2章1節「森の奥にて」
季節は巡り、アキラがウンドレダル村に来てから、一年近くの歳月が流れていた。
かつて彼を包んでいた異邦人としての空気はすっかり消え、今では村一番の腕利きの猟師として、そしてエルを深く愛する夫として、穏やかで満ち足りた日々を送っている。
彼の狩りの腕前は、熟練のガルドですら時に舌を巻くほどに向上し、村の食卓事情は劇的に改善された。
英雄として祭り上げられた当初のぎこちなさは、今や村人たちからの温かい信頼へと変わり、アキラはこのささやかで平和な日常が、永遠に続くものだと信じていた。
その日も、夏の日差しが木々の葉を力強く照らす中、アキラは一人、森へ入っていた。
目的は、数日前にガルドが見つけたという、巨大な雄鹿の足跡を追うこと。これほどの大きさの鹿は、この村では数年に一度お目にかかれるかどうかという大物だ。
仕留めることができれば、村はちょっとしたお祭り騒ぎになるだろう。
足跡は、彼を森の奥深く、普段は決して足を踏み入れない領域へと導いていた。木々はより密になり、昼間だというのに薄暗い。
だが、一年という歳月は、アキラをただの男から、熟練の狩人へと変えていた。危険な領域であるという認識はあったが、不安はなかった。
(……近い)
彼の感覚が、すぐ近くに大型の生物がいることを、漠然とした直感として伝えてくる。
それは、獲物である鹿の気配ではなかった。もっと大きく、そして敵意に満ちた何か。
アキラは息を殺し、大樹の陰に身を潜め、慎重に弓を構えた。
その時だった。
キィン!
甲高い金属音。それは、獣の爪や牙がぶつかる音ではない。明らかに、人間が振るう剣と剣、あるいは剣と何かが激しくぶつかり合う、硬質な音だった。
アキラは眉をひそめた。この森の奥深くまで入り込む物好きなど、自分とガルド以外にはいないはずだ。
野盗か、あるいは―――
好奇心と警戒心をない交ぜにしながら、アキラは弓を背負い直し、音のする方へと、気配を消しながら近づいていった。
□■□■□■
やがて、木々の合間から、小さな広場のような空間が見えた。
そこで繰り広げられていたのは、アキラがこの世界に来てから、初めて目にする本格的なパーティー戦闘だった。
武装した五人の男女が、三体の巨大なモンスターと死闘を繰り広げている。
モンスターの内訳は、角の生えた鬼のような顔を持つオーガが二体。
そして、それらよりもさらに一回り大きく、緑がかった分厚い皮膚と、忌まわしいほどの長い腕を持つ、トロールが一体。
トロールは知能が高いと聞く。その瞳には、オーガのような単なる凶暴性だけでなく、狡猾な光が宿っていた。
対する五人組は、おそらく冒険者なのだろう。
先頭で巨大な盾を構える重戦士、その脇で長剣を振るう軽戦士、後方から杖を掲げて何かを叫ぶ魔法使いと神官らしき男女、そして、敵の攻撃を掻い潜りながら短剣で攪乱する軽装の斥候。
見事な連携だった。盾役がトロールの猛攻を正面から受け止め、戦士が一体のオーガと切り結び、斥候がもう一体のオーガの注意を引きつけている。
後方からは炎の矢が放たれ、神官の祈りが仲間たちの傷を癒す光となる。
アキラは、その光景に、かつて自分が熱中したゲームのパーティー戦闘を重ね合わせ、純粋な感嘆を覚えていた。
彼らは強い。ガルドや、ウンドレダル村の男たちとは、練度が比較にならない。
だが、戦況は明らかに冒険者たちにとって不利だった。
問題は、トロールの持つ、常軌を逸した再生能力にあった。
戦士の剣がオーガの腕を切り裂けば、緑色の血が噴き出し、それは確かな手傷となる。
しかし、トロールに与えられた傷は、見る見るうちに肉が盛り上がり、数秒後には何事もなかったかのように塞がってしまうのだ。
魔法使いが放つ炎の矢が、その再生をわずかに遅らせてはいるが、決定打には至らない。
じりじりと、しかし確実に、冒険者たちの戦線は後退していた。
盾役の男の呼吸は荒く、その盾を構える腕は限界を知らせるように微かに震えている。
神官の女の額からは玉のような汗が流れ、その回復魔法の光も、徐々に弱々しくなってきていた。
斥候が攪乱していたオーガが、痺れを切らしたように、戦士が相手にしているオーガとの連携を始めた。
これにより、戦士は二体のオーガを同時に相手にせざるを得なくなり、その動きが明らかに鈍る。
そして、ついにその瞬間が訪れた。
戦線の要であった盾役の男。
彼が、トロールのフェイントを織り交ぜた猛攻に、ついに対応しきれなくなった。
渾身の力で振り下ろされた棍棒を、盾で受け止めきれずに体勢を崩す。
「ガンサー!」
仲間たちの悲鳴が響く。
がら空きになった胴体に、追撃の棍棒が、まるで巨大な攻城槌のように叩き込まれた。
凄まじい衝撃音と共に、盾役の男の巨体は、木の葉のように宙を舞い、広場の端にある大樹に叩きつけられ、ぐったりと動かなくなった。
戦線の要であった盾役、ガンサーが吹き飛ばされたことで、冒険者パーティー「砂嵐」の連携は、まるで張り詰めていた糸が切れたかのように、一瞬で崩壊した。
「ガンサー!」
