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月下に映える猫耳

好評なら続編を書きます

「ただ……御主人様は……ただ気持ちよくなるだけで良いのです……♡」



とある国の男爵、オイゲネ・ランズバーグには近頃ひとつの悩みが影のように付き纏っていた。。彼の一人娘であるイルーゼのことである。彼女は幼くして流行り病によって母を失い、オイゲネの手一つで育てられてきた。その身分により、家族を養うための金銭面で困ることはまったくなく、むしろ二人で過ごすのには余裕がある生活が続いていた。だが、近頃では、成長する娘がオイゲネに相談しづらいことが増え、父親としての役割を果たすのが難しくなっていた。まもなく身だしなみに心を砕く年頃となった娘に対し、父オイゲネは、ドレスの流行はおろか、髪ひとつ結う術すら持ち合わせていなかった。その悩みに終止符を打とうと考えたオイゲネが辿り着いたのは、教育係――すなわちメイドの雇用という、父親としての一手であった。勿論、人一人を雇うのは安くはない。その証拠に彼のような男爵クラスだと執事やメイドを雇っていないところも少なくはない。ただ、彼は最近ある噂を聞いた。彼の所領近くの国で起こった内乱により祖国を抜け出した亜人族が流れ込んでいると。その影響で最近は比較的簡単に亜人族を雇うことができるらしい。


「これも教育費か……」


オイゲネはそう呟き、一日の職務に手をつけるのであった。





「今日からよろしくお願いしますね♡」


案の定、メイドはすぐ見つかった。例に漏れず、彼女もまた猫耳と尻尾のある亜人族であった。名前はエヴァンズ。18歳の小娘であったが、しっかりとした印象を与えるエヴァンズを、オイゲネは試しに雇うことにした。背丈はやや小柄で、あどけなさの残る輪郭。それでも、透き通るような白肌と、光を受けて輝く肩のあたりで綺麗に整えられたプラチナブロンドの髪、そこに映える焦げ茶の猫耳は、まるで絵画から抜け出たような異質の美しさを備えていた。おそらく、亜人族の中でも容姿だけなら頭一つ二つ抜き出るほどであった。


「君は自分の役割を解っているな?」

「はい、イルーゼ様の教育係、もとい母親の代役ですよね?」

「その通りだ」

「ですが……まだ娘を持ったことのない私がそのような重役を戴いてもよろしいのでしょうか?」

「構わないよ。どんな母親でも最初から子育ての経験がある者はいない。それにもしそんなに不安であるのなら辞めて貰ってもかまわんが……」

「いえ……私、このエヴァンズ、全力で努めさせていただきます!」


まだ若い彼女に母親の代わりを努めさせるのは些か酷であるように思える。だが、一回りも二回りも歳の離れた者ではなく年齢の近いエヴァンズなら、イルーゼも自然と心を開き、友達のように接することができるのではないかと、オイゲネは密かに淡い期待を抱いていた……


イルーゼが新たな家族であるエヴァンズに懐くのに長い時間は不要であった。猫の見た目通り人間に対する甘え方というのを熟知しているかのようであった。自分から積極的に話しかけない、どちらかというと大人しいイルーゼがあそこまで楽しげに話すのを見ると彼女を知る者たちは皆驚くほどであった。父親であるオイゲネは始めこそ仲睦まじい二人に嫉妬の念を抱いていたが、最近では父親として、娘の笑顔が増えてきていることに満足しているようであった。実の母親を失った悲しみというのはたとえどんな感情でもイルーゼにしかわからない。ただ、エヴァンズはその失った悲しみを埋めるために必死になっている。時に厳しい部分もあるが、第二の母親としての責任が故だろう。

オイゲネのエヴァンズに対する信頼は日を追うごとに増していった。



イルーゼが寝静まった夜遅くのこと。

オイゲネは自身の邸宅の庭を散策していた。静寂を裂くように、噴水の囁きと彼の革靴が石畳を打つ音だけが、庭園に淡く反響していた。夜の静けさの中、彼は庭を歩くひとときが最も安らぐ時間であり、その瞬間に心を委ねるのが何よりの楽しみだった。彼の妻は、南の夜空に浮かぶ月を眺めるのが好きだった。それは、いつも小さなベンチに腰を下ろして、互いに何気ない言葉を交わしたひとときだった。その取り返せない思い出に浸るために、相手がいなくなった今も時折こうして一人で耽るのが密かな楽しみであった。


「君も今頃同じ月を見ているか?」


ふと漏れた独り言。もちろん、返事などあるはずもないこの静寂の中――。


「はい、勿論見ていますよ?」


背後から聞こえた声に思わず飛び上がる。一瞬、妻が会いにきたのかと思ったが、声の主はエヴァンズであった。

月明かりに照らされた彼女の髪は黄金色に輝いており、周囲に何もない中、一際輝いていた。


「エヴァンズか……全く驚かせないでくれ……」

「驚かせないでくれと言われましても……御主人様の方こそ何をしていたのですか?」

「……趣味の散歩さ……この時間に独りで庭を歩くのが好きなんだ……」

「そうだったんですか……よろしければ私も少しの間ご一緒して宜しいでしょうか?」

「構わないよ。」


それにしてもどうして彼女はこんな時間に出歩いていたのだろうか?すでにイルーゼと一緒に寝たものだと思っていたが、寝つけないのだろうか?


