでな!」


その言葉が、アキラの胸に重く突き刺さる。

彼は、決断を迫られていた。


ソッリ村の宿屋の小さな一部屋。ランプの頼りない光が、壁に二つの影を長く揺らしていた。外の喧騒は遠くに聞こえ、部屋の中は、明日には道が分かれるという、重い沈黙に支配されていた。


「……どうするべきか、な」


アキラは、ベッドの縁に腰掛けたまま、ぽつりと呟いた。彼の心は、モルデへの堅実な道と、王都への未知なる道との間で、激しく揺れ動いていた。


「『砂嵐』の連中がいるモルデに行けば、堅実にやっていけるかもしれん。だが、グッズさんと一緒に行く王都も……捨てがたい」


その、子供のように迷う夫の姿を、エルは静かに、しかし真剣な眼差しで見つめていた。そして、彼女は自分の願望を押し付けるのではなく、ただ、彼の背中を押すことに徹した。


「私は、アキラが決めた道なら、どこへだってついていくわ。モルデでも、王都でも。でも、一つだけ言わせて。昨日のアキラ、グッズさんと冒険の話をしている時、本当に楽しそうだった。私は、あんな顔をしているアキラを、もっと見ていたいな」


その、どこまでも自分を信じ、自分の幸福を願ってくれる言葉に、アキラの心にあった最後の迷いが、すっと消え去った。彼は、エルをそっと抱きしめ、決意を固める。


「……よし。王都へ行こう」


 

□■□■□■ 

 


翌朝、夜が明けきらぬうちから、アキラとエルはすでに出発の準備を整え、王都へ向かう北の門の前で、キャラバンの集合を待っていた。彼らの表情に、もはや迷いはない。


しばらくして、まだ少し眠そうな顔をしたグッズが、あくびをしながら現れる。彼は、すでにそこにいる二人の姿を見て、少し驚いたような顔をした。


「よお、二人とも。早いな。……俺に、別れの挨拶でもしに来てくれたのか?」


その、少し寂しそうな響きを持つ冗談に、アキラは穏やかに、しかしはっきりと首を横に振る。そして、親友に向かって、まっすぐに手を差し出した。


「グッズさん。俺たちも、王都へ行く。よろしく頼む」


その言葉に、グッズは一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに状況を理解し、これまでで一番の笑顔を浮かべた。彼は、アキラの手を力強く握り返す。


「……おうよ! 任せとけ!」


三人の新しい旅は、この確かな握手と共に、静かに始まった。


 

□■□■□■ 

 


その夜の野営地は、これまでにないほど陽気な空気に包まれていた。


「いやあ、めでてえ! アキラの決断に、乾杯だ!」


グッズは、どこから取り出したのか、あらかじめ用意していた上質なワインの瓶を、得意げに数本、掲げてみせた。アキラも、親友との未来を祝う嬉しさから、いつもよりペースを上げてその芳醇な液体を喉に流し込む。一本目の瓶が空になる頃には、彼の頬はすっかり赤らんでいたが、気分は最高だった。


しかし、その屈強な見た目に反して、彼の酒量は人並みだった。特に、この世界の濃厚なワインは、彼の身体には少しばかり強すぎたのかもしれない。二本目の瓶が半分ほどになった頃、彼の呂律は怪しくなり、やがて、焚き火のそばで大の字になって、穏やかな寝息を立て始めた。


「……あらあら。子供みたい」


エルが、愛おしそうに夫に毛布をかける。


「はは、まあ、今日の主役だからな。ゆっくり寝かせてやろうぜ」


グッズはそう言うと、まだ封の切られていない新しいワインの瓶を、エルの前にことりと置いた。


焚き火の炎が、ぱちぱちと静かに爆ぜる。アキラの穏やかな寝息だけが、二人の間の沈黙を埋めていた。


エルは、村での晩酌で慣れているため、お酒には比較的強い。グッズもまた、彼の陽気な性格通り、酒には滅法強い。二人は、アキラが食べ残したチーズをつまみながら、どちらからともなく、またとりとめのない話を始めた。


グッズが語る、王都のギルドの噂話。エルが語る、ウンドレダル村の素朴な祭りの思い出。


どれほどの時間が過ぎただろうか。


さすがのエルも、長旅の疲れと慣れないワインで、少し酔いが回っていた。彼女は、丸太に腰掛けたまま、ふらり、と身体のバランスを崩し、背後の暗闇へとゆっくりと倒れそうになる。


「おっと」


同じく酔っていたグッズは、その姿を見て、とっさに彼女の腕を掴んで引き寄せた。

しかし、酔いも手伝って、その力は強すぎた。前のめりになったエルの身体は、グッズの胸に、柔らかな感触を残して倒れ込む。二人の顔が、互いの吐息がかかるほどの、至近距離になった。


空気が、変わった。


それまでの陽気な雑談は、どこかへ消え失せていた。聞こえるのは、燃え盛る焚き火の音と、アキラの寝息、そして、すぐ目の前で繰り返される、エルの、少しだけ速くなった呼吸の音だけ。


ワインの甘い香りと、彼女の髪から漂う、微かな花の香り。


グッズは、目の前にある、酒で火照ったエルの唇から、目が離せなかった。


ほんの、一瞬の躊躇い。

そして、彼は、抗えない衝動のままに、その唇を奪った。


エルは、抵抗しなかった。

驚くでもなく、拒絶するでもなく。


ただ、その長い睫毛を伏せ、そっと、目をつむった。


唇が、ゆっくりと離れる。二人は、何も言わなかった。


ただ、熱を帯びた瞳で、互いをじっと見つめ合う。その視線が、言葉以上の全てを物語っていた。


どちらからともなく、二人はそっと立ち上がった。

そして、幸せそうに眠るアキラに背を向けると、焚き火の光が届かない、森の深い、深い暗闇の中へと、二人寄り添うように、静かに消えていった。




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