2章2節「憧れの芽」
森に、ようやく静寂が戻った。
だが、そこに勝利の歓声はなかった。残っていたのは、満身創痍の冒険者たちと、おびただしい血の匂いだけだった。
アキラは、仰向けに寝転がったまま、ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返していた。アドレナリンが切れ、全身を凄まじい疲労感が襲う。ただ、木々の隙間から見える、どこまでも青い空だけが、やけに現実離れして見えた。
「リア!」
最初に動いたのは、戦士のエリックだった。彼は、自らの傷も省みず、斥候のリアが叩きつけられた森の茂みへと駆け寄った。
茂みをかき分けると、そこには、ありえない方向に手足が折れ曲がり、血の海に沈む少女の姿があった。
「……くそっ! リース! ポーションを!」
エリックの絶叫に、僧侶のリースと魔法使いのエララが、震える足で駆け寄る。
「……息は、ある。でも……!」
リースはそう言うと、震える手で腰の革袋から、赤く輝く液体が入った小瓶を取り出した。治癒のポーションだ。リアの口元へと慎重に運び、ゆっくりと流し込む。
ポーションの淡い光がリアの身体を包み、痛々しい傷口のいくつかが、わずかに塞がっていく。
「……ん……ぅ……」
リアの喉が、か細く呻き声を上げた。虚ろだった瞳にかすかな光が戻り、目の前にいる仲間たちの顔を、ぼんやりと認識したようだった。呼吸も少しだけ安定し、意識は取り戻したようだが、動ける状態でないことは明らかだった。
その間、アキラもゆっくりと身を起こしていた。
見れば、吹き飛ばされた盾役のガンサーが、大樹に背をもたせ、苦悶の声を漏らしながらも、なんとか上半身を起こそうとしている。
その巨腕は、先ほどの一撃で奇妙な色に変色し、力が入らないのか、だらりと垂れ下がっていた。
「ガンサーさん、大丈夫ですか!?」
「……ああ、なんとか、な。骨までは、いってねえようだ。だが、しばらくは盾を構えるのも無理だろうな……」
彼は、仲間たちがそれぞれポーションを呷り、応急処置を施しているのを見届けると、ふらつく足で立ち上がり、アキラの前まで歩み寄ってきた。そして、深々と、礼儀正しく頭を下げた。
「……助かった。あんたがいなければ、俺たちは今頃、全員あの世行きだった。礼を言う」
その言葉には、感謝と共に、底知れない畏敬と、そしてわずかな困惑の色が滲んでいた。
「一体、あんたは何者なんだ? あれほどのオーガを一人で、しかもトロールまで……」
「……俺にも、よく分からない」
アキラは、正直にそう答えるしかなかった。
「リース! リアの容態は、もっとちゃんと治せんのか!」
ガンサーが、仲間たちに問いかける。
「……ごめんなさい。私の魔力は、もう一滴も残っていないの。トロールとの戦いで、回復魔法を使いすぎて……」
リースが、悔しそうに唇を噛んだ。
「魔力回復のポーションは!?」
「……最後のやつを、さっき自分で飲んでしまったわ。それでも、もう空っぽ……」
絶望的な沈黙が、その場を支配した。
このまま、ここで夜を迎えるのは、あまりにも危険すぎる。血の匂いに誘われて、別のモンスターが寄ってくるかもしれない。瀕死のリアを抱えて、この森で安全に夜を過ごせる保証など、どこにもなかった。
□■□■□■
その、どうしようもない膠着状態を破ったのは、アキラの、あまりにもあっさりとした一言だった。
「……それなら、俺の村で一晩休んでいけばいい。ここから、そう遠くない」
その場の全員の視線が、一斉にアキラへと突き刺さる。
「一晩眠れば、あんたの魔力も戻るんじゃないのか?」
「……そりゃあ、そうだが……しかし……」
