52. 出会いの真実
──五年前
その日、涼介は人を待っていた。そこは振礼島の数少ない宿泊施設の一つで、ホテルと言うには少々規模が小さいが、島に訪れる日本人の殆どはここに泊まる。とは言っても、振礼島にやって来る外部の人間は滅多にいないし、物資輸送のために訪れる人々は大抵日帰りか、輸送に使った船に寝泊まりするため、客は年間を通して数える程しかいない。
待ち人が北海道本土からとうとう振礼島にやって来たと聞いて会いに来た涼介だったが、予想外にその人物の行動が早く、島に足を踏み入れてからの彼の足取りを掴めていなかった。
しかし、そんなことはこの狭い島では関係ない。
物資輸送に関係のない人間が本土から振礼島に行くのが困難なように、振礼島から本土へ戻ることもまた難しいのだ。むしろ島を出る方が難易度は上がるかもしれない。これは多くの島民さえも知らないことだが、振礼島を許可なく出ることは実質不可能なのだ。そしてその許可自体、基本的に下りることはない。それが許されるのは涼介のような役割を持った人間だけで、今現在その役割を持っているのは、彼の他にはあと一人しかいないのだ。
だから一度振礼島に入った人間であれば、必ずどこかで会えると涼介は知っていた。今回の相手は日本人だ。ならばその人物は十中八九このホテルにやって来ることになるだろう。その手前で、自分に不幸をもたらす者が待ち構えているとも知らずに。
「誰か教えてやればいいのに。……皆死ぬから無理か」
独特の甘い匂いのする煙草を燻らせて、涼介は遠くに見えた見慣れぬ人影に、ほんの少しだけ同情の念を抱いた。
§ § §
『蒼ちゃんのお父さんも、そうだったよ』
涼介の口から放たれた、予想もしていなかった言葉に蒼は自分の手が震えるのを感じていた。震えを止めようと咄嗟に拳を握り締めれば、しっとりとした汗が触れる。なのにひんやりと冷え切った指先は、蒼の心境を表しているかのようだった。
「嘘、ですよね……? なんで……」
カラカラに乾いた喉から出た声は、今にも消え入りそうなくらいに小さい。無意識のうちに発せられていた否定の言葉は、涼介の発言そのものではなく、何故彼が知っていたのか、その理由を想像してのものだった。
──父のことも……私の、子供の頃のことも。知っているのは、もしかしたら涼介さんが……。
頭の中に浮かんだその考えを否定してくれと言わんばかりに、蒼は縋るような眼差しで涼介を見上げた。たった一言、そうじゃないと言ってくれるだけでいい──蒼は今の状況も忘れ、ただただそれだけを願っていた。
しかしそんな彼女を見る涼介の目には、感情が全く込められていない。涼介は面倒臭そうに溜息を吐くと、少し困ったように口を開いた。
「それはこっちの台詞だよ。朔を誤魔化すのにちょうど良さそうと思って充てがった蒼ちゃんが、まさか自分が昔殺した相手の子供だっただなんて」
それを聞いて、蒼は目を見開くことしかできなかった。“自分が昔殺した”という言葉だけが脳内を駆け巡り、その意味を理解しようとすることを妨げる。息苦しさを感じて慌てて浅い呼吸を繰り返せば、自分がいつの間にか息を止めていたのだということに気が付いた。
そんな蒼の動揺を近くで感じながらも、朔は彼女に声を掛けることができなかった。蒼だけではないのだ、今の涼介の言葉に動揺させられたのは。
『朔を誤魔化すのにちょうど良さそうと思って充てがった蒼ちゃんが――』
涼介の言ったことが、朔の耳から離れない。
「待て……どういう、ことだ?」
「あぁそうか、朔は知らないか。カズに蒼ちゃんのこと朔に教えてって頼んだの、俺なんだよね」
「は……?」
涼介の言葉に、朔は痛みも忘れて身を乗り出そうとした。しかしすぐに激痛に襲われ断念する。だが痛みによっていくらか冷静さを取り戻し、状況を理解しようと必死に思考を巡らせた。
――充てがうだと? リョウはいつから、俺が生きていると知っていた……?
朔は自分が蒼に会うことになった経緯を思い返した。約一ヶ月前、朔は生き残りについての情報を集めるために東京にいた。しかし全くと言っていいほど進展しておらず、長いこと完全に手詰まりになっていたのだ。そんな時に涼介の言う通り、カズという人物から島を調べている記者がいると連絡があった。そして彼に言われたとおりロシア料理店のアネクドートに向かうと、そこに蒼がいたのだ。
「折角朔に情報が回らないようにしてたのに、朔ってば中々東京を離れてくれないからさ。レオニードが東京を拠点に選んじゃったから、さっさとどこか別の場所に行って欲しかったんだよね。だから自力で調べるのは無理って分かれば諦めてくれるかなぁって期待して、記者っていう職業の蒼ちゃんに引き合わせたんだよ。情報収集がしやすいはずの人間でも調べられないことだって分かれば、いくら朔でも諦めるかなって」
まるで世間話をするかのような調子で告げられたその言葉は、涼介がこれまで朔達に話していた内容が全て嘘だと言っているようなものだった。
ミハイルの死に際に現れた蒼を調べて初めて、涼介は朔の生存を知ったと言っていたのだ。だがそれは嘘で、最初から、朔が蒼と出会う前から彼の生存を知っていたということになる。さらには朔の邪魔もしていたと言うのだから、単に嘘を吐いていたのとはわけが違う。
朔は思いもしなかった事実に、自分の涼介に対する認識が根底から覆されるような、到底言葉にすることができないような衝撃を感じていた。
それは蒼も同じだった。まだろくに頭は働いていなかったが、耳だけは朔達の会話を拾っていた。そうして聞こえてきた言葉は、思わず聞き返したくなるものだった。涼介の嘘もそうだが、彼の話では自分の行動が全て彼の思惑通りだったということになってしまうのだ。
──一体どこから……?
