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1章11節「境界を越えて」

9/27寝坊しました。


アキラが意識を失っている間、ウンドレダル村は安堵と混乱の入り混じった、奇妙な静けさに包まれていた。


彼の活躍によってもたらされた平和。

だが、村長はその平和が、いかに脆いものかを痛感していた。


アキラが眠りについて丸一日が過ぎた昼下がり。

村長は、自室の囲炉裏で一人、静かに炎を見つめていた。


彼の脳裏には、父から聞かれた、祖父の代の惨劇が焼き付いて離れなかった。

モンスターの襲撃によって、村が壊滅寸前にまで追い込まれたという、忌まわしい記憶。


今回、アキラという規格外の存在がいなければ、歴史は間違いなく繰り返されていた。

次は、どうなる?


アキラを、この村に繋ぎ止めなければならない。


その考えが浮かんだ瞬間、村長は強い自己嫌悪に襲われた。

村の恩人を利用しようなどと、長の風上にも置けない。

だが、村を守るという責任が、彼の良心を押し潰す。


葛藤の末、彼は意を決し、一人の少女を呼び出した。


「……エル」


「はい、村長さん」


村長の前に座るエルは、どこか緊張した面持ちだった。


「お前に、頼みがある。……いや、これは、村の未来を左右する、儂からの懇願だ」


村長は、自らの打算的な考えに蓋をするように、ゆっくりと言葉を紡いだ。

アキラという男がいかに村にとって重要であるか。

そして、彼のような流れ者が、いつまたふらりと村を去ってしまうかもしれないという、拭いきれない不安。


「もし……もし、お前さえよければ、アキラ様の心を、この村に繋ぎ止める手伝いをしてはくれんだろうか。

夫婦となって、この村に永住していただく。

それ以上の策は、儂には思いつかん」


エルの青い瞳が、大きく見開かれた。

アキラ様の妻に。


その言葉の持つ意味を、彼女は瞬時に理解した。

村での発言力、農作業から解放されるであろう安楽な暮らし。

そして何より、あの強く、逞しい男を、自分のものにできる。


だが、エルはそのような内なる計算を、純真な表情の奥に隠した。


「そ、そんな大それたこと……私のような者に、務まるでしょうか……」


一度は戸惑うふりを見せ、うつむいて見せる。

そして、熟考の末に顔を上げた彼女の瞳には、村の未来を憂う、健気な少女の光が宿っていた。


「……分かりました。

アキラ様が、この村を守ってくださったように、今度は私が、この村の未来を守る番なのですね。

私でよければ、お受けいたします」


その言葉に、村長は深く、深く頭を下げた。



□■□■□■



そして、長い眠りの後。

アキラの意識が、ゆっくりと浮上した。


重く閉ざされていた瞼をこじ開けると、見慣れた天井の木目が目に映った。


(……俺は、生きているのか)


最後に覚えているのは、オーガの棍棒で剣が砕け散った、あの絶望的な瞬間だ。

その後のことは……どうやってあの場を切り抜けたのか、霞がかかったように、何も思い出せなかった。


ぼんやりとする頭で、ゆっくりと上半身を起こす。

その瞬間、すぐそばから、はっと息をのむ音が聞こえた。


「アキラ様! お気づきになられたのですね!」


視線を向けると、そこには、安堵と喜びがない交ぜになった表情のエルがいた。

彼女はベッドの脇に置かれた椅子から立ち上がると、心配そうに明の顔を覗き込んだ。


「ご気分は? どこか、痛むところはありますか?」


「……いや、大丈夫だ。それより、俺はどれくらい眠っていた?」


「丸一日と、半日ほどです。昨日は、一日中眠っておられました」


丸一日。

その事実に、明は驚きを隠せなかった。


「……腹が、減った」


それが、目覚めて最初の、あまりに人間的な欲求だった。


「はい! すぐに台所からお持ちしますね!」


エルは嬉しそうに頷くと、ぱたぱたと部屋を出ていった。


一人残された部屋で、明は自らの身体を見下ろした。

記憶はないが、あの状況で無傷のはずがない。

だが、腕は健常なまま、何の違和感もなく動く。

それどころか、あれほどの死闘を繰り広げたというのに、身体には切り傷一つない。


あるのは、心地よい疲労感と、腹の底から湧き上がってくるような、漲る活力だけだった。


(……やはり、この身体は普通じゃない)