戦士エリックの悲痛な叫びも虚しく、これまでガンサーが一身に引き受けていたトロールの猛攻は、今や野放しとなる。エリックは二体のオーガを同時に相手にせざるを得なくなり、その動きは完全に防御へと切り替わっていた。もはや、仲間を助ける余裕などどこにもない。
そして、その致命的な隙を、一体のオーガが見逃すはずもなかった。
防御の壁が消えた好機に、オーガは後衛にいる二人の女――魔法使いと僧侶めがけて、大地を揺るがしながら突進を開始する。その目は、か弱い獲物に向けられる、獰猛な喜びに爛々と輝いていた。
「エララ、リース! 逃げて!」
その絶体絶命の状況に、パーティーで最も俊敏な斥候、リアが身を挺して割り込んだ。消耗しきった身体に鞭打ち、オーガの足元へと滑り込むようにして短剣を突き立てる。だが、その一撃は、分厚い皮膚に阻まれて浅い傷しか与えられない。
オーガは、足元でちょろちょろと動き回る小さな存在に気づくと、鬱陶しげに、そして何の躊躇もなく、その巨大な棍棒を横薙ぎに振るった。
「きゃっ!」
リアの華奢な身体は、まるで小石のように弾き飛ばされ、森の茂みへと叩きつけられた。ぐしゃり、という鈍い音が響き、それきり何の音も聞こえなくなる。
「リア!」
僧侶リースの悲鳴が、森に木霊した。だが、オーガは止まらない。邪魔者を排除し、今度こそと、後衛の二人へと向き直る。魔力も体力も尽きかけている魔法使いエララを守るように、リースは震える足で一歩前に出ると、自らの身体を盾にした。オーガは、そんな彼女たちの絶望を嘲笑うかのように、棍棒を頭上高く振り上げた。
(間に合え!)
その光景を、アキラは木々の陰から凝視していた。次の瞬間、彼は背負っていた弓を、まるで身体の一部であるかのように滑らかに構えていた。狙いを定める時間など、ない。ほとんど直感的に、彼は矢を放った。
矢は、唸りを上げて空を切り、棍棒を振り下ろさんとしていたオーガの膝に、深々と突き刺さった。
それは、ただ刺さっただけではなかった。矢が着弾した瞬間、オーガの巨体が、まるで巨大な攻城槌に側面から殴りつけられたかのように、大きくバランスを崩して横倒しになったのだ。
その隙を、アキラは見逃さなかった。
彼は森から飛び出すと、パーティーメンバーが目で追えないほどの速度で、倒れたオーガと後衛の二人の間に割り込む。オーガが体勢を立て直そうと棍棒を薙ぎ払うが、アキラはそれを軽々とかわし、がら空きになった脇腹に、腰の鉄の剣を深々と突き刺した。
「ブゴオッ!?」
オーガは、一度だけ痙攣すると、そのまま絶命した。
「な……!?」
後衛の二人が、突如現れた救世主の姿に呆然としている。だが、アキラに余韻に浸る暇はなかった。背後から、オーガとは比較にならないほどの、凄まじい圧力が迫る。
振り返ると同時に、トロールの振り下ろした拳を、剣で受け止めていた。
(速い……! 重い……!)
アキラの腕に、これまでのどんな攻撃とも違う、骨の芯まで響くような衝撃が走る。一撃の重さもさることながら、その巨体に似合わぬ敏捷性が、彼の予測を遥かに上回っていた。彼は初めて、この世界に来てから本能的な「死の危険」を感じていた。
アキラは、トロールの猛攻を捌くので精一杯だった。
しかし、数合打ち合ううちに、彼はある奇妙な事実に気づく。自分が剣で切りつけた傷が、再生しないのだ。
他の冒険者たちが与えた傷は、見る見るうちに塞がっていくというのに、自分の攻撃だけが、確かなダメージとしてトロールの身体に刻まれていく。
理由など、分からなかった。だが、勝機はそこにしかなかった。
アキラは防御に徹しながら、冷静に相手の動きを観察する。
再生能力が機能しないことに苛立ったのか、トロールの攻撃が徐々に大振りになっていくのを見逃さなかった。
そして、棍棒が空を切り、一瞬だけ、その巨大な懐ががら空きになった。
(―――今だ!)
アキラは、その一瞬の隙に、まるで弾丸のように懐へ飛び込んだ。そして、渾身の力を込めて、その鉄の剣を、トロールの心臓めがけて、柄まで深々と突き立てた。
「GUGYAAAAAAAAAッ!」
トロールは、断末魔の絶叫を上げて、その巨体を大地に横たえた。
ちょうどその頃、アキラがトロールを引きつけていたおかげで体勢を立て直した戦士エリックもまた、残っていた最後の一体を討ち果たしていた。
森に、ようやく静寂が戻った。
だが、そこに勝利の歓声はなかった。
残っていたのは、満身創痍の冒険者たちだけだった。
吹き飛ばされた盾役のガンサーは、苦悶の声を上げながらも、かろうじて生きてはいるようだった。魔法使いと僧侶は、その場にへたり込み、動くこともできない。
そして、森の茂みに叩きつけられた斥候のリアは、ピクリとも動かなかった。
「……はぁっ……はぁっ……」
アキラもまた、限界だった。アドレナリンが切れ、全身を凄まじい疲労感が襲う。
彼は、その場に崩れ落ちるように、仰向けに寝転がった。
ただ、木々の隙間から見える、どこまでも青い空だけが、やけに現実離れして見えた。




