59. 小さな望み
どうしてかと聞かれても、蒼にはうまく理由が答えられなかった。
自分の中の何かがおかしいとは薄々感じていた。しかし、それをうまく言葉にすることができない。
だがどういうわけか、先程まで異常だと信じていた涼介の考えが、とても甘美な響きを持ったように感じられた。全部無かったことにして、やり直して。そうすれば、朔が助かる。
自分を殺そうとしているレオニードと出会うことなどなかったし、父親の死の真相という思ってもみなかった現実とも向き合わなくて済む。
「――よせ」
小さく空気を吐く音が、蒼の鼓膜を揺らした。それは普段なら絶対に聞こえない程の小さな声。それなのに聞こえるのは、蒼の中にあった変化のせいだろうか。本当に声に出されていたのかすら疑わしいその一言が、自分に訪れた変化の中へと沈もうとしていた蒼を引き戻した。
――私は、何を……?
エレナ達の会話が遠くに聞こえる。レオニードによって拘束されているはずの髪の感覚も、どこか他人の物のようだった。
――朔さん……?
見上げれば、朔の顔が自分の方を向いているのが見えた。その視界に自分が入っているのかは分からない。それでも、蒼には彼と目が合ったように思えた。
――……駄目だ。
無かったことにしてはいけない。自分に都合が悪いからって、やり直せばいいだなんて思ってはいけない。
――だってあの日をやり直したら、この一ヶ月のことは全部無くなってしまう。
確かに、目を逸らしたいことはたくさんあった。
初めてすぐ近くに感じた死と、その恐怖──人が殺されるところなど初めて見たし、まさか自分が誰かに殺されそうになるだなどと思ってもみなかった。人を刺したことも、その結果、朔が人を殺してしまったことも、後悔したってし切れない。その上知らされた、事故だと思っていた父親の死の真相。他殺だったのだと言われれば、既に受け入れていたはずの彼の死が急に全く別のものに感じられる。
今までの生活では無縁だったそれらは、出遭うたびに蒼の心をすり減らした。関わらなければよかったと何度も思った。それでも蒼が今ここにいるのは、そこから逃げ出さなかったからだ。
――逃げずに済んだのは、きっと……。
「でもそうやって後悔するから、今度はこうしようって次に活かせるんだよ」
輪島の声が、すぐそこに聞こえる。自分に話しかけていないことは分かっているのに、まるで自分に向けられたかのようなその言葉に、蒼はふっと微笑んだ。
――病院に行っても多分どうにもならない。聖杯に頼っても駄目だった。だけど、一つだけ試してないことがある。
「私、契約します」
試せることが残っているのであれば、まだ、逃げない。
§ § §
「蒼ちゃん、やめて!」
契約する――それを涼介の願いを叶えるという意味に捉えたエレナが必死に声を上げる。それに気付いた蒼はエレナを見上げると、ゆっくりと微笑み、首を横に振った。
「勝手な事言ってんじゃねえぞ!」
ぐん、と強く蒼の髪が引っ張られた。堪らず蒼が立ち上がると、レオニードはその手を髪から彼女の首へと移し、そのまま一気に掴み上げる。
「あっ……!」
「契約して涼介の願いを叶えるつもりか!? ふざけるな、それならお前が叶えるのは俺の願いだろう!」
レオニードの大きな手が、蒼の細い首を締め付ける。そのまま足が地面から浮いてしまいそうなくらいの力、蒼を襲う苦しさは瞬く間に彼女に死への恐怖を思い出させていた。
――死に、たくない……死にたくない!
「なっ!?」
必死の思いで蒼が抵抗すると、切りつけられた右腕から血が飛んだ。それが目に入ったのか、レオニードは蒼から手を離す。どさりと乱暴に落とされた蒼は、その場で激しく咳き込みながら辺りを見渡した。
「お前!」
傍にいたルカが声を上げるのを聞きながら、蒼は視界に入ったそれを手に取り立ち上がった。
――邪魔するなら、殺せばいい。
「――……え?」
気付いた時には、レオニードの首に見覚えのあるナイフが刺さっていた。
――一体誰が……?
