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アザー・ハーフ  作者: 丹㑚仁戻
第二章 トカゲの尻尾
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07. 代償は断る権利

 その日の十四時過ぎ、菊池の厚意に甘えて早退した蒼は、やっと自宅の前まで辿り着き深く息を吐いた。

 蒼の家は最寄り駅から徒歩十分という好立地にこじんまりと建っている古い一軒家で、古めかしいタイル貼りの玄関ポーチの先には、これまた時代を感じさせる木製のドアがある。


 蒼は玄関ドアの前に立つと、その外観にはそぐわないディンプルキーを差し込んで鍵を開けた。家の中は静まり返っており、全く人の気配を感じられない様子に違和感を覚える。


「朔さーん?」


 昨日一緒にこの家に帰ってきた人物の名前を呼びながらリビングに入ると、ダイニングチェアに荷物を置きつつソファの方を確認した。


 背もたれで全体は見えないが、朔が寝ている様子はない。


 ――朝まではここに寝てたのに……。


 彼が寝ていたはずのソファに手を当てたが、その冷え切った感触に蒼は首を傾げる。


 ――出かけるとは聞いてなかったけど……。


 そう思ったが、そもそも自分と朔はまだ行き先を報告し合うような関係性ですらないと思い出して溜息を吐いた。

 なし崩し的に彼を自宅に住まわせることになっただけで、出会ってからまだ一日も経っていないのだ。


 蒼の頭にはこの隙に朔を家から締め出そうかという考えが浮かんだが、彼には意味がないと気付き眉間に皺を寄せた。

 鍵を渡していないのに鍵が閉まっていたというのは、そういうことだ。昨日見せられた朔の能力を思えば、彼に施錠という防犯対策は通用しないことなど明らかだった。何せ彼は壁をすり抜けられるのだ。


 傷を治したり、壁をすり抜けたり、明らかに朔はただの人間ではない。

 蒼は昨夜そのことについて尋ねるつもりだったのだが、思った以上に貧血の身体は言うことを聞かず、結局何も聞けずじまいで朝を迎えてしまったのだ。


 だから昨日から今日までで蒼が朔と交わした会話は、風呂と食事と寝床についてのほぼ一方的な説明くらいだ。それも必要最小限だけ伝えたら、蒼は倒れるようにして眠りについてしまった。

 しかも朝は会社に行くため、彼を家主のいない家に残してしまったのだ。仕方がなかったとはいえ不用心にもほどがある、と蒼は自分の行動を悔いた。


 だが悔いたところで、どうにかなる問題ではなかったと自分を慰める。家を出る前に寝ている朔に声をかけたが、地を這うような低い声で「あ?」と返されれば何も言えなくなるのは当然のこと。

 なるほど、彼は怒りっぽくはないが寝起きは非常に悪いらしい――蒼は一つ朔の特徴を把握し、なるべく朝は声をかけないようにしようと心に決めた。


 蒼が朝の出来事を思い返していると、玄関の外側に何かを置く音が聞こえた。宅配とは違う気配に訝しみながら玄関へ行き、ドアスコープを覗き込む。


「朔さん?」


 ドアスコープの先に映った予想外の人物に、蒼は慌てて玄関の鍵を開けドアを開こうとした。

 だが、コンッというプラスチック容器を叩いたときのような音と共に何かに阻まれ、開けることができない。


「ちょっと待て」


 朔はそう言うと、玄関ドアの動きを阻む物体をどかした。

 彼の「もういいぞ」の声に蒼が改めてドアを開けてみると、玄関ポーチに中身入りのビニール袋がいくつも転がっているのが目に入る。殆どがスーパーのレジ袋程度の大きさだったが、一つだけ両手で抱えきれないくらい大きなものまであった。


「なんですか、これ?」

「いいからさっさと中入れろ」


 朔に言われるがまま、蒼は彼と荷物を家の中に招き入れる。

 朔はいくつかある袋のうちの二つと、大きい袋の計三つを手に取ると、二階へ上がる階段へと向かった。

 昨日蒼が彼に二階の空き部屋を使えと言ったので、おそらくそこへ向かったのだろう。客用布団のないこの家では朔の寝床は今のところソファだが、荷物はちゃんと言われたところに置くつもりのようだ。


 その行動の意図を考えながらぼんやりと朔を見送った蒼は、荷物を運ぶのを手伝った方がいいかと思い玄関に残された袋に手を伸ばした。


「ひっ……!」


 二重にされた袋の中から顔を覗かせたのは、ドズ黒い赤に染まった大量の布。


 ――え、何これ血? こんな凄い量、あの人何をやってきたの?


