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アザー・ハーフ  作者: 丹㑚仁戻
第十二章 本当の姿
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50. 貫く虚像

 その初めて聞く音は、例えるなら大きな荷物を倒してしまった時のような、そんな、重たい衝撃音だった。思い当たるものが何もなければ、車が何かを撥ねたのかと思ったかもしれない。それなのに蒼の頭の中には、一瞬にしてある想像が浮かんだ。


 ――誰かが……落ちた……?


「……朔さん!」


 声に出すと同時に、蒼は弾かれたように部屋から飛び出していた。争っている人間の近くに無闇に行くべきではない――そんな考えは、彼女の頭にはもうない。

 早く確認しなければ――自分の頭の中に浮かんだ映像の真偽を、一刻も早く確かめなければならなかった。


「朔さ――」

「来るな」


 廊下から階段のある玄関ホールの方へ出ようとした時、走る蒼の前に人影が現れた。顔からその人物に突っ込んだ蒼は一瞬動きを止めたが、同時に頭上から降って来た声にゆっくりと顔を上げる。そして相手の姿を確認すると、その表情をぐにゃっと歪ませた。


「朔さん……!」

「すげぇ不細工だな、その顔」

「ひどい……でも、無事でよかった……」


 安心したせいか、少し前に止めたはずの涙が再び溢れ出す。へなへなとその場に崩れ落ちながら、蒼はちらりと階段の方を見やった。


 ここからでは見ることはできないが、恐らくあの音は――目に見える範囲にいるのが朔のみということは、レオニードがここから落ちたのだろう。来る時は意識を失っていた蒼は自分が何階にいるのか知らなかったが、朔が後ろをそこまで気にした様子がないということは、きっとそういうことなのかもしれないと眉根を寄せる。蒼は朔がまた手を汚してしまったという事実に心を痛めたが、それ以上に、今ここに彼がいるという現実に安堵していた。


 座り込んでしまった蒼に視線を合わせるようにして、朔はゆっくりとその場にしゃがみ込んだ。自分よりもだいぶ小さな身体は小刻みに震えているが、それはこの異常な状況のせいであって、身体に何か異変があるわけではなさそうだと小さく息を吐く。

 すると気が抜けたのか、先程自分がしたことに対する実感が一気に湧き上がってきた。


 ――……また、人を……。


 もみ合ううちに涼介から渡されたナイフの存在を思い出し、激情のままにそれをレオニードの腹に突き刺したのだ。よろけた彼は偶然手摺りを越えて階下へと落ちていった。動く様子はなかったが、実際にどうなのかは分からない。確認しようとしたところで、蒼が部屋から飛び出してきてしまったのだ。


 ――……動く音は聞こえない。だからきっと……。


 先程からずっと聞き耳を立てているが、その耳がレオニードの立てる物音を拾うことはなかった。通常の家よりも天井がだいぶ高いとはいえ、大の男が二階から落ちただけで命を落とすとは思えなかったが、落ちた時の着地の仕方が悪ければそういうこともあるだろう。何より腹に刺さった毒の刃は、すぐに抜かなければ恐らく全身に火傷が広がる。


 それでも、助けてやろうという気は起きなかった。レオニードが言うには彼は自分の兄にあたるようだが、そんなことは関係ない。レオニードは朔にとっては復讐相手以外の何者でもなく、さらに蒼のことも殺そうとしたのだ。そんな人物を本当かどうかも分からない情報だけで助けてやろうと思えるほど自分の心は広くはないのだ、と朔は眉に力を入れた。


 ──本当に、これで良かったのか……?


