2章5節「出会いと道連れ」
翌朝、レールダルの宿屋の階段を、アキラとエルは少しだけふらふらな足取りで下りてきた。
昨夜の情熱的な一夜は、一年以上連れ添った夫婦であるという事実を忘れさせるほど、新鮮で激しいものだった。その結果としての心地よい寝不足は、しかし、二人の表情を幸福感で輝かせていた。
階下の食堂は、早朝だというのにすでに活気に満ちていた。同じように旅支度を整えた商人や、屈強な護衛たちが、慌ただしく朝食をかき込んでいる。宿屋の主人は、そんな客たちにてきぱきと対応しながら、二人の姿を認めると、にやりと笑った。
「旅のお方。もしクヴァム村の方へ向かわれるんでしたら、そろそろ広場に行ってみるといい。旅の一団に加わるための、キャラバンの募集をやってるはずですぜ」
アキラとエルは、顔を見合わせた。この世界の旅では、見ず知らずの者同士でも、安全のために一つの集団となって移動するのが常識だと、村長から聞いていた。二人にとって、それは初めての経験だった。
「行ってみようか、アキラ」
「ああ」
広場は、朝の涼やかな空気の中、すでに出発前の喧騒に包まれていた。屈強な護衛たちに指示を出す恰幅のいい商人、荷馬車の荷を固定する若い衆、そして、二人と同じようにこの旅の一団に加わろうとする、様々な身なりの旅人たち。その活気ある光景に、二人は子供のようにはしゃいだ。
「すごいな、エル。これが、キャラバンか」
「はい! まるで、お祭りのようです!」
エルは、キャラバンの中心である商人を見つけると、物怖じすることなく声をかけた。商人は、アキラの屈強な体つきと、腰に下げられた使い込まれた鉄の剣を一瞥すると、一つ頷き、参加料として銀貨数枚を要求した。決して法外な額ではない。この世界の旅における、相互扶助のためのささやかな投資だ。
エルが手慣れた様子で銀貨を支払うと、商人は「間も無く出発する。遅れるなよ」とだけ言い残し、再び準備の喧騒の中へと戻っていった。
こうして、レールダルを出発し、次の目的地であるクヴァム村への旅が始まった。
ここからの七日間の道程は、これまでの二人きりの旅とは、また違った趣を持っていた。照りつける夏の太陽に汗を拭い、ぬかるんだ道に足を取られ、突発的な雷雨に見舞われて、マントはおろか下着までずぶ濡れになる。そんな、お世辞にも快適とは言えない困難の連続。
しかし、それらの一つひとつが、アキラとエルにとっては「本物の旅人になった」という実感をもたらす、楽しくて仕方がない経験だった。
幸い、モンスターや野盗の類に襲われることもなく、旅は順調に進んだ。予定より一日遅れ、八日目の夕刻、一行は無事にクヴァム村へと到着した。
「―――よし、今夜はここまでだ! 明日の朝、ここからソッリ村へ向かう者は、同じ刻にこの広場へ集まるように!」
商人がそう号令をかけると、キャラバンは一旦解散となった。商人たちは、この村の者たちを相手に、持ってきた商品を広げ、ささやかなバザーを始める。アキラとエルは、何の変哲もない、しかし旅の疲れを癒すには十分なその村を、手を繋いで散策した。
その夜、二人は村に一軒だけある小さな宿屋に部屋を取った。長旅の疲れを癒し、翌日に備えるべき夜。
しかし、彼らの情熱は、結婚して一年以上が過ぎた今も、そして旅の疲れの中でも、衰えることを知らなかった。
(―――いったい、この二人が宿屋でぐっすり眠れる日は、いつになるのだろうか。落ち着けアキラ。誘うなエル。明日の旅に、備えろ)
□■□■□■
翌朝、クヴァム村の宿屋で迎えた朝は、昨日までの旅の疲れと、昨夜の情熱的な一夜のせいで、二人にとっては少しだけ気怠いものだった。
「……眠い……」
「我慢しろ、エル。もう出発の時間だ」
アキラは欠伸を噛み殺しながら、まだ夢の中にいるような妻を優しく促した。二人は、再編成された商人中心のキャラバンに再び合流する。目的地は、ここからさらに十日はかかるという、ソッリ村だ。
キャラバンがゆっくりと動き出す中、一人の男が、ひらひらと手を振りながら二人に近づいてきた。
「よお、二人とも。昨日はよく眠れたかい?」
その声には、人を惹きつけるような、からりとした明るさがあった。男は、アキラの武骨さとは対照的な、ほっそりとした優男風の顔立ちをしている。今朝からこのキャラバンに加わった、冒険者のグッズだ。
「……まあ、なんとか」
アキラが曖昧に答えると、グッズは二人の寝不足気味の顔を面白そうに眺め、にやりと笑った。
