4.現役シスターによる不真面目なお説教講座
「——であるから、ヤコブは叔父のラバンから何年も苦しめられることになったのです。そして、彼は故郷へと帰ることを決意します」
神学の授業を聞いている間、シスターグレイは実に暇そうにしていることが多い。
——呆れるほど、学んだのです。ほとほと、神様とやらの人間優遇には呆れます。
果たして本当にシスターの思想なのかと物議を醸すことを考えながら、シスターグレイは微睡んでいた。
「その旅の途中、ヤコブは神と格闘し、祝福を求めました」
「はい、先生」
そんな少女を他所に、魔色がすらりと手を上げた。
「ヤコブが神と格闘するというのはどういう意味があったのでしょうか?」
「様々な説がありますね。一説には、ヤコブと神の格闘は、ヤコブ自身の葛藤を表しているとも言われています」
「なるほど、ありがとうございます」
なんと真面目な授業態度だろうか。シスターグレイは呆れ半分にノートに書き込む魔色を見ていた。
「はぁ。ほんと、憂鬱ですね」
魔色の幸せの逃げる音が、曇る六月の空へと吸い込まれた。おそらくは雨となり、二時間後には幸せが降り注ぐことだろう。
三年になって、購買部がすぐそばになったのは、魔色にとって嬉しい誤算だった。おかげで昼休みを慌ただしく過ごさずに済んでいる。
「魔色、最近ため息が多いね」
「そりゃ色々ありましたからね」
現在進行形でシャチのぬいぐるみを抱えて眠るシスターを魔色は横眼で睨んだ。
「またグレイちゃん?」
「そ。またグレイちゃん。もう、生活がだらしないって次元じゃないんですから」
「確かに授業態度は悪いかもね~成績は抜群なんだけど」
「成績ってものは猫を被るためにあるんですよ」
よくもまあ、悪魔が堂々と言えたものだが。
魔色から見て、シスターグレイという人間は壊滅的の一言に尽きる。いつも同じ味のポテトチップスだけを食べて過ごし、ゴミを捨てず、風呂をサボろうとして、黒光りする得体の知れない昆虫をかわいいからと放置する。魔色が補助しなければ、生活は成り立たないだろう。
「……私、今まで家事は下手くそだと思ってましたけど、自信がついちゃいました」
「魔色にそこまで言わせる人間、僕見たことないなぁ」
「私も出会いたくなかったですよ」
「ぅ……時間ですか」
シスターグレイがむくりと眠そうに起き上がった。同時に予鈴が鳴る。どうやら、午後の授業が始まるらしい。
「グレイさん」
「何ですか魔色ちゃん。ゴミ捨てなら拒否するのです」
「それはしてください。じゃなくて、なんで昼寝してるんですか?いつも十時に寝て遅刻ギリギリに起きるのに」
「シスターたるもの、いつでも寝るべきですから。神はいつだって、枕元に現れてくれるのです」
ドヤ顔でシスターグレイはシャチを掲げた。
「……そのシャチ、危険物を隠すだけじゃなくてそんな役割が」
「こっち(まくら)が本来の役目なのです。チャカはおまけですから」
おまけで拳銃が付いてくるぬいぐるみなど地獄にもないだろう。
「ま、本当は……」
「おい、授業始めんぞ」
ドヤ顔で話を続けようとするシスターグレイが、黒表紙で小突かれた。
‹›
数日後の日曜日。休日にもかかわらず、寮はにわかに色めきだっていた。
「グレイさん、起きてください。ミサの時間ですよ」
毎週日曜日の早朝、全生徒は礼拝堂へと集まる。
過剰なほど広いはずの礼拝堂にはぎゅうぎゅうに人が詰められ、さりとて香と聖書の匂いがオルガンと共に朝の喧騒を遠くへと追いやっていく。
ざわめく声も、神父の登場と共に徐々に静まった。
祈りの時間だ。
「立ちましょう。聖歌八十七番一節と二節」
厳格な神父の声は、礼拝堂の高い天井によく響いていた。騒ぎ声もなく、静かに生徒が立ち上がる。
そして、古いオルガンの音色と共に、生徒の唄声が礼拝堂を埋め尽くした。
「「————」」
シスターグレイは立ち上がりもせず、歌う生徒を見ていた。ひとりずつ、じっくりと。
熱心に歌う者、つまらなそうに歌う者、眠たげに目を擦る者。
実に満足げに、シスターグレイはほほ笑んだ。
ふと、シスターグレイが横を見れば、澄まし顔で魔色が歌っていた。
——悪魔は聖歌を歌えないから……ああ、歌うフリなのです。
思わず、シスターグレイは苦笑いを浮かべた。悪魔がシスターよりも真面目にミサに参加しているのはなんとも滑稽だった。
そうこうしている間に、聖歌は終わったらしい。次いで神父の説教が始まった。
実に不愉快な顔をして、魔色はマリア像を見上げていた。
「……つまらなそうな顔、してるのです」
「説教を喜ぶ悪魔なんていないですから」
「それもそうなのです。偽装は使えますか?」
「もう使ってますよ」
礼拝堂には、神父の声だけが反響していた。
