1章12節「ふたりの時間」
昼過ぎの穏やかな光が、部屋の埃をきらきらと照らし出していた。
ベッドの上で、アキラは自分のしでかしたことの大きさに、今更ながら気づいていた。
衝動のままに、隣で息を乱す少女を求めてしまった。
灰色の世界で染みついた倫理観が、彼の心に重くのしかかる。
年の離れた、しかもまだ少女と呼んでいい娘に、自分の欲望をぶつけてしまった。
罪悪感が、津波のように押し寄せてきた。
「……すまなかった」
アキラは、声を絞り出すように言った。
「俺は、お前にとんでもないことを……」
「やめてください」
凛とした、しかし震える声が、アキラの謝罪を遮った。
エルは、意を決したように、真っ直ぐにアキラの目を見つめ返した。
その青い瞳には、後悔の色などどこにもなかった。
「謝らないでください……。私……実は、前からアキラ様のことが、好きでしたから」
その告白は、アキラの罪悪感を、いとも容易く吹き飛ばしてしまった。
好きだった? この俺を?
驚きと、そして今まで感じたことのないほどの強い喜びが、彼の胸を満たしていく。
「……アキラ様が目を覚まされたこと、村長さんにもお伝えしてきますね。きっと、皆さん心配していますから」
エルは、恥ずかしさを振り払うようにそう言うと、手早く衣服を整え、少しだけ名残惜しそうに一度だけ振り返ってから、部屋を出ていった。
一人残された部屋で、アキラは複雑な感情の渦に浸っていた。
自分の欲望が受け入れられたことへの、純粋な喜びと高揚感。
脳裏をよぎる、しかし以前よりもずっと霞んでしまった妻子の顔に対する、微かな後ろめたさ。
そして、先程までの出来事の生々しい感触と、満たされた感覚の余韻。
世界の全てが、昨日までとは違って見えた。
□■□■□■
しばらくして、部屋を訪れたのは村長だった。
エルから報告を受けたのだろう、その表情は穏やかだった。
彼はアキラが目覚めたことだけを報告するエルの、はにかんだ表情から全てを察していたが、男女の仲というものは急いては事を仕損じると、賢明にも何も聞かずにいた。
「アキラ様、お目覚めになられて、何よりです。村を救っていただいたこと、改めて御礼申し上げる」
「いえ……。それより村長、身体はもう何ともありません。明日から、また狩りに出ようかと」
早くこの有り余る活力を試したかったし、何より、村に貢献することで、エルとの関係を正当化したいという気持ちもあった。
だが、村長は困ったように眉を下げた。
「お気持ちは大変ありがたい。ですが、アキラ様……失礼ながら、今のあなた様に、狩りに出るための道具はおありかな?
例の戦いで、剣は砕け、弓も隘路に……」
その言葉に、アキラははっとした。
そうだ。自分には、もはや武器と呼べるものが何一つない。
「……そう、でしたな」
「うむ。そこで、ご相談なのだが」
村長は、待っていましたとばかりに切り出した。
この村から三日ほど歩いた場所に、レールダルという町があること。
そこへ行けば、新しい剣も弓も手に入るだろうこと。
そして、恩人であるアキラのために、村からそのための資金と物資を融通したい、と。
「……それに、アキラ様お一人では、道中何かと不便もあろう。エルを、供に連れて行ってはいかがかな? あの娘も、町へは何度か行ったことがある」
それは、あまりに自然で、そして断りようのない提案だった。
アキラは最初こそ固辞したが、道具がなければ狩りができず、村の食客で居続けるしかないという現実を前に、その厚意に甘えることにした。
□■□■□■
レールダルへの出発準備には、二日ほどかかることになった。
その二日間は、アキラにとって、夢のような時間だった。
エルは、「アキラ様の身の回りのお世話」という大義名分のもと、一日に何度も彼の家を訪れた。
食事を運び、部屋を掃除し、彼の衣服の綻びを繕う。
その姿は、まるで甲斐甲斐しい新妻のようだった。
二人きりになると、部屋の空気はすぐに甘く、濃密なものへと変わっていった。
不意に視線が合って恥ずかしそうに逸らしたり、ぎこちない手探りのようなキスから始まったり。
その初々しさは、アキラに遠い昔の記憶を蘇らせた。
学生時代に付き合っていた、初めての彼女。
手を繋ぐだけで、心臓が張り裂けそうだった、あの頃の感覚。
しかし、一度火がつくと、アキラの有り余る精気と、エルの(計算された)情熱によって、昼も夜も、二人は互いを求め合った。
□■□■□■
出発を翌日に控えた夕暮れ。
満ち足りた心地で村を散策していたアキラの前に、カインが立ちはだかった。
「……アンタ」
その声は、ひどくかすれていた。
次の瞬間、カインの拳が、何の予備動作もなく、アキラの腹部に叩き込まれた。
それは、青年が持てる全ての力を込めた一撃だったに違いない。
だが、アキラにとっては、まるで子供に軽く叩かれた程度の衝撃しかなかった。
彼は、殴られた腹部をさすることすらせず、ただ静かに、目の前の青年を見つめた。
カインの瞳から、こらえきれなかった涙が、ぼろぼろと溢れ出した。
「なんで……なんで、あんたなんだ……。
村を救ってくれた恩人だってことは、分かってる……。
エルが……エルがあんたを好きになったんなら、俺にはもう、どうしようもねえってことも……分かってるんだよ……!」
嗚咽と共に、心の内の全てが吐き出される。
その、あまりに真っ直ぐで不器用な姿に、アキラはどこか懐かしい「青春の匂い」を感じていた。
やがて、カインは涙を乱暴に拭うと、最後に「……殴って、悪かった」と、か細い声で謝罪した。
そして、アキラからの返事を待つことなく、踵を返して走り去っていった。
その夜、アキラはエルが作ってくれた夕食をとりながら、明日の旅支度を整えていた。
カインに殴られたことに対する怒りなど、微塵もなかった。
ただ、遠い昔に通り過ぎてきた季節の終わりを、見届けたような気分だった。
彼の心は、明日から始まる、エルとの二人きりの旅への期待で、満たされていた。




