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2章3節「それぞれの思い」

翌朝、アキラの家の質素な食卓は、昨日とは打って変わって静かなものだった。


男たちは皆、昨夜の酒が少し残っているのか、あるいはこれから始まる長い旅路を思ってか、口数少なくスープをすすっている。


その静寂を破ったのは、僧侶のリースだった。


彼女は食事を終えると、すっと立ち上がり、仲間たちに向かって、そしてアキラとエルに向かって深々と頭を下げた。


「皆さん、お騒がせしました。おかげさまで、魔力は完全に回復しました。リア、ガンサー、こちらへ」


リースの表情は、昨夜までの疲労困憊したそれとは違い、聖職者としての自信と落ち着きを取り戻していた。


彼女がベッドに横たわるリアと、まだ腕を庇うようにしているガンサーの前に立つと、その両手に柔らかな光が灯り始める。


「―――おお、癒しの女神よ、その大いなる慈悲を以て、傷つきし汝の僕の肉体を健やかに癒し給え」


厳かな詠唱と共に、リースから放たれた光が、二人を優しく包み込んだ。


アキラとエルは、その光景を息を飲んで見つめていた。目に見えない力が、傷ついた肉体を修復していく。


昨日までありえない方向に曲がっていたリアの手足が正常な位置へと戻り、ガンサーの腕を覆っていたどす黒い痣が、見る見るうちに薄れていく。


やがて光が収まった時、リアは自らの力で、ゆっくりとベッドから起き上がった。


「……ふぅ……。ありがとう、リース。おかげで、痛みはほとんど引いたわ」


リアは、まだ顔色は悪いものの、仲間を安心させるように小さく微笑んでみせた。


ガンサーもまた、確かめるように自らの腕を動かし、その機能が完全に戻っていることを確認していた。


アキラとエルは、改めて魔法という存在の、人知を超えた力に驚嘆するしかなかった。


 

□■□■□■ 

 


出発の準備は、手早く進められた。


ガンサーは、家の前で見送るアキラとエルの前に立つと、改めて深く頭を下げた。


「アキラさん、エルさん。この御恩は、一生忘れん。あんたたちがいつかモルデに来ることがあれば、俺たち『砂嵐』が全力で歓迎することを約束する」


そして、彼は革袋を取り出すと、それをエルに差し出した。中からは、銀貨の重々しい音が聞こえる。


「これは、宿代と、俺たちの命を救ってくれたことへの、ほんの気持ちだ。受け取ってくれ」


「いえ、お礼をいただくようなことは何もしておりませんから……!」


エルが慌てて辞退するが、ガンサーは首を横に振った。


「俺たちの気持ちだ。今度はぜひ、モルデに遊びに来てほしい。その時の足しにでもしてくれ」


そう言って、彼は半ば強引に、エルの手に革袋を握らせた。


そのずしりとした重みは、二人がレールダルで使った全額よりも、明らかに重かった。


「砂嵐」の一行は、村人たちに見送られながら、モルデへの長い帰路についた。


その姿が見えなくなるまで見送った後、アキラとエルは、静かになった我が家へと戻った。


 

□■□■□■ 

 


その日、アキラは狩りを休んだ。


昼食を終え、家の前でぼんやりと森を眺めているアキラの隣に、エルがそっと腰を下ろす。


「……すごかったな、昨日の人たち」


アキラが、ぽつりと呟いた。


「これが、冒険者たちの戦い方か……。魔法というものを、初めて間近で見た」


隘路での死闘の記憶は、彼にはない。


彼にとって、昨日の光景こそが、初めて目にする本物のパーティー戦闘だった。


「遺跡の調査、ワイバーン討伐……。ああいう話を聞いていると、なんだか、どうしようもなく胸が躍るな」


その横顔は、エルが今まで見たこともないほど、子供のように輝いていた。


だが、その輝きは、すぐに自嘲気味な苦笑いへと変わる。


「……だが、俺には無理だ。この世界のことも、ギルドの仕組みも、何も知らん。それに、万が一のことがあって、お前を危険な目に遭わせるわけにはいかない」


彼は、エルの手を優しく握りしめた。


「俺は、ここで、お前と一緒に穏やかに暮らせるだけで、十分に幸せなんだ。これ以上の贅沢は、望まないさ」


その言葉は、エルの心を温かいもので満たした。


だが、同時に、昨夜芽生えたばかりの、眩いほどの憧れが、その言葉によってかき消されそうになるのを、彼女は感じていた。


(……このまま、この村で、穏やかに……?)


その未来に、不満はない。


だが、一度知ってしまった、きらびやかな世界。雪どけイチゴのタルト、銀細工の髪飾り。そして、ゴールドランクの冒険者が手にするという、想像もつかないほどの富。


エルは、心の中に芽生えた小さな欲望の種を、必死に隠した。


そして、夫を心から愛し、支える、健気な妻の顔で、微笑んだ。


「……私は、アキラがそう言ってくれるだけで、幸せよ。でも」


彼女は、アキラの目をじっと見つめて、言葉を続けた。


「もし、アキラの中に、まだ見てみたい世界があるのなら……私は、それを諦めてほしくないの。アキラほどの力があれば、きっと、どこへ行っても大丈夫。私、信じているから」


その、あまりに純粋で、献身的な言葉。


アキラは、そんなエルを、どうしようもなく愛おしいと思った。


「……ありがとう、エル」


彼は、この優しい妻を、何があっても守り抜かねばならないと、心に誓った。


そして、彼女を不安にさせる冒険などという無謀な考えを振り払うように、目の前の少女をそっと抱きしめた。


この手の中にある、ささやかで、しかし確かな幸福。


それこそが、今の自分にとっての全てなのだと、彼は改めて実感していた。




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