ガンサーは、見ず知らずの自分たちを、何のてらいもなく村へ招こうとするこの男の真意を測りかねて、言葉に詰まった。
「このままここにいても、状況は悪くなるだけだ。行けるか?」
アキラの問いに、ガンサーは一度だけ固く目を閉じ、そして、ゆっくりと頷いた。
「……世話になる」
方針が決まると、行動は早かった。
アキラは、動けないリアの元へ向かうと、その華奢な身体を、まるで荷物でも運ぶかのように、ひょいと軽々と背負い上げた。
「……軽いな」
その呟きに、エリックが力なく笑った。
「ああ。そいつの取り柄は、身軽なことと、口が減らないことだけなんでな……」
一行は、アキラを先頭に、静かにウンドレダル村への道を歩き始めた。
道すがら、ガンサーが、自分たちがなぜこんな辺境の森にいたのかを、ぽつりぽつりと語り始めた。
学術都市モルデのギルドから依頼を受け、この近くにあるという古代遺跡の調査をしていた帰りだったこと。
しかし、依頼内容には守秘義務があるため、遺跡の場所や発見されたものについては詳しく話せないこと。
そして、その代わりとして、ガンサーたちはこれまでの旅で経験した様々な冒険譚――南の山脈でのワイバーン討伐や、古代の墓所での財宝発見といった、胸躍る話をアキラに語って聞かせた。
アキラは、その一つひとつの話に、まるで子供のように目を輝かせて、聞き入っていた。
□■□■□■
アキラが、瀕死のリアを背負い、消耗しきった「砂嵐」のメンバーを引き連れてウンドレダル村に帰還した時、村は一時騒然となった。
見慣れぬ武装した一行と、血まみれの女性を背負うアキラの姿に、村人たちが何事かと遠巻きに集まってくる。
アキラは彼らを安心させるように軽く手を上げると、一行をひとまず自分たちの家へと案内した。
家の前につき、アキラが扉を叩こうとした、その時だった。
中から物音が聞こえ、扉がゆっくりと開かれた。夫の帰りを待ちわびていたのだろう、エルの顔がひょっこりと現れる。
彼女は、アキラの姿を認めてぱっと表情を輝かせたが、次の瞬間、彼が見知らぬ美しい女性たちを連れ、しかもそのうちの一人を甲斐甲斐しく背負っている姿を目の当たりにして、その青い瞳を大きく見開いた。
心の中では、嫉妬の小さな炎がちりりと音を立てた。
しかし、彼女はそのような感情を微塵も顔に出さない。
アキラが「エル、すまないが、この人たちは……」と事情を説明しようとする、その前に。
彼女は、驚きと心配が入り混じったような、純真無垢な表情を浮かべ、「あらあら」といった雰囲気で、こう言い放った。
「その華奢な子、もしかして…伝説の“レア素材”? 煮込んだら魔力アップする系?」
「ち、違う! 彼女は冒険者で、大変な怪我をしているんだ! 食べ物じゃない!」
エルの突拍子もない冗談に、生真面目なアキラは本気で慌てて言い訳を始める。その必死な様子と、妻の気の利いたブラックユーモアに、命がけの死闘で心身ともに疲れ果てていた「砂嵐」のメンバーは、思わず噴き出してしまった。
ガンサーが苦笑しながら言う。
「……はは、こいつはとんでもねえ奥さんをもらったもんだな、アンタは」
その場の緊張が一気に解け、温かく微笑ましい空気に包まれた。
□■□■□■
家の中に運び込まれたリアの容態は、深刻だった。
だが、村で休息するうちに、僧侶であるリースの魔力はわずかながら回復していた。彼女は残った全ての魔力を振り絞り、リアに回復魔法をかける。
淡い光がリアの身体を包み込み、ありえない方向に曲がっていた手足が、ごきり、と鈍い音を立てて元の位置へと戻っていく。
完全に治癒したわけではないが、命の危険は脱し、仲間たちの肩を借りれば、なんとかベッドの上で上半身を起こせるくらいには回復した。
