3.電信柱のような影
結婚宣言をされ、華々しく片恋の塊が散ってから―――一ヵ月。
偶然、控え室に薪さんと二人だけになった。薄暗くてどんよりとした蛍光灯の元、仕事上がりの薪さんがネクタイを緩めている姿は美しく、三十四歳の大人の哀愁をたっぷり振り撒いていた。
「おつかれさまです」とその背中に声をかけると、
「おつかれさまです」と薪さんは私を振り向いた。
私は机に置いていたエプロンを取って、肩に紐を通し腰のうしろに結ぶ。しんとして私たちに会話はなかった。いつもは新譜や好きなミュージシャンのことなど、何かしら話題はあったのに。
やり場がないので、仕方なく控え室を出て行こうと扉に向かうと、帰りの身支度を整えた薪さんもうしろにやって来た。扉にはもう手を掛けていたのだが、開くことはせず、くるりと振り返った。
突如、そこに大きな黒い影が落ちた。電信柱のように大きな薪さんに立たれると、もともと薄暗い蛍光灯の光がほとんど届いてこない。
立ち止まって振り返った私に驚いている薪さんの暗い顔を見上げているうち、脈が勝手に暴れ、どきどきと打ち鳴り、押さえていないとばれてしまいそうなほど腕と足がぶるぶると震えてきた。
そんな、ときめきという体の暴走を止めるためにも、目の前の男性は、カボチャ、ナス、またキュウリだと自身に暗示を掛けようと試みたが、今度は身体が硬くなるばかりだった。
それでも私はどうしても聞いてみたいことがあった。
「キュウ…にこんなことを聞くのもアレ何ですけど…奥さんはここの人なんですか」
「そうです」
薪さんは困惑した様子を隠しもしない。
「誰、なんですか」
胸がドキ病を発して爆発してしまいそうだった。知りたいからといってなぜ実際、こんなとこで通せんぼうしているのか自分でもわからない。
「三船さんです」
私の上司じゃないか。
「もしかしたらと思ったことはありましたけど、まさか本当に三船さんだったんですか」
「なに、三船さんだと思ったことがあるの?」
薪さんは計算外だというように目を見開いた。
「お二人、お似合いだなと思って見ていたので」
それに薪さんと三船さんはフロアですれ違っても挨拶らしいものもなく会話もほとんどなかった。なのにときどき両者ふいに笑い合うときがある。あやしかった。
薪さんの目は泳ぎ、
「ばれないように気を使っていたつもりだったんだけどな」
「大丈夫ですよ。多分、他の人にはばれてないです」
「そうなの、誰も変な噂してない?」
あらぬ方向に向けていた視線を私に戻す。私は力強く頷いてあげた。それからまた少し沈黙が流れた。と同時に、今、扉の向こうから誰かやってきたら、どうやってこの場を切り抜けたらいいのかと不安が襲った。
「そういえば」
とゆらりと腰を曲げて、何か案があるかのように、薪さんが訝しげに私を見た。
「僕も話があったんだけど。どうして小野さんは僕に好きだと言ったあと、つき合いたいとか、僕がどう思ってるか、とか聞かなかったの」
呆気に取られた。薪さんが何を言っているのか理解できなかった。結婚していると聞かされた私にどうしろと、どうして欲しかったというのだ。
「聞かないんじゃないですか、普通は。新婚さんには特に」
蛇とマングースが睨みっこしているような錯覚に陥った。少なくとも私の方は納得いかない面持ちで、馬鹿にされているような気さえした。
薪さんは首を右に傾けて右手でがしがしと頭を掻いた。仕事のときでも、迷ったときや考えているときにする仕草だった。
「ごめん。怒らないで。そうじゃなくて結婚していても僕の意思を聞いて欲しかったというか、僕が小野さんをどう思っているのか確かめて欲しかった」
混乱しながら、どうにかまとめようと四苦八苦しているようだった。俯いてまた目を逸らす姿がどこか新鮮だった。仕事中、薪さんが私と話していて目を逸らすということはなかった。仕事中だけじゃない、雑談でも告白をするより前は。
「どういうことですか?」
「今年の春に結婚したとは言ったけど、小野さんを好きじゃないとは言ってない」
薪さんがすっかり小さくなったように見えた。シャツに包まれた広い肩がまったく身動きしないので、ひどく頼りなかった。
「僕のこと、まだ好き?」
「ああ、はい」
「そう。よかったら連絡して欲しい。待ってる」
そう言うと左手にぶら下がっていた鞄からメモを取り出し、何か書くと、破いて私に紙片を差し出した。そこには携帯電話の番号とメールアドレスが記載されていた。