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2章4節「村を発つ二人の決意」

「砂嵐」の一行が去った後、ウンドレダル村には、再び穏やかな日常が戻ってきた。


アキラは変わらず、村一番の腕利きの猟師としての日々を送っていた。


だが、彼の日常には一つ、新しい習慣が加わっていた。狩りの合間や、夕暮れのわずかな時間に、彼は一人、鉄の剣を振るうようになったのだ。


彼の脳裏には、「砂嵐」の戦士エリックが見せた、洗練された剣技が焼き付いて離れなかった。彼は、その動きを思い出し、模倣し、反復する。


剣の練習は、ただの暇つぶしではなかった。剣を振るうたびに、あの冒険者たちの戦いの記憶が蘇り、彼の心の奥底で一度は蓋をしたはずの冒険への憧れが、静かに、しかし着実に再燃していくのを感じていた。


一方、エルもまた、アキラを愛し、支える、淑やかで健気な妻としての日常を完璧にこなしていた。


そして、夫の心の変化に気づいた彼女は、彼がその夢に挑戦しやすいように、それとなく村の空気を和らげるよう努めていた。井戸端会議や、村の女性たちとの何気ない会話の中に、彼女は夫を誇る言葉を織り交ぜていく。


「アキラさんは、本当に素晴らしいお方。でも、あの方ほどの力が、この小さな村だけで終わってしまうのは、なんだか申し訳ない気もします」


「私は、アキラがこの村にいてくれるだけで幸せですけれど……でも、あの方が本当になさりたいことを、私が縛り付けてしまっているのではないかと、時々不安になるんです」


彼女の言葉は、村人たちの中に「村を救ってくれたアキラさんを、我々がこの村に縛り付けているのは、彼の未来を奪う、利己的な行為なのではないか?」という、罪悪感にも似た意識を、ゆっくりと、そして確実に植え付けていった。


 

□■□■□■ 

 


数週間が過ぎた、ある日のこと。


エルは、剣の稽古で汗を流すアキラの姿を、しばらく黙って見つめていた。


そして、彼が稽古を終えるのを待って、そっと声をかけた。


「……なんだか最近、少し元気がないように見えるけど。本当は、ご自身の可能性に、挑戦してみたいんじゃない?」


その、心の奥底を見透かすような優しい問いかけに、アキラは言葉に詰まった。


「……冒険者になったとして、本当に食べていけるのか、分からない。駆け出しの頃は苦しいと、ガンサーさんたちも言っていた」


「やっぱり、冒険者になることに心が動いているのね!」


エルの声が、ぱっと明るくなる。


彼女は満面の笑みで、アキラの不安を打ち砕いた。


「駆け出しで生活が苦しいときは、私が働いてアキラを食べさせてあげる。私は料理も裁縫も得意だから、街へ行ってもきっと仕事は見つかるわ。あなたがこの村で夢を諦めてしまうくらいなら、私は、困難があっても一緒に旅立ちたい」


その健気な言葉に、アキラは深く感動し、彼女を強く抱きしめた。


彼の心にあった最後の躊躇いは、完全に消え去った。


 

□■□■□■ 

 


二人の決意が固まってからは、話は早かった。


彼らは二人そろって村長の元を訪れ、王都で冒険者として挑戦したいという意思を伝える。


村長は、驚くことなく、むしろ全てを悟ったような穏やかな顔で言った。


「……いつかは、こういう日が来ると思っておった」


村長は、穏やかに続けた。


「アキラ様が来てくださってからというもの、この二年近く、不思議とモンスターの被害がぱったりとなくなった。おかげで、村もずいぶんと力をつけることができた。今なら、あなた様が旅立たれても、どうにかなるじゃろう」


村長は、村を救ってくれたことへの感謝を改めて述べ、二人の新たな門出を、心から祝福した。


 

□■□■□■ 

 


季節は秋から冬へと移ろい、村は深い雪に閉ざされた。


そして、長く厳しい冬が終わり、再び緑が芽吹く春が訪れる。


旅立ちの朝。


村人たちは、村を救い、二年近くもの間、平和をもたらしてくれた男とその妻の旅立ちを、広場に集まって心から惜しみながら見送っていた。


「アキラ、困ったらいつでも帰ってこい。ここがおめえらの故郷だ」


ガルドの無骨な言葉に、アキラは深く頷いた。


彼らの財産は、アキラが狩りで得て、なめしてきた上質な毛皮の束だけ。


村の共有財産である馬や馬車を持ち出すことはできず、二人の旅は徒歩で始まった。


レールダルへの道すがら、エルの足取りは、驚くほど軽かった。


彼女の頭の中は、これから始まる町での新しい生活への期待でいっぱいで、自然と鼻歌がこぼれる。


そんなエルの楽しげな様子に気づいたアキラは、愛おしそうに微笑みながら、優しく声をかけた。


「エル、楽しそうだな」


その問いかけに、エルは満面の笑みで振り返った。


「ええ! だって、アキラのこれからを考えたら、嬉しくて!」


そして、少しだけ頬を染め、誇らしげに胸を張って付け加えた。


「私の旦那様ですもの。きっと、ものすごく有名な冒険者になりますよ!」


その、あまりに純粋で、献身的な(ように見える)言葉に、アキラは心を強く打たれた。


彼は、自分の夢が、彼女の喜びでもあるのだと、この瞬間、固く信じ込む。


彼の決意は、もはや揺らぐことはなかった。


 