その夜、アキラの家の食卓は、これまでにないほど賑やかだった。
エルが腕によりをかけて作った、猪肉のシチューと焼きたてのパンが並ぶ。
食事の間、話題の中心は自然と「砂嵐」が語る冒険譚になった。
リーダーのガンサーが語る、学術都市モルデのギルドから受けた古代遺跡の調査の話。
戦士のエリックが熱っぽく語る、南の山脈でのワイバーン討伐の武勇伝。
アキラは、その一つひとつの話に、まるで子供のように目を輝かせて聞き入っていた。
□■□■□■
食事が終わり、夜が更けてくると、問題は寝床だった。
「いや、我々は納屋で十分だ。怪我人をここまで運んでもらった上に、これ以上世話になるわけにはいかん」
ガンサーが固辞するが、エルは首を横に振った。
「だめです。リアさんたちは大切なお客様ですし、何より女性を納屋で寝かせるなんて、この家の主婦として許しません」
そして、彼女はくるりとアキラの方を向き、有無を言わさぬ笑顔で言った。
「ねえ、アキラ。あなたは、納屋で寝るの、好きでしょう?」
「えっ、俺!?」
有無を言わさぬその圧力に、アキラは頷くことしかできなかった。こうして、半ば強引に、男たちは村の納屋へと追いやられることになった。
藁の匂いが満ちた納屋で、男たちは村長が差し入れてくれた、どぶろくのような地酒を酌み交わした。
「……しかし、驚いたぜ。あのトロールを、鉄の剣一本で倒しちまうとはな」
エリックが、心底感心したように言う。
「街のギルドに登録すりゃ、あんたならすぐにシルバーにはなれる。俺たちが保証する」
ガンサーの言葉に、アキラはただ照れ臭そうに笑うだけだった。
男たちは、冒険の話、武器の話、そして王都の酒場の看板娘の話といった、とりとめのない猥談に花を咲かせ、夜が更けるのも忘れて語り明かした。
□■□■□■
一方、家の中では、女たちの静かな、しかし熱を帯びた夜話が始まっていた。
ベッドではリアが上半身を起こし、時折相槌を打ちながら、三人の会話に耳を傾けている。
エララとリースは、床に敷かれた毛布にくるまっていた。
「エルさんの料理、本当に美味しかった。毎日こんなご飯が食べられるなんて、アキラさんは幸せ者ね」
エララの言葉に、エルは嬉しそうにはにかんだ。そして、ここぞとばかりに、彼女は胸に秘めていた質問を切り出した。
「あの……モルデというのは、どんな街なんですか?」
「モルデ? そうねえ、学問の街だから、落ち着いてはいるけど、お洒落なお店もたくさんあるわよ。特に、銀細工の『銀の枝亭』の小物は、本当に素敵で……」
「王都は、もっとすごいのよ」
と、エララが付け加える。「スタヴァンゲルには、大陸中から珍しいものが集まってくるから。私たちがこの前食べた、『雪どけイチゴのタルト』なんて、もう絶品で……」
お菓子、服、宝飾品。彼女たちが語る、きらびやかな都会の生活。エルの心は、未知の世界への憧れで、はちきれんばかりに膨らんでいった。
「アキラさんほどの腕があれば、シルバーランクなんてすぐよ。良い仲間に恵まれれば、その上のゴールドだって、夢じゃないわ」
リースの言葉が、エルの心に深く突き刺さる。
(ゴールド……)
その言葉の持つ意味を、彼女は瞬時に理解した。今の、穏やかだが貧しい村での生活とは、全く違う世界。
彼女は、眠りについた仲間たちの寝息を聞きながら、一人、暗闇の中で考えていた。
この村での穏やかな幸せも、もちろん大切。
でも、リアさんたちが話してくれた世界は、もっときらきらしていて、甘い香りがする。
アキラと、私なら、きっと……。
その夜、彼女の心には、まだ見ぬ都会への、眩いほどの憧憬が、確かな光として灯り始めていた。