 復讐を果たしたというのに意外とすっきりしない自身の心境に、朔は漠然とした疑問を抱いていた。レオニードを手にかけたことに後悔はない。何故ならとうに覚悟はできていたからだ。

 だが、自分のしたことは本当に正しかったのか──勿論、復讐自体が必ずしも正しいとは言えないことは理解していたが、朔が今感じているのは復讐というものに対してではなく、もっと根本的な何かに対してだった。


 ──それでも……。


 未だ震えの治まりきらない蒼の頭に手を置いて、そこから伝わる体温に小さく息を漏らした。ここに来なければ、そしてレオニードに情けをかけていたならば、二度と会うことはできなかったかもしれない。自分が予想以上に蒼の安否を気にしていたのだと自覚すると、やっと今日感じていた違和感の正体に気付き、朔は思わず顔を顰めた。


「朔さん……?」


 朔がいつまでも自分の頭を触っていることを不思議に思ったのか、蒼が窺うようにして顔を上げた。涙のせいで顔に髪が張り付く感覚があったが、すぐに取り去られていく。それが朔の指によるものだと気が付いた瞬間、蒼の思考は停止した。


 暖かい感触が、頬から髪の毛の方へと移っていく。髪が緩く引っ張られるようなこの感覚と、鼓膜を揺らす少しばかり乾いた音は、その手が自分の髪を弄んでいるからだと考えるまでもなかった。何も考えられないはずなのに、無意識のうちに朔の指の動きを追っている──胸を締め付けられるようなその感覚に、蒼は自分の頬に熱が集まるのを感じていた。


 ──なんで、こんな急に……!


 予想すらしていなかった自身の状況に、蒼は混乱しているのか、その目にはまたも涙が溜まっている。それでもどうにかこの状況を打破しようと、カラカラに渇いた喉から必死に声を絞り出した。


「あ……えっと、その……!」


 声を出したおかげか、少しだけ思考が戻る。自分をじっと見つめてくる端正な顔には、ところどころ血が付いていた。必死にそれを見て意識を逸らそうとするが、一度この状況を意識してしまった今では気休めにもならない。


「あ、あの――」

「ガキか」

「なっ……!?」


 突然ぎゅっと引っ張られた頬に蒼の頭が一瞬、真っ白になる。しかし頬から感じる僅かな痛みと、クツクツという愉快そうな笑い声に自分がからかわれたのだと気が付くと、蒼はキッと目尻を釣り上げて朔を睨みつけた。


「言っときますけどねぇ! 私の方が年上なんですよ!」

「……嘘だろ?」

「またその顔! そんなきょとん顔したって誤魔化されませんよ!」

「何をだよ」


 自分の大声に対して冷静に返されて、蒼は苦い表情を浮かべた。必死に声を張り上げて気まずさを誤魔化そうとしているのは自分なのだ。この状況のせいですっかり涙が引いたことには安堵していたが、意識してしまったことで今まで自分が朔に対してどうやって接していたのか、いくら考えてみても分からない。


「──何をそんな大声出してるのよ」


 蒼の百面相に向けられていた朔の笑みは、その声が聞こえてきた瞬間、すっと消え去った。


「お前……どうして……」


 顔を向けた先にいたエレナの姿に、朔が思わず声を零す。しかしすぐにはっとすると、立ち上がって蒼を隠すようにエレナを睨みつけた。


「朔さん? どうしたんですか?」

「黙ってろ。――お前、死んだんじゃなかったのか?」


 死んだと聞かされていたエレナが生きている。その事実に朔の頭の中には二つの考えが過ぎった。涼介が自分に嘘を吐いたか、涼介自身が騙されていたか――後者の場合、エレナはレオニード側に付いている可能性が高くなる。エレナが死んだと涼介を騙す以上、必要な時までエレナ本人がその嘘を覆さないように動かなければならないからだ。


 既に涼介が自分に対しいくつも不可解な行動をしていると気付いている朔は、どちらの考えも否定することができなかった。更にエレナのすぐ後ろにいる気弱そうな日本人男性は、どう見てもレオニードの仲間には思えない。そうすると、エレナがこの男と一緒に捕らえられていた可能性もある。


