1章10節「混乱の後で」
ガルドが、気を失った明を担いでウンドレダル村にたどり着いた時、村は恐慌の坩堝と化していた。
男たちは、先祖代々受け継いできたなけなしの家財道具を荷車に積み込み、女子供を避難させた後の、最後の脱出準備に奔走している。
その顔には、故郷を失う悲しみよりも、死への恐怖が色濃く浮かんでいた。
「ガルド! アキラ様も!」
村長が、二人の姿を認めて駆け寄ってきた。
その顔は、最悪の事態を想定して蒼白になっている。
「……駄目だったか。もう、奴らはそこまで……!」
時間稼ぎすら叶わず、ゴブリンの軍勢が目前に迫っている。
村長だけでなく、その場にいた誰もがそう確信し、絶望に顔を歪めた。
「違う!」
ガルドが、ぜいぜいと荒い息をつきながら叫んだ。
「奴らは……ゴブリンの群れは、全滅した」
「……何?」
村長は、ガルドが何を言っているのか理解できなかった。
疲労と恐怖で、錯乱でもしたのだろうか。
「アキラさんが……この人が、一人でやったんだ。全部、一人で……」
その言葉に、周囲の空気が凍りついた。
一人で、五十を超えるゴブリンとオーガの軍勢を殲滅する?
そんなことは、おとぎ話の世界ですらあり得ない。
「ガルド、しっかりしろ! 気持ちは分かるが、今は一刻を争うのだ!」
「本当だ! 俺はこの目で見たんだよ!」
ガルドの必死の形相は、しかし、極度の緊張状態にある村人たちには届かなかった。
村長は、苦渋の表情で決断を下す。
「……分かった。避難準備は、このまま続行する。
だが、念のためだ。ガルド、動ける男を数人連れて、もう一度隘路の様子を見てくれ!」
その間、おびただしい血糊にまみれて意識のない明は、彼のねぐらである空き家へと運び込まれ、ひとまず床に敷かれた毛布の上に寝かされた。
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それから、一刻も経たなかっただろうか。
ガルドと共に偵察へ向かった男たちが、まるで幽霊でも見たかのように真っ青な顔で、村へと転がり込んできた。
「……死んでる。全部、死んでやがる……」
「嘘じゃ、なかった……。隘路が、ゴブリンの死体で埋まってる……」
その報告は、村の喧騒を、まるで魔法のようにぴたりと止めた。
絶望に支配されていた沈黙は、やがて、誰かが上げた一つの歓声によって破られる。
それが、爆発の合図だった。
「おおおおおっ!」
「助かった! 俺たちは、助かったんだ!」
村は、絶望の淵から一転、歓喜の渦に包まれた。
だが、祝宴を開く余裕などどこにもない。
男たちは武器を放り出して抱き合い、涙を流して生還を喜んだ後、すぐに我に返って後片付けと荷解きという、現実的な作業に取り掛かった。
「早馬を出せ! レールダルへ向かった女たちを、今すぐ呼び戻すんだ!」
村長の檄が飛ぶ。
村は、夜を徹して、避難用の荷物を解き、血と混乱の痕跡を片付けるという、別の種類の喧騒に包まれることになった。
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夜が明ける頃、避難先から引き返してきた女子供たちが、村へと戻ってきた。
事情を聞かされた彼女たちは、泣きながら夫や父親に抱きつき、村の無事を神に感謝した。
その歓喜の輪の中で、エルは、最も感謝を捧げるべき男の姿がないことに気づいた。
「村長さん、アキラ様は……?」
村長は、はっとしたように顔を上げた。
混乱を収拾することに気を取られ、英雄の存在をすっかり失念していたのだ。
「ああ、アキラ様なら、例の空き家で……」
それを聞いていた村長の奥さんが、心配そうに眉を寄せた。
「まあ……。まさか、ガルドさんが連れ帰った、あのままの格好ではありますまいね?」
その言葉に、エルは血相を変えて駆け出していた。
案の定、明は薄汚れた毛布の上で、血と泥にまみれたまま、意識を失っていた。
ボロボロになった衣服はもはやただの布切れと化し、夥しい血糊が乾いて、その肌にこびりついている。
村を救った英雄に対する、あまりにもあんまりな仕打ちだった。
「村長さん、お願いします! アキラ様の手当てを、私がさせてください!」
エルは村長の家へ取って返すと、涙ながらに懇願した。
その場にいた村人たちは、顔を見合わせる。
この数日間の明の振る舞いから、彼が人前で肌を晒すことを極端に恥ずかしがっていることは、誰もが知っていた。
そして、エルが彼に特別な好意を寄せていることも。
「……分かった。エル、頼んだぞ」
村長の許可が出ると、村人たちは暗黙の了解のうちに、英雄の身体を清めるというデリケートな役目を、エル一人に託すことにした。
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エルは、清潔な布と、お湯の入った桶を手に、再び明の部屋へと戻った。
男たちは、何か手伝いが必要になった時のためにと、部屋の外で静かに待機してくれている。
二人きりになった部屋で、エルはごくりと唾を飲んだ。
そして、意を決すると、明の身体に纏わりついている、もはや衣服とは呼べない布切れを、そっと剥がしていく。
血糊と泥を、濡れた布で丁寧に拭い去っていく。
その下から現れたのは、彼女が想像していたような、無数の傷跡ではなかった。
信じられないことに、あれほどの死闘を繰り広げたというのに、彼の身体には、切り傷一つ、打撲の痕すらなかったのだ。
ガルドから聞いていた、ありえない方向に折れ曲がっていたはずの左腕も、何事もなかったかのように健常なままだ。
そこにあるのは、まるで鍛え上げられた彫像のように、しなやかで、力強い筋肉に覆われた、あまりに逞しい肉体だった。
エルは、その人間離れした肉体に畏怖を覚えると同時に、まだ若い彼女の心を、抑えきれない興奮が満たしていくのを感じていた。
この英雄的な男の、誰にも見せたことのない姿を、今この瞬間、自分だけが見ている。
その事実に、密かな、そして背徳的な喜びが胸の奥から込み上げてくる。
夢中で彼の身体を清めていくうちに、ふと、髪に隠れた頭部に、何か硬い感触があることに気づいた。
そっと髪をかき分けると、そこには、治癒してから久しいであろう、一本の古い傷跡が白く残っていた。
やがて、彼の身体を完全に清め終えると、エルは外で待っていた男たちに声をかけた。
「……終わりました」
男たちは静かに入ってくると、手早く明に村で用意した質素な寝間着を着せ、ようやく整えられた清潔なベッドへと、彼を慎重に運び込んだ。
その安らかな寝顔を見つめながら、エルは、この男のために何かをすることに、これまでにないほどの喜びを感じている自分に、気づいていた。
思うのと書くのでは大違い。
あぐねながら書いてます。
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