夕方の朝ご飯
「これ、食べたら帰ってくださいよ」
僕が出したのは塩おにぎりだった。
料理をする食材くらいはあるし、もう少しご飯らしいご飯だって作れるけれど、彼女のリクエストがそれだったのだ。
「はいはいっと。あたしもこのあとシゴトだし」
いそいそとおにぎりに手を伸ばす彼女。
塩を振っただけのおにぎり。
具はナシ。海苔を巻いただけ。
両手でおにぎりを手に持ち、口へ持っていき、ぱくりと噛みついた。
僕はローテーブルの向かいで、自分も同じものを前にしながら、でもその前に彼女の食べっぷりに見入ってしまった。
ぱくぱくと音がしそうなほど勢いよく、塩おにぎりは彼女の口に消えていく。
「んーっ、美味しい! 塩加減が絶妙!」
ひとつをぺろっと平らげてしまい、彼女は指についた米粒も口に入れた。
お腹が減ってたんだろうな。
僕は思い、それはそうかと思い直した。
朝、ここに来て、僕がソファに寝かせてからなにも食べていなかっただろうから。
「塩おにぎり、好きなんですか?」
やっと自分でもおにぎりを手に取りながら、質問する。彼女はもうひとつを手に取りながら、「うん」と答える。
食べながら、お行儀の悪い様子で話してくれた。
「母さんがね、仕事に行く前、置いてってくれたんだ。だから呑んだあとはなんだか食べたくなってさ」
吞んだあとって、呑んだのは昨夜では?
いや、朝なのか。
内心、ツッコミを入れながら僕は「そうですか」と相づちを打って聞いた。
もぐもぐと頬張ったおにぎりは、塩と米、それから海苔の味だけだ。
シンプルだけど、これはこれで美味しいもんだよな、とは思う。
しかし『母さん』『仕事に行く前』『置いてってくれた』。
これらのワードから察するに、このひとは子どもの頃、母子家庭とかだったのだろうか。
いや、多分そうだろう。子どもに食べさせずに出掛けるのも仕事があったからだろうし、子どもの頃のこのひとが朝、置いておかれたそれを食べるのも、そんな事情がわかりやすい。
思い出の食べ物なんだな。
僕までなんだかしんみりしてしまった。
「あーっ、美味しかった! 久しぶりに食べたわ、ありがとっ」
僕が内心でしんみりしているうちに、彼女は二個目もぺろりと食べてしまい、背後にあったソファに反り返った。まるで餌を貰った野良猫といった様子である。
「久しぶりなんですか? 自分で作らないんですか?」
僕はまだ一個目を食べ終わらないところだったが、聞いた。彼女は一緒に出したグラスの麦茶をあおりながら、「うん」としれっと言う。
「あたし、料理壊滅だからさ。そもそも米が炊けない。べっちゃべちゃか、こげこげになる」
なにも気が引けるところなどありません。
いっそ清々しいまでにそんなうふうに言う。
「……炊飯器でも?」
僕は一応、聞いてみた。この現代日本で、炊飯器を使って米を炊いて妙な具合になることがあるだろうか。
「うん。なんでだろねー」
だが、あるらしい。彼女は他人事のように首をひねるのだった。
「あんたの塩おにぎり、母さんの塩加減になんか似てた。ありがとね、すごい染みたわ」
彼女は麦茶のグラスも空にして、ぱん、と手を合わせた。ごちそうさまでした、と、そこだけは丁寧に言う。
僕は「お粗末様でした……」なんて言いながら、もうひとくち、ぱくっとおにぎりを食べた。塩がいい加減に効いて、美味しいそれ。
「あの、……失礼ですが、それじゃご飯は」
おそるおそる、聞いた。
彼女は長い髪の先をくるくる弄びながら、やはりしれっと言った。
「外で食べるけど? 職場でも食べれるし」
彼女の『職場』が一体どんなところなのかはわかりやしないが、『これから仕事』ということは、いわゆる夜の仕事なのかもしれない。そのへんを詳しく突っ込むのはやめておいた。
「そうですか。でも……なんていうか、色々ありません? 飽きるとか、食費とか……」
突っ込んで聞きすぎか、とも思ったのだけど、つい聞いていた。
ああ、悲しきお人好し。
「そりゃ……まぁ、そうね。でもそれしかないし」
彼女はそう言った。さらりとは言ったけれど、僕は悟った。
多分、それに満足してはいないのだろうと。
だって彼女の視線は……僕のお皿。もうひとつ残っていた塩おにぎりに向いていたのだから。
「……食べます?」
視線で急かしてきたくせに、僕がそう言って皿を押しやれば、彼女は「いいの!」なんて、意外という顔で言うのだった。
「じゃ、お言葉に甘えまーす!」
遠慮なく手に取り、がぶっとかぶりつく。もぐもぐっと口が動く様子を見て、僕はなんとなく思ってしまった。
一人分も二人分も同じか、と。
「……それなら、良かったら……」
僕はなんとなく正座になりつつ、彼女にある提案をした。
それがこの毎朝の習慣をはじめるスタートであった。