魔法使いと聖女
タタタッ。
シエルは走っていた。山を抜け、丘を駆け抜けた。
「くそっ。」
瞬間移動の魔法を使う事すら忘れていた。それに杖は置いてきてしまったので、使おうとしても使えない。高度な魔法は道具が必要なのだ。道具がなければかなりの労力と手間がかかるか、不可能かなのだ。
ビリッ。
魔法王国時代を彷彿とさせる正規のローブが枝に引っかかった。シエルはローブを醜いものとばかりに脱ぎ捨て、炎の魔法を放った。ローブはメラメラと燃えて瞬く間に灰になった。
「くそ、俺の体ごと燃やしてやりたい。」
魔法。今まで当たり前にあった力。それが今とてつもなく汚らわしいものに見え、自身もまた汚らわしい物に思えたのだ。
(俺は彼女を傷つけた。彼女は魔法で何度も傷ついているのに。俺は最低な、最低な悪魔だ。)
シエルは走り、遂に王都の入り口に着いた。門番は何者かといぶかしがり身分証を求めたが、シエルは持っていなかった。シエルが聖女ユウナの護衛だという事を述べると、門番から門の詰め所に待機を命じられた。
(ユウナさん…)
祈るようにして待つシエル。シエルなる人物が来たという知らせは直ぐに教会に伝わった。伝令が早馬で教会の門に乗り付けると、その知らせは直ぐにユウナに伝わった。その時ユウナは昼の執務に付いていた。
「ユウナ様…。」
お付のディエンが不安そうに見上げる。
「…。」
ユウナの表情は硬かった。
「どうなさいます。」
小間使いも不安そうに尋ねる。
「行くわ。」
ユウナはすっと顔を上げた。
「おい、ユウナ様がいらっしゃった。」
不審の表情を浮かべる門番が、ユウナの来訪を告げたのはそれから数刻後だった。囚人のように、冷たい石畳に座っていたシエルは顔を上げた。
「ああ、いいわ、私一人で。」
聞きなれた彼女の声が聞こえる。シエルは懺悔するかのように姿勢を崩さなかった。
「誰も入らないでね。」
ユウナの声が近くなってくる。
ガチャ、遂に扉が開いた。
「ユ…。」
シエルは彼女の名前を呼ぼうとしたが、声が途切れた。彼女の顔は硬かったのだ。シエルは再び顔を降ろした。
「…。」
入って来たユウナ、無言だ。
数秒が数時間に思えた。
張り詰めた時間が流れる。
ユウナは手のひらを上に向けた。
シエルは頭を下げたままだった。
覚悟を決めたかのような厳かな空気が満ちた。
ユウナの手が上がる。
シエルは目を瞑った。
「エッ…。」
「…。」
シエルの体が崩れ落ちた。
聖女は崩れ落ちた体の傍に進み出た。
「で、な、…、」
ユウナは座り込んだ。
崩れ落ちた魔法使いの体に手を触れる。
その体は呼吸で上下していた。
(で、きない…。な、んで…。)
ユウナは衝撃を受けた。自分の頭は殺す一択、でも体が言うことを聞かなかったのだ。聖力は発動していない。シエルは死んでいない。気絶しただけだ。
(どうして…。)
理由が分からなかった。相手は悪魔、殺す以外の選択肢はない。しかし実際目の前に現れたシエルを見て、殺すことができなくなった。体が動いてくれないのだ。
(悪魔の罠?)
頭は告げるが、体と心は別なものを告げていた。
心が魂がシエルを殺すことを拒否していた。
(だ、め、こ、ろさな、きゃ。)
「エッ…。」
偉大なるエッセ神と聖女エルセリア様の加護によって…と唱えようとしたが、できなかった。
「うう…。」
ユウナも分かった。これがシエルだからだ。他の者だったら違う。でも、シエルはだめ。どうしても殺せない。
(わ、私はおかしくなったのだろうか。)
シエルの鼓動、シエルの呼吸がユウナの魂を揺さぶる。その先に感じるものは…決して邪悪なものなどではなかった。生きている、彼が生きている、という安堵。これは邪悪なものでは決してないと、ユウナの奥の奥が告げていた。
(エルセリア様…)
ユウナは神と聖女にすがった。
答えはなかった。
ただ、ユウナの奥の奥が既に何かを告げていた。
(殺せない。)
ユウナは気絶したシエルを愛おしいように抱き上げた。その哀れな囚人の表情は苦悶に満ちていた。
ユウナの目から涙があふれて流れた。