「殺されかけはしたけど、ちゃんと生きてるわよ」

「レオニードに付いてるのか?」

「……蒼ちゃんには、謝ったわ」


 エレナのその言葉は、朔が既に蒼を攫ったのが自分だということを知っているのだと判断してのものだったが、そんな事実を知りもしない朔は何のことか分からず後ろにいる蒼を振り返った。

 いつの間にか立ち上がっていた蒼は、「エレナさんも、悪気があったわけじゃ……」と言葉を濁している。その様子にやっと蒼を連れ去ったのがエレナだと気付いた朔は、「お前……!」と怒声を上げながら勢い良くエレナの方に向き直った。


「――……いや、コイツが許してるってことは、何か事情があったのか……」


 そのままの勢いでエレナに罵声を浴びせようと開いた口は、直前の蒼の様子を思い出したことによって嘆息のようなその言葉を零すに留まった。何故自分を攫った人間を簡単に許すのか――朔は蒼の行動に頭が痛くなるのを感じたが、エレナの後ろにいる男の存在も考えると、何かしら事情があったのだろうと怒りを抑え込む。


「彼を人質に取られてたのよ。でも蒼ちゃんのお陰で、レオニードに何かされていたわけじゃないって分かったから……その、ごめんなさい」

「……ったく、巻き込むなっつった人間が何やってんだよ」

「朔さん!」

「いいのよ。それで、下にレオニードが倒れてたけど……」


 エレナの言葉に蒼の思考が現実に引き戻された。朔が人を殺した──忘れかけていた出来事に心が抉られるような感覚を覚えたが、レオニードがいなくなったというのはエレナにとっても歓迎できる状況のはずだ。そのため彼女にも知る権利があると考えた蒼は、ゆっくりと状況の説明を始めた。



 § § §


 ルカは迷っていた。拠点である洋館に戻ってきたはいいが、今の状況が分からない。時間から考えて恐らく涼介達は既にここに来ているだろう。そうすると正面から建物に入った場合、彼らに鉢合わせてしまう可能性がある。


 別にルカ個人としてはそれでも良かったが、レオニードが言うには、涼介はルカがまだ洋館の中にいないことに気付いていない。不意打ちという点を考えるのなら、ギリギリまで姿を隠していた方がいいのでは――そう考えて、ルカはキッチン側の入り口に向かった。扉のガラス窓から中の様子を窺い、気配を消して慎重に中に入る。


 耳をすませば、微かに誰かの話し声が聞こえた。玄関ホールだろうか、だとすればここから入って正解だったと考えながら、ルカは更に洋館内部へと向かう。


「レオ……!?」


 キッチンと玄関ホールを繋ぐ廊下で、その先に倒れる人物の姿を認めてルカは思わず声を漏らした。それでも慌てて口を塞ぎ、取り乱しそうになった自分を諌める。


 ――落ち着け、よく見ろ。今この状況で見つかれば……。


 ルカは必死に深呼吸して気持ちを落ち着けると、自分が次に取るべき行動に出た。



 § § §


 涼介が地下階から玄関ホールに上がってきた時、そこには血の跡があった。


 ――これは誰の血かな?


 他人事のようにそう思ったが、二階から聞こえてきた予想外の声にその疑問は追いやられた。涼介は急いで階段を上ると、そこにいた人物に目を見開く。


 ――なんで、彼女が……?


 自分の知っていた状況と違う現実に戸惑ったが、しかしすぐに涼介の中でその気持ちは固まった。


「リョウ」


 階段から上がってきた涼介の姿を視界に捉えると、朔は蒼達にそこにいろと手で示し、涼介の方へと歩み寄った。涼介に対しては疑念があるのだ、無闇に蒼達に近付けるわけにはいかない。蒼を攫ったというエレナも、どうやらレオニードに脅されやむを得ず従っていたと考えて間違いなさそうで、今この場で最も危険なのは涼介のみと言える。


