時唄県双瀧郡うすば町涸瀧山(2)
それにより私は自由に動けるようになる。試しに私の遺体に入ろうとしてみるが、それは無理そうだった。
和子と洋子は山林のどこかに消えてしまう。私は笛吹ちゃんを捜す。笛吹ちゃんも幽霊になったはずだが、私が状況を把握したときには遺体の傍にはいなくなっていた。混乱して動き回っているんだろうか?
私がそうであるように笛吹ちゃんも心細いはずだ。幽霊になるなんてわけがわからない。とりあえずひとりよりふたりのほうが、安心ができるんじゃないだろうか?
そしてふたりで知恵を絞って、どうにか杉原さんに状況を伝えられたら、生き返れないにしても除霊師を呼んだりして、私たちのような被害者をこれ以上は生み出さないようにできるかもしれない。
そうだ。
死んだ私たちにできることは、次の被害を生み出さないことだ。じわじわと襲ってくる、もう生きて色々としていくことはできないんだ、というこの喪失感を、悲しさを、他の人に味わわせないように努力するのだ。そうしてこのわけのわからない悲劇を根絶するべきだ。
そう思って捜し回っているうちに日が暮れる。山のなかに杉原さんが入ってくるのを見る。何かあったのかと心配になったのだろう。ごめん杉原さん。本当に何かあってごめん。
私ひとりで考えなくては。ひとまず、色々と試してみたけれど、何か物体を持つということはできなさそうだ。それではどうしようか、と悩んでいると、笛吹ちゃんが木々の隙間から出てくる。そして杉原さんに近づく。私は理解する。つまり、私が和子に乗り移られたときのように、乗り移れば事情を説明できると判断したのだ。
笛吹ちゃん賢い!
感心しながらとりあえず見守る。
笛吹ちゃんは杉原さんのなかに消える。杉原さんの動きが停まり、無表情になる。身体の主導権を笛吹ちゃんが握ったのだろう。
笛吹ちゃんに操られ、杉原さんの身体は山林を突き進む。ショッキングだけれど、遺体を見せるのが手っ取り早いという判断だろうか?
違った。笛吹ちゃんは杉原さんの身体をスズメバチの巣の前で立ち止まらせる。え、とびっくりしながら私が思い出すのは、先週、杉原さんがスズメバチに刺されたと言っていたこと。
笛吹ちゃんは杉原さんの手を動かしてスズメバチの巣に触れ、両手で揺すらせる。粉がこぼれるみたいにハチがわっと出てくる。杉原さんの皮膚を毒針が囲む。
杉原さんの身体は悲鳴を上げることもなく黙って刺され続ける。やがて様子に生理的な反応が出てくる。アナフィラキシーショック。胸を押さえながら喘息を発作する杉原さんの全身から嫌な汗が流れてきていて、まずいまずいまずい、と私はパニックになる。何ができる? 何もできない。もう刺されてしまったし、症状が出て来たいまも刺され続けている。
笛吹ちゃんは杉原さんの身体から這い出る。杉原さんは一泊置いて、半狂乱になって山を駆け降りる。私はその後を追う。呼吸ができなくなって歩くこともできず、杉原さんは山林で死ぬ。
杉原さんの魂が肉体から解放される。笛吹ちゃんは、幽霊だから触れるのか、私の手を引いて杉原さんの視界から外れる。
何? どういうこと?
「う、ううう、うう、笛吹ちゃん? ど、どお、どういう」
「バレたら面倒臭いじゃん」と笛吹ちゃんは言う。「他の幽霊たちみたいに、よくわかんないけど死んじゃったんだな、ってめそめそしながら彷徨って、姿を保てなくなって消えればいい」
「はあ?」
「あんたも何もなくなるとそうなるから気をつけなね」
「わかんないわかんないわかんない。なんで? なんで杉原さん、杉原さんを、殺した、殺したの?」
「除霊の人でも呼ばれたら敵わないから」
私は動揺する。「……笛吹ちゃんのフリした洋子?」
「なわけ。魂の形を誰かに完璧に寄せることなんてできないんだよ」
「なんで、なんか……え、いままでどこにいたの?」
「和子と洋子から、ぶん殴るついでに話聞いてた。幽霊になったら何ができて、何に気をつけなくちゃいけないのか。ちなみにぶん殴れなかった。クソ。あいつら喧嘩強すぎ」
笛吹ちゃんはとっくに受け入れているのだ。幽霊になったものはしょうがない、と切り替えてルールを学びに行ったのだ。私なんてまだ現実感がないのに。
「なんで……なんでそんな、冷静でいられるの」
「だって、そりゃそうかって感じでしょ? 心霊スポットに、呪われる条件揃えて踏み入ったんだから。死ぬくらい覚悟してたでしょ?」
してなかった、私は。なんだかんだ、何かがあってもいつものようにどうにかなって、怖かったな……で終わると思っていた。
「してなかったなら、まあ考えが足りてなかったね。怪談に近づくって、原因がなんであれこっぴどい目に遭う覚悟をしていないといけないんだし、泣きを見たって親の死に目に会えなくたって、可哀想なわけないんだから」
「……笛吹ちゃん」私は言う。「でも、だからってどうして? どうして杉原さんを殺したの? どうしてこの不幸を連鎖させたの? もしかしたら、杉原さんや、それこそ除霊師? に協力してもらえば、この山の呪いそのものだってなくせるかもしれなかったのに」
「なんで? 逆に、なんで連鎖させないの? あんな目に遭ったら、普通他の人たちにもしっかり同じ目に遭ってほしいし、杉原さんだけ無事でいるなんて不公平で納得いかないじゃん」
「ふ……不公平?」
「つうか除霊って要はもう一回死ぬみたいなもんらしいし。嫌でしょ? 二回も死にたくないって気持ち、あんたにもわかるでしょ? だから避けるわけ」
「笛吹ちゃん! そんな、自分のことばっかり!」
「あんたのことでもあるんだよ。あんたも除霊されたら死ぬ。それに和子と洋子も死ぬかもしれない。それはいいの? 自分自身が死んでる人だから、生きてる人より死んでる人を優先する。何がいけないの? どっちも尊重されるべき存在じゃないの? それとも、あんた、まだ自分が生きてる人間の側だと思ってるのかな」
ぴしゃりと言われて私は固まる。実際、私は自分が死人である実感をどれくらい持てているだろうか? 持てていない。全部夢なんじゃないかとしか思ってない気がする。
除霊。また死ぬということ。死ぬときの感覚というのがないというか、身体が損壊される痛みは和子が全部引き受けていたから、なんだかぬるっと自分の肉体を抜け出した感覚だった。苦しいとかもない。むしろ笛吹ちゃんはどうしてそこまで実感を持てるんだろう、と考えて、まあ笛吹ちゃんはそもそも適応力が高いほうだったな、と思い出す。場に慣れやすいというか、郷に従い慣れているというか、価値観のアップデートがスマートだ。
生きている人間として、生きていく人間としての倫理観を、私も捨てなくちゃいけないんだろうか?
「ふらふらしてると死ぬよ」と笛吹ちゃんは言う。「幽霊なんて、気持ちだけで保ってるんだから。身体のあるときみたいに、消えたくても消えられない、辛くても維持されちゃうってことがない代わりに、自分であることを忘れて消えたい消えたいってなっちゃうとあっという間だから。ほら杉原さんメンタル弱いからもう消えたし」
私は何も返事ができない。