1章9節「隘路の死闘」
ウンドレダル村から森へ半刻ほど歩いた場所に、その隘路はあった。
両側を切り立った岩壁に阻まれ、屈強な男が三人並べば道を塞いでしまえるほどの、天然の要害。
木々の枝葉が天蓋のように覆いかぶさり、昼間だというのに薄暗い。
ガルドは明を隘路の入り口に立たせると、身軽に背後の大樹を駆け上り、太い枝に身を潜めた。
眼下には、これから死地となるであろう道筋と、そこに一人立つ男の背中が見えた。
その背中は、不思議なほど落ち着いて見えた。
明は、静かに目を閉じていた。
岩肌を撫でる風の音に混じって、遠くから地を揺るがすような、おびただしい数の足音が聞こえてくる。
鉄と腐臭の混じったような異様な臭気が、風に乗って鼻腔をくすぐった。
彼の内なる感覚が、数の把握を放棄するほどの、圧倒的な敵意の濁流として警告を発していた。
それは五十という数で収まるものではない、もっと根源的な死の塊だった。
(……ああ、これは死ぬな)
不思議と、恐怖はなかった。
元の世界で、ただ摩耗するだけだった日々と比べれば、誰かを守るために死ぬという結末は、あるいは幸福なものなのかもしれない。
彼は静かに目を開き、背負っていた弓を手に取った。
やがて、道の向こうの暗がりから、最初のゴブリンが姿を現した。
汚れた皮鎧をまとい、錆びついた剣を手に、きょろきょろと周囲を警戒している。
その後ろから、続々と同族たちが溢れ出てきた。
その数、まさに津波の如し。
緑色の醜悪な波が、隘路を満たしていく。
ひゅっ、と風を切る音が響いた。
明の放った矢が、先頭のゴブリンの眼窩に深々と突き刺さる。
悲鳴を上げる間もなく、ゴブリンは仰向けに倒れた。
一瞬の静寂。
次の瞬間、ゴブリンの群れが、一斉に鬨の声を上げた。
憎悪と飢餓に満ちた、耳障りな絶叫。
奴らは、隘路に立つたった一人の人間を目がけ、我先にと殺到してきた。
明は冷静に、二の矢をつがえる。
迫りくる群れの、最も速く駆けてくる一体の喉を正確に射抜いた。
だが、それで終わりだ。
これ以上の射撃は、押し寄せる敵の波に呑まれることを意味する。
彼は弓をその場に投げ捨て、背中の剣を抜き放った。
そこからは、ただの乱戦だった。
隘路の狭さが幸いし、一度に相手にする敵は三体ほどに制限される。
だが、それでも次から次へと、緑色の波が途切れることなく押し寄せた。
右から振るわれる剣をいなし、左から突き出される槍を避け、正面の敵の心臓を貫く。
一体倒せば、その後ろから二体がその隙間を埋めようと殺到する。
終わりが見えない。
足元は、自らが流させた敵の血でぬかるみ、踏みしめるたびにぐちゃり、と嫌な音を立てた。
その時だった。
ゴブリンの壁を押し分けるようにして、一体のオーガが咆哮と共に姿を現した。
その手には、大木をそのままへし折ったかのような、巨大な棍棒が握られている。
「ブオオオオオッ!」
オーガは、眼前の小さな人間を叩き潰さんと、渾身の力で棍棒を振り下ろした。
明はそれを、咄嗟に剣で受け止める。
凄まじい衝撃。
だが、彼の身体はびくともしない。
しかし―――
キィン!
という甲高い悲鳴を上げて、彼の愛用してきた銅の剣が、半ばから砕け散った。
(―――終わった)
樹上のガルドは、その光景に息を飲んだ。
武器を失った今、あのオーガの一撃を受ければ、アキラの身体など一瞬で肉塊と化すだろう。
ガルドは死を覚悟し、弓を引き絞った。
せめて、一矢報いなければ。
だが、ガルドが矢を放つよりも速く、明は動いた。
砕けた剣の柄を投げ捨てると、迫りくる棍棒を紙一重で回避。
その勢いのまま、隣にいたゴブリンの顔面を、素手で殴りつけた。
ごしゃり、という鈍い音と共にゴブリンは沈み、明はその手から汚れた剣をひったくる。
そして、がら空きになったオーガの懐に飛び込み、その剣を巨体の胸に、柄まで深々と突き立てた。
オーガは、信じられないといった表情で自らの胸を見下ろし、絶叫を上げて倒れた。
本来であれば、オーガはその強靭な生命力で、たとえ胸を剣で貫かれても、しばらくは暴れ狂うはずだった。
だが、アキラの一撃は、まるでその生命の源そのものを断ち切ったかのように、あまりにもあっさりと、その巨体を沈黙させた。
ガルドには、何が起きたのか理解できなかった。
その瞬間から、明の動きが変わった。
オーガという大敵を屠ったことで、彼の内に眠っていた何かの箍が外れた。
もはやそこに、佐藤明という個人の意思はなかった。
瞳からは理性の光が消え、ただ、目の前の動くものを破壊するためだけの、原始的な本能がその身を支配していた。
斬る、殴る、蹴る、噛みつく。
使えるものは全て使い、ただひたすらに、敵を殺戮していく。
その動きは、もはや人間のそれではない。
無駄がなく、あまりに効率的で、まるで精密な機械のようだった。
最後に残ったのは、ひときわ体格のいい、禍々しい装飾の斧を持ったゴブリン――ゴブリン・ジェネラルだった。
将軍は、鬼神の如き明の姿に恐怖しながらも、群れの長としての誇りからか、雄叫びを上げて斬りかかってきた。
明は、その斧を左腕で受け止めた。
肉が裂け、骨が砕ける感触。
だが、彼は痛みすら感じていないかのように、その左腕で斧を掴んで動きを封じると、右手の剣で、将軍の首を胴体から切り離した。
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隘路は、緑色の血と、無数の骸で埋め尽くされている。
その死体の山の中心に、アキラは一人、微動だにせず立ち尽くしていた。
その姿は、英雄というよりは、むしろ厄災そのものだった。
樹上のガルドは、ただ言葉を失い、立ち尽くしていた。
(あれは……あれは、人間じゃねえ……)
本能的な恐怖が、ガルドの身体をその場に縫い付けていた。
今、あの男に近づけば、自分もあの骸の一つになる。
そう、直感が告げていた。
どれほどの時間が経っただろうか。
死体の山の中で立ち続けていた明の身体が、ふらり、と揺れた。
そして、糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。
ガルドは、さらに数分待った。
そして、意を決すると、恐る恐る樹から降り、ゆっくりと明に近づいていく。
血と泥にまみれたその顔は、ただ安らかに眠っているかのようだった。
夥しい返り血を浴び、左腕はありえない方向に折れ曲がっている。
だが、その身体には、他に目立った外傷はなかった。
彼は、気を失っているだけだった。
ガルドは、自分でも信じられないほどの安堵のため息をつくと、この常識外れの男の亡骸――いや、眠りこける英雄を担ぎ上げ、静かに村への帰路についた。