 ほんの数分前までならまだ、どうにか疑いだけで済ませていた。だが今、涼介は階段を()()()()きたのだ。三階に行くと言っていたはずの人間がその通りの行動をしていれば不可能なそれは、朔の中で涼介に対する警戒心を一気に高めていた。


「言い訳は考えてあるのか?」

「……何の? っていうか、エレーナは生きてたんだね」

「あまり驚かないんだな」

「いや、かなり驚いてるよ。だって彼女が生きてるってことは、全部レオニードに仕組まれてたってことだろ?」

「仕組まれてた?」


 レオニードに仕組まれる――その言葉は、朔にとっては希望だった。たとえ涼介が嘘を吐いていたのだとしても、それがレオニードの企みによるものなら話は別だ。


 ――馬鹿か、俺は。全部が全部奴の企みだっつって、解決するもんでもねぇだろ……。


 それでも、朔は涼介の言葉を待った。涼介の自分に対する嘘の理由が、彼自身の意思ではないとしたら――そんな可能性に縋りたくなったのだ。


「生きてるエレーナを死んだって俺を騙すのは、相当リスクが高いよ。何せ俺たちは元々顔見知りだから、街で偶然出会ったら嘘がバレる可能性があるわけだ。ってことは、エレーナ自身が俺と鉢合わせないように気を付ける必要がある。つまり――」

「エレナはレオニードと組んでるって?」

「なんだ、分かってるんじゃん。エレーナに背中向けてるから気付いてないかと思った」

「もうその話は済んでるのよ」


 突然割って入ったエレナの声に、涼介が肩を竦める。


「俺を騙すのに加担していた奴の言うことを信じろって?」

「アナタ……!」


 まるで自分に全て押し付けようとしているかのような涼介の物言いに、エレナが驚愕の表情を浮かべる。振礼島にいた頃、エレナは自分と涼介は少なくとも良好な関係だと思っていたのだ。店員と客ではあったが、街中で出会っても愛想良く話しかけてきた涼介を思うと、今の彼の自分に対する冷たい空気は信じきれないものがある。

 何も言えなくなっているエレナを横目で見ながら、朔は躊躇いがちに口を開いた。


「俺に嘘を吐いたお前の言葉は、どうやって信じればいい?」

「嘘?」

「二階が空き部屋って言ってみたり、三階に行くっつって一階から現れたり、お前は何がしたい? 第一リョウの口振りじゃレオニードは俺のことを知らないはずだったのに、奴は思いっきり俺のこと知ってたぞ?」


 朔の詰問に涼介が苦笑を浮かべた。「困ったな」、そう呟きながら朔に一歩ずつゆっくりと近付いて行く。


「蒼ちゃんにさ、朔より先に会いたかったんだよ」

「あ?」

「だってあの子、レオニードと組んでるでしょ?」

「何言って――」

「それは……!」


 涼介の話を否定しようとした朔の言葉は、蒼の声に遮られた。蒼はまだ朔に事情を話していなかったのだ――自分がレオニードと手を組んだことを。それは自分で説明すべきだと思っていた。だから慌てて涼介の言葉を遮ってしまったのだ。


 涼介だけが言うなら、朔は彼の嘘だと判断しただろう。しかし後ろから蒼の悲痛な声が聞こえたことで、朔は咄嗟に身体を彼女の方へと傾けてしまっていた。


「──ま、適当に言ったんだけどね」


 その声が聞こえた瞬間、朔は腹部に衝撃を感じた。無意識のうちに視線を蒼から前方に戻せば、目の前というには近すぎるくらいの距離に涼介の姿。


 その涼介が、ゆっくりと身体を朔から離す。


 ──何を……?


 朔の頭に浮かんだ疑問の答えは、遅れてやって来た突き刺すような痛みが教えた。


「朔さん!?」


 蒼の悲鳴を聞きながら痛みの元に目をやると、つい最近どこかで見たような光景が広がっている。


「死んでよ、朔」


 そう言って、涼介が微笑った。

第十二章『本当の姿』完

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