そう疑問に思ったのも一瞬のことで、すぐにそれが誰の仕業か理解した。
――私が、やった……。
かつてのように事故ではなく、自分の意思で。
生々しい感触を残す左手を、思い切り振り上げたのも。そしてその腕を、力いっぱいレオニードの首に向かって振り下ろしたのも。
――そうしようと、思った……。
階段に落とされた時、その視界にナイフが入った時から。それを拾い上げ、わざわざレオニードよりも高い位置になるよう数段駆け上って。そうしてナイフを突き立てた彼の身体を、階下に向かって蹴り飛ばしたことも。
紛れもない殺意と共に、全て蒼自身の意思でそうしたのだ。
――私、何を……?
「うわあぁあああ!!」
呆然とする蒼に、ルカが叫び声を上げながら襲いかかる。
「蒼ちゃん、伏せて!」
言われたままにしゃがみ込んだ蒼の頭上を、涼介がルカに向かって飛び越えていった。
――どういうこと……?
現状が、蒼には理解できなかった。自分は今何をしたのか。何故、迷いなくレオニードを殺そうとしたのか。
人を殺そうとしたのに、どうして罪悪感や恐怖を全く感じていないのか。
「逃げて蒼ちゃん!」
エレナの声にはっとすると、蒼は思考を打ち切って両頬を思い切り叩いた。そしてルカと争う涼介の方を一瞥し、首を横に振って階段を駆け上がる。
「アナタ、本当に契約するつもり?」
朔達の元にやって来た蒼に、エレナが恐る恐るといった様子で声を掛ける。それに蒼は苦笑を浮かべて、「嘘ですよ」と小さく呟いた。
「嘘って……」
「契約するって言えば、少なくとも涼介さんは私をレオニードから逃がそうとしてくれるかなって。あの展開は、ちょっと私も驚いてるんですけど……」
そう言いながら、蒼は朔の隣にしゃがみ込んだ。自分に起こっている異変など、今はどうでもいい。それよりも目の前の朔を一刻も早く助けなければ、本当に手遅れになってしまう。
蒼は無理矢理笑顔を作って、朔に冗談めかして話しかけた。
「まだ生きてますか?」
「……馬鹿、が」
「意外と元気ですね」
実際にはそうは思えなかった。憎まれ口を叩いてはいるが、その声はもう声と言える程の音は出ていない。それなのに蒼も調子を合わせたのは、朔の現状だけでなく自分の中の異常からも目を逸らしたかったからだ。
「一つだけ、試したいことがあるんです」
そう言うと、蒼はエレナを見上げた。
「傷、どうやって治せばいいですか?」
「え……?」
「ほら、さっき話したじゃないですか。生き残りの人たちは人の怪我を治せるって。エレナさん、やったことはないけどやり方が分かったような顔してましたよね?」
「それは、そうだけど……。でも! 彼は生き残りなのよ? やり方が分かったからって私じゃ治しようが……」
「生き残り同士は通り抜けられないからですよね。でも、私だったらどうですか?」
「……どういうこと? 確かにアナタなら通り抜けられるわ。でも、それとこれとは話が――」
「同じだと思うんです」
意味が分からないというように顔を歪めるエレナに、蒼は以前から思っていたことを話そうと口を開いた。
「不思議だったんですよね。朔さんやエレナさんが壁を通り抜けても、その壁には傷一つ残らないじゃないですか。二人に完全に実体がないとかなら別ですけど、お腹に手を突っ込まれた身としてはそれは違うと断言できます。だって、あの時確かに朔さんは私に触れてました」
朔から聞いた話では、物を通り抜けないのが通常の状態なのだそうだ。特段意識していない時の状態がそれということは、朔達生き残りに実は実体がないという可能性は低いだろう。
それなのに、物質を通り抜けることができる。しかも通り抜けられた物質にはその形跡が残らない。かと思えば蒼の傷を治療した時のように、治療される側にはその感触が伝わっている。
「じゃあ何故壁に影響が出ないか――それって、無意識のうちに元に戻してるんじゃないですか?」
蒼がそっとエレナを見上げれば、彼女は小さく頷いてみせた。