「ははーん、さては宿屋のベッドが良すぎて、二人で夜更かしでもしちまったクチだな? わかるぜ、新婚さん」
その、あまりに屈託のない物言いに、エルは顔を真っ赤にし、アキラは返す言葉もなくたじろいだ。
グッズは、そんな二人の反応を心底楽しむと、他の旅人たちへと、また陽気に話しかけに行ってしまった。
旅が続くにつれて、アキラとエルは、自然とグッズと話す機会が増えていった。彼は、驚くほど物知りで、話がうまかった。退屈な道中、彼が語る様々な街の噂話や、冒険者たちの馬鹿げた失敗談は、二人にとって最高の娯楽となった。
そんな穏やかな旅が、五日目を迎えた日のことだった。
キャラバンが、両側を深い森に挟まれた、少し開けた道を進んでいた、その時。森の奥から、複数の獣の遠吠えが響き渡った。それは、ただの狼のそれではない。もっと低く、不吉な響きを伴っていた。
「……まずいな。バーゲストの群れだ」
護衛の一人が、緊張に顔をこわばらせて呟いた。その言葉が終わるか終わらないかのうちに、森の茂みから、黒い体毛に覆われた狼のような獣たちが、次々と姿を現した。その数は、十を超えている。
「女子供は馬車の陰へ! 戦える者は武器を取れ!」
商人の檄が飛ぶ。護衛たちが慌ただしく剣を抜き、キャラバンに緊張が走った。
アキラもまた、すぐさまエルの前に立つと、静かに鉄の剣を抜いた。
バーゲストの群れは、躊躇なく襲いかかってきた。護衛たちが陣形を組んで応戦するが、敵の数と素早さに、じりじりと押されていく。
グッズもまた、長剣を構え、軽口を叩きながらも、その目は鋭い光を宿していた。彼は、飛びかかってくるバーゲストの牙を巧みに受け流し、力強い斬撃を叩き込んでいく。彼もまた、腕利きの冒険者であることが窺えた。
だが、その中でも、アキラの動きは異質だった。
彼は、決して力任せに剣を振るわない。まるで流れる水のように、バーゲストの牙と爪をいなし、最小限の動きで、しかし最も的確な一撃を叩き込む。
一体のバーゲストが彼の喉笛に食らいつこうと飛びかかった。誰もが息をのんだ瞬間、アキラの身体が沈み込み、すれ違いざまに放たれた斬撃が、獣の胴体を深々と切り裂いていた。
その剣技は、もはや戦いというよりは、舞踊に近いものだった。彼が剣を振るうたびに、一筋の銀閃が走り、一体、また一体と、バーゲストたちが絶命していく。
やがて、最後のバーゲストが断末魔の悲鳴を上げて倒れた時、戦場には、アキラと、そして彼の圧倒的な強さに呆然とする者たちだけが残されていた。
その夜。
キャラバンは、予定より手前の場所で野営をすることになった。焚き火がいくつも焚かれ、人々は興奮冷めやらぬ様子で、先ほどの戦いについて語り合っている。その中心にいたのは、言うまでもなくアキラだった。
「あんたがいなければ、どうなっていたことか」
「本当に、見事な剣さばきだった」
商人や護衛たちから口々に感謝と称賛の言葉をかけられ、アキラはただ照れ臭そうに頭を掻くばかりだった。
そんな彼に、一人の男が、酒の入った皮袋を手に近づいてきた。グッズだった。
「よお、アキラ。大活躍だったな」
「グッズさんこそ。見事な剣さばきだった」
「へっ、俺のなんざ、あんたに比べりゃ子供のお遊びみてえなもんだ。それにしても、驚いたぜ。あんたほどの腕利きが、なんでこんな商人の護衛なんかやってんだ? もっと割のいい仕事があるだろうに」
グッズは、アキラがどこかのギルドに所属する、高ランクの冒険者だと信じて疑っていなかった。
「いや、俺は冒険者じゃない。ただの、村の猟師だ」
「……は?」
グッズの陽気な笑顔が、その顔に張り付いたまま、固まった。彼は、アキラが冗談を言っているのだと思った。だが、アキラの表情は、どこまでも真剣だった。
「……猟師? あんたが? あの剣技で?」
信じられない、という言葉が、その声色からありありと伝わってくる。アキラは、そんな彼の反応に少し戸惑いながら、自分たちがウンドレダル村から、冒険者になるために旅をしていることを、ぽつりぽつりと語り始めた。
グッズは、ただ黙って、その話に耳を傾けていた。
彼の頭の中は、目の前の男の話と、その常軌を逸した実力との、あまりの乖離に混乱していた。
村の猟師? あの剣技で?
このアキラという男は、とんでもない掘り出し物だ。いや、それ以上に、最高に面白いダチになれるかもしれない。