まさか自分が振礼島について調べようとしたところからだろうか。それはないと思いたかったが、涼介が少なくとも五年前の時点で自分の存在を知っていたのであれば否定しきれない。涼介の言葉からすると自分と染谷の娘が結び付いたのは朔と出会った後かもしれないが、散々嘘を吐いていた彼が今も真実のみを語っているとは限らないだろう。
──私は自分の意思で振礼島を調べると決めたはず。でも、本当に……? 本当にそうだと言い切れる……?
蒼はなんとか状況を掴もうとしたが、父親の死に関する涼介の言葉のせいで混乱している頭では、上手く思考をまとめることができない。
「どういう、ことですか……?」
気付けば、蒼の口からは涼介に詳細を尋ねる言葉が零れていた。
「蒼ちゃん、札幌でバーに行ったでしょ? そこのマスターがカズだよ。彼には島のこと調べてる人間がいたら教えてって元々お願いしてあってね、何の因果か偶然蒼ちゃんはそこに飛び込んで来たわけ。幸い次の行き先もそこで言ってくれてたから、俺としては簡単に二人を会わせられたんだけど」
そこまで言った涼介は苦笑して、「いくら自棄酒してたからって、大声で仕事の電話しちゃダメだよ」と子供を諌めるかのような優しい口調で付け足した。
――違う、そういうことじゃない……。
蒼は自分の質問の意図とは違う涼介の返事にそう言いたかったが、言葉を発することができなかった。
涼介の言葉を信じるのであれば、最初から全て仕組まれていたということだ。朔と出会ったのは偶然ではなく、涼介が朔をそのように動かした。ならばレオニードから蒼を逃がそうとしているという話も作り話である可能性が高く、自分は涼介に利用されていただけなのだ。
――それだけじゃない……。
ギリ、と奥歯を強く噛み締めながら、蒼は目の前で苦しそうに顔を歪める朔に視線を移した。涼介によれば、蒼のことは朔を諦めさせるために利用したのだと言う。もし自分がそのとおりに動いていれば、朔がこんな怪我をすることはなかったのではないか。
怪我だけではない。もし自分がここまで首を突っ込まなければ、朔は涼介の本性を知らずに済んだのではないか。
涼介が自分の父親を殺したという事実もそうだが、それ以上に、今現在自分のせいで誰かを苦しめてしまっているという状況が蒼には耐えられなかった。確かに自分はある意味では巻き込まれただけかもしれないが、もし涼介に選ばれたのが自分ではなかったら――結果として当事者ではあったが、こんなことになるなら知らなくてよかったと、蒼は思わず顔を伏せた。
「でも誤算だったのが、蒼ちゃんの行動がやたら早かったってこと。しかもミハイルに行き着くなんて考えもしなかったよ。それから、染谷の娘だったってこと──前もってこれを知っておければ、蒼ちゃん以外の人にしたんだけど」
「ちょっと急ぎすぎちゃってね」と眉をハの字にした涼介は、小首を傾げながら言葉を続けた。
「だけど蒼ちゃんじゃなきゃ、ここまで朔と仲良くなってくれなかったかな? 本当は蒼ちゃんと俺も仲良くなって、朔をいい感じに諦めさせる方向に持って行きたかったんだけどさ。レオニードに先越されちゃって」
「お前、なんで、そこまで……」
朔の問いに、涼介は視線を蒼から朔に移した。そして困ったような笑みを浮かべると、ゆっくりと口を開く。
「知られたくないことが、たくさんあるからだよ」
§ § §
「――見かけない顔ですね」
涼介は目の前のホテルに入ろうとした男性に声を掛けた。足を止めた男性は訝しむように涼介を見ていたが、すぐに「すみませんが、失礼します」と小さな声で呟くと、彼の前を足早に通り過ぎて行った。
――気のせいだったか……?
声を掛ける直前に目が合ったように感じたのは自分だけだったのかと肩を竦めると、涼介は建物の中へと消えて行く男性をそのまま見送った。
振礼島にやって来る人間は、大抵この島のことを調べようとしている。そしてそれに危険が伴うことも十分に理解している。いくら島外に情報が漏れないとは言え、調べに行った人間が一人も生きて帰らないのだから当然だ。だからこそ、彼らはいつからか島の人間から話しかけられることを警戒するようになった。情報収集のため島民に声を掛けなければならないが、それは自分からでなければならない。そうでないのなら、相手から声を掛けられても不思議でない状況でなければならない。
そんな暗黙の了解があることを知っていた涼介は、自分から外部の人間に声を掛けることはしなかった。最低限、目が合ってから――それが、彼らに警戒されないコツのようなものだ。
今回も目が合って、相手が何かをこちらに言いかけてやめたような雰囲気を感じたからこそ、涼介は声を掛けたのだ。なのに期待に反して、相手は涼介から逃げていってしまった。
「久しぶりだなぁ……」
話しやすい、愛想が良い──それが、他人が自分に対して抱く印象だと涼介は知っていた。それは生来のものもあるかもしれないが、努力して身に付けたものでもある。常にそう在ろうと涼介自身が心掛けているため、初対面でも大抵の相手はすぐに彼に気を許すのだ。
これが通用しなかったのは何年ぶりか――数年前に自分を見て思い切り睨みつけてきた少年の姿を思い出しながら、涼介は新しい煙草に火をつけた。