 ドキドキと脈打つ心臓に胸を押さえながら、蒼は残りの袋も確認しようとおずおずと手を伸ばした。


「それどこ捨てればいい?」

「ひゃっ!」


 突然背後から聞こえた声に、蒼は大袈裟なまでに飛び上がった。振り返ると朔がキョトンとした表情で蒼を見ている。


「あ、あの、これ! あなた一体どこで何して……!」


 怯えながらも必死にそう問いかける蒼に、朔が呆れたような視線を向けた。何を言ってるんだ――そんな声が聞こえてきそうな表情だ。


「お前の血だろ。何そんなビビってんだよ」

「え……? 私の血……?」

「わざわざ片付けてやったんだから感謝しろ」


 そう言いながら、朔は残りの袋の中身を取り出した。中から出てきたプラスチックの容器には漂白剤と書かれている。


「本当は駅のゴミ箱に捨てようと思ったんだけどよ、なんか東京でそういうのやると警察沙汰になりそうだったから止めた」

「……正しい判断だと思います」


 やっと状況を理解した蒼は「お手数おかけしました」と言いながら朔からゴミを受け取った。


 とはいえ蒼としても、漂白剤の容器はともかくここまで血だらけになった布をどうしていいか分からなかった。実際、昨日着ていた服もまだ捨てられていない。


「とりあえず血を落として捨てた方がいいかな……」


 蒼は浴室へ向かうと、洗面器とバケツに水を張り、昨日着ていた服と合わせて血のついた衣類をすべてその中に放り込んだ。落ちるか分からなかったが洗剤を入れ、暫く放置することにしたのだ。


 ――落ちてくれればいいんだけど……。


 せめて血の染みだと分からないくらいにはなって欲しい。これをゴミに出したとして、ゴミ袋が絶対に破れないとは言い切れない。その中から血まみれの服が出てくれば、見つけた人が通報してしまうかもしれない。


「なんか昨日からこんなんばっかだな……」


 その呟きは、浴室に虚しく反響した。



 § § §


 蒼がリビングに戻れば、キッチンの換気扇の下で煙草を吸っている朔の姿が目に入った。


 この家のリビングは正確にはリビングダイニングキッチンと呼ばれるもので、キッチンからダイニング、そしてリビングまでが一つの空間に収まっている。


 ――そういえばあそこで吸えって言った気がする……。


 うろ覚えとなっている昨日の記憶を辿りながら、蒼は律儀に言いつけを守る朔の行動を意外に感じていた。

 頼んでいないのに廃工場の片付けをしてくれたことといい、思っていたよりも良い人なのかもしれない。

 そんなことを考えながら廊下側の空いているダイニングチェアに腰を下ろした。


「さっきの大きな袋って中身なんですか?」

「布団」

「布団!?」


 驚く蒼をうるさそうに見ると、朔は「なんだよ」と言いながら煙草に口を付けた。


「……もしかして、相当長居されるおつもりですか?」

「お前次第だな」

「情報収集、でしたっけ?」

「ああ」

「まだ聞いていないんですが、一体何を調べれば……?」


 恐る恐るといった様子で尋ねる蒼に、朔は「そう身構えるなよ」とおかしそうに笑う。


「他の生き残り。俺が探してんのはそいつらだ」

「何のために?」

「さあな」


 そう言って朔は短くなった煙草を空き缶に捨て、一つ大きな欠伸をすると新しい煙草に火を付けた。

 その様子にどうやら答える気はないらしいと判断した蒼は、仕方なく別の質問をすることにする。


「北海道じゃなくて東京にいるってことは、ある程度目星はついてるんですか?」

「どうだかな。こっちで見かけたって噂があったから来てみたが、今のとこ進展なしだ。で、お前いつから動ける?」


 動けるとは恐らく体調のことじゃないな、と蒼は眉根を寄せた。


「当たり前のことですが、丸ごと朔さんの調べ物に時間を使うっていうのは無理ですよ? 私にも仕事がありますから」

「そんなんどうでもいいだろ」

「どうでもよくありません。働かなきゃこの家の固定資産税も払えません」


 なんだそりゃ、と朔は首を傾げた。


 ――もしかして、固定資産税って言葉知らない……? いや、まさかな……。


 いくら振礼島が謎に包まれた土地だとしても、税制度は同じはずだ。自分よりも年上に見える朔がこの言葉を知らないとは考えにくい。


 ――っていうか、仕事持ち帰ってるんだった……。


 蒼は仕事のことをすっかり忘れていたことに気が付くと、椅子に置きっぱなしになっていた仕事用バッグの中から、先程菊池に渡された書類を取り出した。

 受け取った時は全く見ずにしまってしまったが、改めて見るとどれも有名芸能人のゴシップネタについてばかり書かれている。


「くっだらな……」


 書類を見ながら思わずそう呟いた蒼に、朔が見せろと言わんばかりに手を伸ばしてきた。蒼は一瞬渡すか迷ったものの、ネットに載っているような情報しかまだ書かれていないことから朔に書類を手渡した。


