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蒼い霊廟に溶けゆく祈り

 ティムランはひとり、果てしない砂の海を越えてきた。西の都を出てから、幾日も幾夜も、ただ黙々と歩みを進めてきた。相棒は、砂の民の血を引く頑丈な一頭のラクダだけ。昼には陽が大地を焼き、岩の影すら溶けるような灼熱が空気を支配し、夜には星が降るほどの静けさと冷気が身を包んだ。彼はその両方を、幾重にも重ねるようにして、くぐり抜けてきた。


 身を焼く太陽にさらされ続けた皮膚は乾き、唇はひび割れていた。砂漠の風は容赦なく、汗の残り香さえ吸い取っていく。汗にまみれた衣の下、背中はじっとりと濡れているのに、風が吹くたび肌が冷え、熱と寒さが交互に襲いかかる。体はすでに限界に近かった。足の震えをラクダの歩みに預け、半ば夢と現の狭間で目を細めながら、彼はただ、前へ、前へと進んだ。


 それでも、歩みは止まらなかった。


 胸の奥には、ひとつの光があった。目指すは、遥か東にあるという蒼い霊廟——青の宮殿と呼ばれる、祈りと記憶が静かに眠る場所。長き旅路の果てに、それがただ一つの目印として、彼の心を照らし続けていた。身体が悲鳴を上げるたび、彼はその光を思い浮かべ、背筋を伸ばした。疲労が積み重なるほどに、なぜかその光は明瞭さを増し、心の内側から熱を灯していった。


 ようやく、小さな泉が視界に現れたとき、彼は思わず手綱を引いた。乾いた喉を潤すには、ただの一滴でも十分だった。ラクダは待ちきれぬ様子で水面に顔を突っ込み、ごくごくと音を立てて飲む。ティムランもまた膝をつき、両手で水をすくい、口に含んだ。熱に焼かれた喉が、ようやく静かに息を吹き返す。顔を上げて空を仰ぐと、陽炎の向こうに揺れる地平線の彼方に、旅の終わりと始まりが重なった街が、確かに待っている気がした。




 市場の喧騒がティムランを迎えた。乾いた旅路の終わりを告げるかのように、人々の声、金属の音、香辛料の香りが一斉に押し寄せる。日干し煉瓦の建物に囲まれた広場では、色とりどりの果実や陶器が山のように積まれ、焼きたてのナンの香ばしい匂いが風に乗って漂ってくる。ここでは、水は冷たく、食料は豊かだった。砂漠での生存とは違う、『生きている』実感が、この街には満ちている。相棒を労うように背を撫でると、街の入り口にあった厩舎に預けた。


 ティムランは、街の喧噪に身を任せるように歩いた。鮮やかな青や朱に染められた布、磨き上げられた真鍮の器、籠いっぱいに盛られた干し果実やナッツが視界を賑わせる。途方もない旅のあいだ、こうした賑わいの記憶はどこか遠い幻のようだった。だが今、彼の前には確かにある。水の音、人々の声、焼けた石畳の熱気に混じる香辛料の甘くも刺激的な香り——それらすべてが、疲れ果てた彼の感覚を優しく呼び覚ましていく。


 刺繍を扱う店の前で足を止めた。スザニと呼ばれる布が、風に揺られ、夕陽を受けて柔らかく光っていた。幾何学と花を組み合わせた意匠は、まるで星座のように美しく、布を手に取ると、絹のしっとりとした感触が旅の荒れた手を癒すかのようだった。


「良い目をしているな、旅の方」

 店主がにこやかに声をかけてきた。

「これらは、この街の娘たちが夜なべして縫い上げたものだよ。見るがいい、同じ模様は一つとない」

 ティムランは、旅の途中で手に入れた西方の金細工を取り出し、無言で差し出した。異国の細工と、この街の手仕事が、静かに交換される。

「いい取引だ。食べ物を探しているなら、あの通りの奥がいい。焼きたてのナンと羊の串焼き、香草スープもあるぞ」


 礼を言って布を肩に掛け、市場の奥へと足を進める。喉の渇きが癒え、胃袋が満たされ、体がようやくひとつの生き物として蘇ってくる。だが、心の中にはもうひとつ、まだ辿り着いていない場所への渇望があった。


 翌朝、彼は夜明け前の澄んだ空気の中、月明かりを頼りに宿を出た。




 夜明け前の風は澄みきっていた。深く吸い込めば、砂の匂いがわずかに残る。幾度も夜を越えた足取りで、ティムランは静かに歩き続ける。街の灯が遠ざかるにつれ、空の端が仄かに紫を帯びていく。


 数刻歩いた先に、目の前にそれは現れた。


 砂の地平にそびえる霊廟——まるで大地が夢を見たかのように、不自然なほど静かで、完璧な対称を保ち、そこに佇んでいた。青の宮殿と呼ばれるその建築は、朝の薄明に照らされながら、夜空の名残と朝日の兆しを同時に映していた。


 遠くからはひとつの青い塊に見えた壁も、歩を進めるごとに多様な「青」が層をなして迫ってくる。タイルに施された紺青、碧緑、群青、空色、瑠璃色——無数の青が静かに重なり合い、視線を吸い込み、心を深い場所へと誘う。青はもはや色ではなかった。それはこの建物の呼吸であり、精神であり、祈りそのものだった。


 門に近づくと、タイルのひとつひとつが光を受けて輝き始める。決して装飾ではなく、光と影の調和に導かれた構造美。それは建築というより、光の中に浮かび上がる神秘の結晶のようだった。職人たちの意匠は、時間の堆積そのもののように、静かに積み上げられている。


 ティムランは誰に導かれることもなく、門をくぐった。


 内部は外よりも静かだった。音がないのではない。音が「消えている」。まるでこの場においては、言葉も、足音さえも不要なのだと建物自体が告げているようだった。


 見上げると、天井は果てしなく高く、中央のドームからはわずかな光が差し込んでいた。その光が、金を縁取ったタイルの文様に当たり、ゆるやかに空間全体を淡い光で満たしていく。壁面は繊細な幾何学と唐草模様が一面に広がり、そこに散らされた金の細工が、まるで沈黙の中で舞う音符のように浮かび上がっていた。


 ティムランは中央に据えられた白い石の前に跪いた。旅の埃を払うことも、布を整えることもせず、そのまま静かに手を合わせた。もはや言葉はいらなかった。願いも、過去も、名も、ただこの空間の静謐さに溶けていく。長い旅の末に残ったものは、ひとつの澄みきった祈りだけだった。


 この青に包まれていると、時間の概念すら曖昧になる。ただ、風の音のような沈黙と、色彩の奥に満ちる静かな気配だけが、すべてを満たしていた。


 やがて、遠くで礼拝を告げる鐘の音が小さく響いた。


 祈りを終えると、役割を終えたティムランの名をここに留めることにする。


 名もなき旅人は、ゆっくりと立ち上がる。その足取りは、もはや疲れを感じさせず、迷いもない。


 彼は振り返らずに、霊廟を後にする。静かに、しかし確かに、新たな道へと歩み出すのだった。



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