それは恐怖ではなく、自らの特異性に対する、どこか他人事のような、しかし確かな認識だった。


やがて、エルが盆に載せた木の椀を手に、部屋へ戻ってきた。

滋養のある野菜と、柔らかく煮込まれた肉の匂いが、空っぽの胃を刺激する。


エルはかいがいしく、ベッドの脇に椅子を寄せると、明が食べやすいように椀を支えた。

明は、少し気恥ずかしさを感じながらも、差し出されるスープを黙々と口に運んだ。


身体の芯から、じわじわと力が蘇ってくるのを感じる。


「……村は、どうなった?」


「はい。アキラ様のおかげで、皆、無事です。本当に……本当に、ありがとうございました」


エルは、心からの感謝を込めて、深々と頭を下げた。

その声は、わずかに震えている。


「お前が無事で、良かった」


明がそう言うと、エルは顔を上げ、花がほころぶように微笑んだ。


食事を終えるまで、二人はとりとめのない世間話を続けた。

エルが語る、村の混乱と、その後の安堵の様子。

それは、明が意識を失っている間に過ぎ去った、彼だけが知らない物語だった。


「アキラ様こそ、もうお身体はよろしいのですか?」


ふと、エルが心配そうに尋ねた。


「ああ、問題ない」


「でも、ガルドさんから聞きました。ゴブリンの将軍に、腕を……」


「腕? 俺の腕がどうしたんだ?」


明は、きょとんとして聞き返した。

エルは、そんな彼の様子に驚きながらも、言葉を続ける。


「ガルドさんが、見たと……。アキラ様の左腕が、ありえない方向に折れ曲がっていた、と……」


その言葉に、明は自らの左腕を見下ろした。

そこには、傷一つない、健常な腕があるだけだった。

記憶にはないが、ガルドが見たというのなら、それは事実なのだろう。


その会話をきっかけに、話題は自然とエルの怪我へと移っていった。


「そういえば、お前の足はもういいのか?」


「はい! もう、すっかり」


エルは嬉しそうに言うと、その場で立ち上がり、松葉杖なしで、くるりと可憐に回って見せた。


「でも、あの時アキラ様が助けてくださらなければ、私は今頃……。ゴブリンに攫われたら、どんな目に遭わされていたか……」


彼女の表情が、一瞬、恐怖に曇る。

そのあまりに生々しい感情の揺らぎに、明はかける言葉を見つけられなかった。


「……でも、大丈夫。こうして、ちゃんと元気になりましたから」


エルは、努めて明るい声を作ると、悪戯っぽく微笑んだ。


「ほら、肩のこの傷も、もうすっかり綺麗になったんですよ」


そう言って、彼女は自らの服の胸元に手をかけ、少しだけ、ためらうように、それを開いてみせた。


現れたのは、日に焼けた彼女の手足とは対照的な、透き通るように白い肌。

そして、その上に残る、ゴブリンの爪によってつけられた、治りかけの薄い傷跡。


その下の青い血管が、薄っすらと透けて見えた。


ごくり、と。

明は、無意識のうちに喉を鳴らした。


視線が、その白い肌と、生々しい傷跡に釘付けになる。


エルは、そんな明の反応に気づかない――あるいは、気づかないふりをしている――屈託のない笑顔を浮かべたまま、さらに言葉を続けた。


「見た目より、ずっと傷跡も滑らかになったんです。

もう少ししたら、きっと分からなくなりますよ。……触ってみますか?」


返事を、待たなかった。


彼女は、アキラの手を取り、自らの手で導くようにして、その傷跡に彼の指先をそっと這わせた。


その瞬間、明の脳を、電撃のような衝撃が貫いた。


指先に伝わる、柔らかく、温かい、あまりに生々しい肌の感触。

それは、灰色の日常の中で、彼が何年も忘れてしまっていた、原始的な雄としての欲求を、暴力的なまでに突き上げた。


村を救ったという高揚感。

有り余るほどの生命力。

そして、目の前の少女の、抗いがたい魅力。


彼の内側に残っていた、最後の理性のタガが、ぷつりと音を立てて切れた。


「……アキラ、様……?」


戸惑うエルの声が、やけに遠くに聞こえる。


明は、もはや自らの衝動に抗うことをやめ、その細い腕を掴むと、有無を言わさず、ベッドの上へと引き倒した。


世界の全てが、この小さな部屋の中に凝縮されていく。




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