「……多分そうよ。だから、怪我も同じ要領で元の状態を想像できれば治せると思う。内臓なんてどうなってるか知らないけど、二つに切れたものをくっつけるくらいなら知らなくてもできると思うわ」
「だから元の状態を想像できない二日酔いは治せない」
「え?」
唐突な蒼の発言にエレナが目を丸める。当の蒼本人は朔に出会ったばかりの頃を思い返しながら、言葉を続けた。
「朔さんに一度お願いしたことあるんですよ、二日酔い治してって。そうしたら『多分無理』って……。当時は詳しく聞ける程の仲ではなかったので聞けてないんですけど、これって多分、朔さんが二日酔いの仕組みを知らないっていうのがあると思うんですよね」
「違いますか?」と蒼が朔を見れば、朔は気まずそうに目を逸らした。それを肯定と受け取ると、蒼は「ま、二日酔いの話は置いといて――」と再びエレナを見上げる。
「――逆もできるかもしれないですよね」
「え?」
「自分に物を通して、自分の身体を元に戻す。これもできると思いません?」
「何言ってるの?」
「壁とか大きいものを自分が通り抜ける場合と、ナイフか何かで刺されるときに自分を素通りさせる場合って、全く同じだとは思えないんですよ」
「それは……」
エレナは否定しようとしたが、続く言葉が出てこなかった。そんなこと考えたこともなかったのだ。ただ、邪魔だから――物質を通り抜ける時も、逆に自分を通り抜けさせる時も、エレナの中にあるのはこれだけだった。だから、分からない。蒼の言うように違いがあるのか。あったとして、それが何の意味を持つのか。
困惑しているエレナを他所に、蒼がふっと微笑った。
「だから朔さんの身体に何か通して、無意識のうちに元に戻すって力が働けば、なんだか治る気しませんか?」
「……無茶苦茶よ」
「無茶苦茶ですけど、まだ試してない方法があるなら試したいんです」
エレナにはもう何も言えなかった。自分が知らないだけで、もしかしたら蒼の言い分は正しいのかもしれない。もしくは朔の死という受け入れ難い状況を目の前にして、蒼は何でもいいから縋りたいだけなのかもしれない。
正直なところ、少し前の蒼の行動を思い出すと後者の可能性の方が高いとも感じる。蒼がレオニードに対して取った行動が、それだけエレナには信じられなかったのだ。
しかしどちらであっても、もう自分に言えることは何もない、とエレナは顔を俯かせた。そもそも自分がレオニードに従って蒼を攫わなければ、こんなことにはなっていなかったはずなのだ。蒼がこれ以上道を誤らない限りは、朔と合意を取れている限りは、何も言うまいと思った。
「朔さんも、それでいいですよね?」
エレナの無言を承諾と取ったのか、蒼は朔に向き直る。朔にも蒼の話が確実だとは思えなかったが、他に手がないのなら仕方がない。治療のために他人に触れれば、その人物の心境に触れることになる――つまり蒼に今の自分の心情が伝わってしまうことを考えると、喜んで受け入れるとは言えなかった。だが、それでも、とそっと目を伏せる。
「騒ぐ、なよ……」
「朔さんこそ、気持ち悪いって泣いても知りませんよ」
朔の口端が小さく上がるのを確認すると、蒼は「いきます」と言いながらナイフを勢いよく抜き去った。朔が息を詰める音が聞こえたが、それは痛みのせいというよりは、抜いた時の衝撃によるものだろう。彼の腹部は黒く焦げ付いた箇所が散見され、まともな痛覚があるとは思えなかった。
それでもナイフを抜いた途端、朔の傷からは血が溢れ出した。これだけ焼けているのに、どうして――蒼は不思議に思ったが、そんなことを考えている暇はないとばかりに急いで、しかし優しく朔の傷口に右手を乗せる。同時に走った激痛に、出血に驚いて咄嗟に出した利き手が怪我をしていることを思い出したが、この手を離せば朔の腹からは再び血が出るだろう。そんな余裕はないと自分を叱咤して、朔にそっと目配せをする。
直後、不思議な感覚が蒼の掌に伝わった。
第十四章『血の饗宴』完