「君はどうしてこんな時間に?」


少しの気まずさから思わず口から出た言葉であったが、僅かな沈黙の後、


「……秘密です♡」


彼女はにっこりと妖艶な笑みを浮かべ、言葉少なにその答えを返した。



その後は特にこれといった会話もなく、しばしの沈黙が続いた後、月は少しずつその位置を変え、庭に落ちる光もやわらかくなり始めた。夜風のせいか寝間着ではやや肌寒くなってきた。寒さに強い亜人族のエヴァンズでさえもも寒いのは同じであったようで、波のない湖畔に石を投げ込むかごとく、彼女は唐突に口を開いた。


「ごめんなさい……少し寒くて。少しだけ、そばに寄ってもいいですか?」

「……ああ、構わないよ。」


その瞬間、彼女の茶色の猫耳がぴくりと動いた。そしてくっつくほどに二人の距離が縮まると、彼女の柔らかな髪が風に揺れ、彼の頬を優しく撫でた。

猫耳の先が彼の肩にちょこんと触れた瞬間、彼は思わず息を呑んだ。

「……ご主人様」

寄せた肩越しに、彼女の声が聞こえた。

「私……こうして、あなたの隣にいると、胸があたたかくなるんです」

オイゲネは一瞬、答えに詰まった。

「……それは、君がこの屋敷に馴染んできた証だ。良いことだよ」

それは、優しさに包んだやんわりとした否定。

だが、エヴァンズの茶色の猫耳がぴくりと動き、次の瞬間、彼女の声色が変わった。

「……違います」

静かな怒気にも似た熱がこもる。

「そんな言葉で、逃げないでください」

彼女は身を起こし、オイゲネの目をまっすぐ見つめた。

「私は、あなたが好きです。イルーゼ様のためとか、役目だからとか、そんな言い訳じゃないんです」

「あなたの声が聞きたくて、あなたの笑顔が見たくて、あなたのために毎日頑張りたいって、思ってるんです……」

頬は赤く染まり、手は震えていた。けれど彼女の瞳は曇りなく、どこまでも真剣だった。


「……でも、違いました」

彼女はゆっくりと、彼の肩に顔を寄せる。

「あなたのそばにいるたびに、胸がぎゅっとなって……もっと一緒にいたいって、思ってしまうんです」

一拍の間のあと、彼女の声が風に紛れて続く。

「私……あなたが、好きです」

オイゲネは答えに戸惑ってしまった。彼女にその素振りが全くなかったのかと言われれば嘘になる。けれど、それが“情”なのか、“愛”なのか──彼には測りきれなかった。

「エヴァンズ……君はまだ若い。きっと今は……」

「若さのせいで本気じゃないって、そう言いたいんですか?」

「……それは……」

「じゃあ、私の目を見て、そう言えますか?」


彼は何も言えなかった。言葉にできるはずもない。

エヴァンズの瞳はただ、静かに彼を見つめていた。

次の瞬間、そっと彼の手に自分の指先が重なった。冷たくて、柔らかくて──でもその微かな震えが、すべてを語っていた。

「御主人様……」

彼女の声は囁きに近い。

「無理に答えなくていいんです。ただ……御主人様は、気持ちよくなるだけでいいのです……♡」

その声音は甘くて、優しくて、けれどどこか抗いがたい色気を帯びていた。

彼女の指が、ゆっくりと彼の手を包み込む。

「全部、私が受け止めますから──」


そう囁いた瞬間、彼女の指にふっと力が込められた。

そのまま、ためらいのない動きで彼の手を引き──

気づけば、オイゲネの身体はベンチの背に預けられていた。

「エヴァンズ……?」

驚きに目を見開く彼の胸元に、彼女の細い指が触れる。

まるでそこにあらかじめ居場所が決まっていたかのように、エヴァンズの身体がそっと彼に重なる。

茶色の猫耳がぴくりと揺れ、彼の肩をそっと撫でた。

「今夜だけは……私に、全部委ねてください」

月明かりが差し込む中、彼女の瞳は一片の迷いもなく、ただまっすぐに彼を射抜いていた──。


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