「『若手人気俳優A、深夜のクラブで()()()()……()()()()』? なんだこりゃ」

酒池肉林(しゅちにくりん)でしょう」

「知らねぇよ、そんな言葉。どういう意味?」

「……元は豪華な宴のことなんですけどね、この場合はあれですよ、ほら、酒と女に溺れる的な」


 何故大の男に酒池肉林の説明をしなければならないのだ、と言いにくそうに説明した蒼の気持ちを全く察することなく、朔はどうでもよさそうに「ふうん」とだけ答えて残りの内容に見入っている。

 その様子に一瞬怒りを感じたものの、真剣に中身を読む朔の姿に、この浮世離れした男は意外にも芸能ネタが好きなのか、と蒼はつまらなさそうに一つ息を漏らした。


「なあ、このクラブってどんなとこなんだ? なんか酒と女が楽しめるっていうのは分かったんだけどよ」

「行ったこと無いんですか?」

「島には無かったからな」

「うーん……私も一回友達に付き合わされて行っただけですが、その認識でいいと思いますよ。クラブミュージックが大音量で流れている密閉された空間で、お酒を飲みながら踊ったり誰かとお近づきになったり……まあ、そういう場所なので犯罪の温床にはなりやすいですね」

「よし、行くぞ」

「はあ!?」


 書類に見入っていたのはクラブに興味があったからか、と蒼はクラクラとする頭を押さえながら目の前の男を見た。本人は俄然行く気になっており、蒼が今まで見た彼の中で一番活力に満ちている。


 そもそも蒼はクラブが嫌いだった。酒も量が飲めるわけでもないし、見知らぬ男が知らないうちに隣にいるような環境は彼女には合わなかったのだ。

 それを何が悲しくて、こんな芸能人にいそうな男と行かなければならないのだ、と頭を抱えたくなった。皆が皆そうではないだろうが、クラブにいる女性の中には新たな出会いを求めている者もいるのだ。そんな中を、こんなモテそうな見た目の男と連れ立って歩くだなどと考えただけでも恐ろしい。


 そんなことを思いながら前回行ったときの記憶を辿っていると、蒼はふとあることを思い出した。


「朔さんは無理ですよ」

「あ?」

「だって、ああいうとこって身分証が必要だったはずですよ? 昨日身分証持ってないみたいな事言ってたじゃないですか」


 望んで陥った状況にないにしろ、本来の蒼はそこまで不用心ではない。

 念の為昨日朔を家に入れた時、家の中の説明の前に彼の素性を確認しようとして、彼が携帯電話どころか身分証すら持っていないことを知っていたのだ。


 蒼の言葉に朔は何度か瞬きをしたが、すぐに「どうにかなるだろ」とどうでもよさそうに口から煙を吐き出した。


「いや、どうにかならないですよ」

「なるなる。だからツベコベ言ってないで連れてけ」

「行きたいなら勝手に一人で行ってください」

「でもお前記者なんだろ? これ調べなきゃいけないんじゃねぇの?」

「それはそうですが、朔さんと行くっていうのはちょっとハードルが高すぎます。……ていうか私、記者だって言いましたっけ?」

「知らなきゃ助けてねぇよ」

「……そうですか」


 ――振礼島を調べていることといい、私の職業といい、奴に知られていることが多すぎる。


 蒼は思わずテーブルに突っ伏した。最初から自分の家に転がり込もうとしていたことも、もしかしたら一軒家だと知った上での発言だったのかもしれない。


「いいから連れてけ」

「嫌です」

「命の恩人だぞ、こっちは」

「それ卑怯ですよ!?」


 その話を持ち出されたら断るわけにはいかない、と蒼はじっとりとした目で朔を睨んだ。しかし睨まれた本人は全く怯む様子もなく、涼しい顔で煙草を吹かしている。


「……調べ物が進まないのって、そうやって真新しいもので遊んでばっかだったからじゃないんですか?」

「あ?」

「ごめんなさい」


 蒼の精一杯の反抗も、彫りの深い三白眼に睨まれたら引っ込めるしかない。

 これはもう行かないという選択肢はなさそうだな――この決定が覆らないことを悟ると、蒼に出来ることは一つしかなかった。


「体調悪いんでせめて明日にしてください」


 蒼のその言葉に、朔はニヤッと満足そうに笑った。

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