2.賽の河原~恋愛バージョン〜
彼はつい三ヶ月前まで独身貴族だった。私は彼の若作りに騙されてしまっていた。結婚しているはずがないと思い込んでいた。二十代後半くらいに見えていたし、周りの噂もばっちり洗っておいていたつもりだった。「薪チーフは結婚していないですよ」と先輩の男の子は一緒にレジに入ったときに教えてくれた。それならと意気込み告白をしたら、座っていた椅子をくるりとこちらに向けて薪さんは、
「結婚しているんですけど」
と発言した。実にしれっとしていた。若干笑みが入っていたような気もする。ついでに年齢なんか尋ねてみると、
「三十四歳です」
ということだった。緩ませた頬には確かに張りがなかった。
想いは水の泡となった。それも独身の足を洗ったのは今年桜が咲いた頃だそうだ。私は冬も終盤、二月中頃、このCDショップにやって来た。面接官として真向かいに座ったのが薪さんだった。そのときくらいしか独身同士二人で向かい合えた日はなかったということになる。
ひとめ惚れではあったけど、事務所の奥には他に従業員がいるし、面接を受けに来た新人が目を瞬かせて面接官に「タイプです」と言うわけにはいかない。
だけど薪さんは、賽の河原~恋愛バージョン~にいる鬼のような人だったことが、あとでわかることになった。
・鬼 薪
・石を積む人間 私
然れども、地道に恋心という名の石をせっせと積んだ挙句、鬼の棍棒に一息ガシャーンと崩されてしまうようじゃあ、やるせなくもなり、砕けた石をわなわなと握り締め、きっと鬼の顔を見返してはみるものの結局、
「また積んでいきますんで、よろしくお願いします」と頭を下げるしかなかった。それくらい鬼は人間にとって有無を言わさぬ魅力があった。
「あんさん、わて人のもんやからあんさんのものにはなれへんのや。石は積み上がりそうになったら、崩されてまうのがルールなんや」鬼は言った。
鬼に肩を叩かれ人間はいったん河原を去った――
ソファに並んで座りコーヒーをすする。大好きな人とひとつのソファに座るのは私の夢だったので、薪さんと付き合うことになってすぐインテリアショップに走った。愚鈍な私が物事を急いで進めたのは非常に珍しいことだった。買い物はいつもぎりぎりにならないと行かない。それくらい普段は何もかもが面倒くさい。
あまりにじっと見つめていたので、気付いた薪さんが飲んでいたコーヒーをテーブルに置き、
「どうした?」と聞いた。
私は「なんでもない」と答えながら、出がらしのコーヒー豆をゴミ箱に捨てた。
鬼はいつも棍棒を振り回しているわけではなく、ときに石が積み上がるのを待っているのだ。