音を立てず、おもむろにシスターグレイが立ち上がった。そして、魔色に手を伸ばす。
「外、行きません?暇ですし」
しばらく魔色は悩んで、手を取った。
曇天は崩れ始めていた。ぽつぽつと霧雨が降り、むせかえるような湿気が渡り廊下を満たしていた。
「んーなんとも嫌な景色ですね」
「まあ、つまらない礼拝堂よりはマシなのです」
袖からシスターグレイはチョコ菓子を取り出した。一粒摘まんで、魔色へ投げる。オルガンの音色が、僅かに聞こえていた。
「ありがとう、ございます」
食べずに、魔色はチョコ菓子を眺めていた。
「魔色ちゃんは何故ミサに参加するんです?」
「へ?」
「実に不愉快な顔してますから。なのに、真面目なフリをしてる。きっと、毎週参加してるんでしょう?」
楽しそうに、シスターグレイは少女を見ていた。
「なんで、ですか。ふふ」
ヘラりと自嘲するように、魔色は笑った。気が付けば魔色の背には真っ黒な羽が姿を見せていた。山羊の角が現れ、チョコ菓子をもてあそぶ長い爪は禍々しい。人とは相容れぬバケモノ。神聖な空間を居るだけで汚す怪物。永遠の敵対者。その忌み名は、数知れず。
「大した理由じゃないですよ。信用を勝ち取るために参加していたら、抜けられなくなってしまった。それだけです。もし来なかったら、親友が心配しちゃいますから」
「実に悪魔らしい理由で安心したのです。大がかりな陰謀でもなさそうですし」
「例えば全生徒の魂を食べるための準備をしている、とか?」
クツクツと少女二人は笑った。
雨が、本格的に降ってきたらしい。
「むしろグレイさんは「どうしてミサに不真面目なのか、です?」
シスターグレイは雨音に耳を傾けているのか、目を瞑り柱に背を預けていた。
雨が、激しくなった。微かに聞こえたオルガンの音が完全に途絶えた。
「ミサに参加する人の態度はまちまちなのです。眠そうにするひと、つまらなそうに歌うひと、熱心に歌うひと。人の数だけあることでしょう」
「……それが?」
「けれど神はきっとまんべんなく愛してくれるのです。なら、真面目に参加するだけ、損でしょう?」
シスターグレイの言葉に、冗談の声色はなかった。
「まるで共産主義者ですね。とても、神を信奉するものの言葉とは思えません」
「ふふ、共産主義も宗教のひとつですからね。本質的には、違いはないのです」
サラりと危ないことを言い切って、やはりシスターグレイはつまらなそうに雨空を見上げた。
「そう、宗教に貴賤はありません。所詮は歴史とユーティリティーの違いでしかない。他人が救ってくれるわけ、ないのに」
「グレイさん?」
「熱心に信じれば、救われる。それなら、なぜわたしよりも真面目に祈っていたあの子が悪魔に殺されなきゃならなかったのでしょう。魂を喰われれば、天国へはいけないのに」
憎しみ、悲しみ、やるせなさ。そのか細い声に、どれだけの想いが込められているのか、魔色には到底、理解できない。
「……」
だから、無言で魔色は少女を抱きしめる。身長差のある二人だ。シスターグレイはちょうど、魔色の胸に埋まる形になった。
灰色の少女は少しだけ抵抗して、やがて大人しくなった。嗚咽は、雨が掻き消した。
しばらくの間、雨音だけが渡り廊下には響いていた。
「……失礼したのです。悪魔の貴方に話すのはよくありませんでした」
「貴方は、いいんですか。悪魔と契約して、悪魔に魂を喰われるのが確定してるのに」
「言ったでしょう?熱心に祈っても、惰性で祈っても結果は変わらないと。そういうこと、なのです」
涙で腫れた顔で、シスターグレイはニコリと諦めたように、笑った。
あぁと魔色は理解した。逆だったのだ。どう祈ろうと、どう信じようと救われるのではなく、どう祈っても、どう信じても、悪魔に魂を喰われれば同じである。いっそ、神よりも平等に。
「私たちじゃ用途外ですよ」
「でも。食べてはくれるのです」
まるで破滅を求めてるみたいだった。けれど、彼女が要求したのは、自身の隠蔽と保護である。そのちぐはぐさが、魔色を困惑させるのだ。
「そんな顔、しないでほしいのです。どうせ一年後には貴方の糧になっている七十億の一匹ですよ?深入りしない方が、楽なのです」
「……なら、最初から話さないでくださいよ」
なんとも、困った顔でグレイは微笑んだ。まるで、シスターのように。
——私が知りたいのは、七十億の一匹じゃなくて貴方なのに。
言いかけて、魔色はチョコ菓子と一緒に、飲み込む。その一言を口にする勇気は、魔色には無い。
ビターな味わいが、魔色は少しだけ苦手だった。
ある程度調べてはいますが、雰囲気で書いてるのでおかしな用語があったらご指摘ください。ちなみにコレを書いてるときはミサと日曜礼拝を間違えるところでした。
ちなみにストック尽きたので次回は不明です