□■□■□■ 

 


レールダルへと続く緩やかな平地の街道を、二つの人影が並んで歩いていた。


ウンドレダル村を出発してから数日が経つ。アキラもエルも辺境の村育ちであり、一日中歩き続けることには慣れていた。旅は順調そのものだった。


夜になれば、街道から少し外れた場所で野営の準備をする。アキラが手際よく火をおこし、エルが村から持ってきた干し肉と硬いパンで簡単な食事を用意する。


満天の星空の下で一枚の毛布にくるまって眠る。その全てが、アキラにとっては失われた青春を取り戻すような、甘美な時間だった。


旅に出て五日目の昼過ぎ、視界の先に、石壁に囲まれた小さな町が見えてきた。空はどこまでも青く澄み渡り、心地よい風が草原を撫でていく。


レールダルだ。


「まずは、これを売って、旅の資金を作らないとね」


町に入ると、エルはすっかりしっかり者の妻の顔で、アキラを促した。


二人は、以前にも訪れたことのある交易所へと向かう。店主のゲイルは、再び現れた二人を驚いた顔で迎えたが、アキラが背負っていた大きな革袋から、分厚く、艶やかな毛皮の束を取り出して見せると、そのプロの目で感嘆の声を上げた。


「……こいつは大したもんだ。これほどの毛皮を、傷一つなくこれだけの数揃えるとはな。あんたの腕は、本物だな」


「ええ。私の自慢の旦那様ですもの」


アキラが照れるより先に、エルが誇らしげに胸を張った。


交渉は、エルが主導した。これは、アキラがこの一年、来る日も来る日も森に入り、危険を冒して得た成果の全てだ。


ゲイルが提示した銀貨の枚数に、アキラは「そんなにもらえるのか」と素直に満足していた。村での暮らしでは、これほどの現金を目にすることすらなかった。


しかし、その銀貨の重みを革袋で受け取った時、エルの心には、満足とは別の、ある種の衝撃が走っていた。


(……これだけ……?)


一年。三百六十五日という長い時間をかけて得た、村では大金と呼べるはずの金額。


それが、あの「砂嵐」の一行が、たった一晩の礼として、ぽんと置いていった金額には、遠く及ばない。


高ランク冒険者が得る富の、桁違いの大きさ。エルは、この世界のどうしようもない現実を、改めて痛感していた。


彼女は、ガンサーから受け取った、もう一つの重い革袋を、懐の奥でそっと握りしめた。これは、最後の切り札だ。


だが、彼女はそんな内なる動揺を微塵も顔に出さず、アキラにはにっこりと微笑んでみせた。


「よかったわね、アキラ。これで、旅の準備ができるわ」


 

□■□■□■ 

 


手にした資金で、二人は本格的な旅支度を整えた。


これから始まる、数ヶ月に及ぶ長い旅路のために。


まず向かったのは、町の広場で開かれている市場だった。


活気のある人混みをかき分け、二人は様々な店を覗いて回る。


雨風をしのぐための丈夫なマント、食料や着替えを詰め込むための大きな革のリュック、そして長旅に耐えるための、底の厚い丈夫な靴。


エルは、限られた予算の中で、少しでも質の良いものをと、真剣な顔で品定めをしていた。


「……それと、お前にもだ」


アキラはそう言うと、エルの手を引き、武具を扱う露店へと向かった。


「えっ、私に?」


「ああ。護身用だ」


アキラは、店先に並べられた短剣の中から、飾り気はないが、握りやすそうで、作りのしっかりした一振りを選び取った。


「私、戦いなんてできません」


「戦うためじゃない。万が一、俺がそばにいない時に、何かあった時のためだ。ロープを切ったり、料理に使ったりもできる。持っていて損はない」


その、有無を言わさぬ真剣な眼差しに、エルはこくりと頷くしかなかった。


アキラは、エルが頷いたのを見ると、満足そうに銀貨を支払い、革の鞘に収められた短剣を彼女の腰のベルトに差し込んでやった。


鍋や食器といったささやかな生活用品も買い揃え、それらを身につけた二人は、もはやただの村人ではなく、立派な旅人の姿となっていた。


 

□■□■□■ 

 


買い物を終えた頃には、陽はすっかり傾いていた。


「さて、今夜も野営かな」


アキラがそう言って笑うと、エルは革袋の中身を確かめながら、少しだけ得意げに言った。


「ううん。今日は、ちゃんと宿屋に泊まりましょう。これだけあれば、一晩くらいは大丈夫よ」


「本当か!」


その夜、二人は生まれて初めて、二人きりで宿屋に泊まった。


清潔なシーツが敷かれたベッド、誰にも邪魔されない、鍵のかかる個室。


その全てが、二人を興奮させるには十分すぎた。


祝杯をあげる間もなく、旅の疲れも忘れて、二人は互いを求め合った。


翌朝。


本格的な旅立ちの第一歩は、興奮のあまり寝不足で、少しだけふらふらな状態の二人が、宿屋の階段を照れくさそうに下りてくるところから始まった。



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