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アザー・ハーフ  作者: 丹㑚仁戻
第一章 作られた始まり、追憶の出会い
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05. 命の条件

――現在


「うあッ……や、やめて……!」


 朔はバールに手をかけると、前後左右にグリグリと動かし始めた。

 先端が脆くなったコンクリートの床に刺さっているのか、バールを持つ彼の手にはガリガリとした固い感覚が伝わってきている。


 ――なんて運の無い女だ。


 朔は蒼の状況に思わず笑みを零しながら、なるべく動かしすぎないよう少しずつバールを床から引き抜こうと試みていた。

 一方で、蒼には朔の意図など分からない。そのため彼女の胸には、これから拷問のように痛めつけられるのではないかという恐怖が押し寄せてきていた。痛みに耐える蒼にできるのは、制止の言葉を絞り出すことくらいだった。


「助かりたいんじゃないのか?」

「たす、ける……?」


 殺すの間違いではないだろうか、と蒼は訝しげな表情を浮かべた。

 蒼からしたら、少なくとも朔が今行っている行為は助けるという目的とはかけ離れている。耳に届くクツクツという笑い声も、彼女に目の前の男が気の狂ったサディストだと思わせるのには十分だった。

 そのような印象を抱かせる相手の様子と、その口から出た助けるという発言は全く一致しない。痛みで思考が鈍っているのもあるが、朔の言葉の意味が分からない蒼には、ただただ彼を見つめることしかできなかった。


「助けてやってもいいけど条件がある」

「条件……?」

「俺に協力しろ」

「何、を……?」


 蒼は探るような眼差しで、未だに逆光で顔の見えない朔を見つめた。

 助かりたいが、すぐに返事をすることはできない。朔の正体は不明な上、何に協力すればいいのかも分からないのだ。

 さらに彼は楽しげに蒼を痛めつけており、現在進行形で人間としての信用度を急降下させている。そんな相手にたとえ命と引き換えでも協力するなどと、さながら悪魔に魂を売るようなものだと蒼は思った。


「協力すんなら助けてやるよ。じゃなきゃ放置する」

「ぐっ……やめ……やめてっ……」


 朔は再びバールをいじりながら、蒼に答えを促した。

 実は既に床から引き抜くという目標は達成しており、後は動かないようにバールを支えてやるだけでよかった。しかし蒼の探るような瞳に、これは相当追い込まれないと首を縦に振らないタイプだと判断し、その追い込むための行為として実行しているのだ。

 何に協力すればいいのかという蒼の問いに答えればまた違ったのだろうが、朔には内容を事前に知らせてやる気はさらさらなかった。彼女の性格は知らないが、言ったところで信じない可能性があったし、下手をすれば折角見つけた協力者(道具)が逃げ出してしまう可能性もある。


 ならば脅しのような方法を取ってでも、先に条件を飲ませてしまった方がいい。幸い相手は死にかけで、判断力も鈍っているだろう。怯えを助長するよう振る舞えば、彼女が自分の言葉を受け入れるのは時間の問題だ。

 朔は一つ息を吐くと、そろそろ頃合いだろうと蒼に二択を突きつけた。


「協力すんの? 死ぬの?」


 その問いに、蒼は唇をキュッと噛み締める。ここで彼に協力すると答えなければ、どう考えても自分は死ぬしかないのだ。

 こんな相手にこんな状況で出遭ってしまうだなんて――蒼はこの状況に陥る原因を作った己の浅慮さを呪ったが、今更どうすることもできない。そうして、自分に唯一許された言葉を紡ぐために口を開いた。


「死に、たくない、です」

Хорошо(ハラショー)


 言うが早いか、朔は蒼の脇にしゃがみこんで勢い良くバールを引き抜いた。

 突然の衝撃に、蒼は悲鳴を上げようと口を開く。しかしその喉から叫び声が発せられるよりも早く、朔は自分の手を彼女の腹にズプッと音を立てるように()()()()()


「うわあああああッ!」

「うるせ」

「ふぐっ……! んー! んーッ!」


 あまりの痛みと不快感につんざくような悲鳴を上げる蒼の口を、朔は空いている方の手で塞ぐ。それでも蒼の悲鳴は収まることはなく、朔の手の隙間からは呻くような声が漏れ出ていた。


 自身の内臓をまさしく(まさぐ)る感覚に、蒼の全身には鳥肌が立ち、身体中から汗が吹き出した。

 しかしそんなこともお構い無しに、朔の手は蒼の腹の中で動き続ける。


 息が苦しい。蒼の口からは悲鳴と共に息が出て行くばかりで、上手く吸うことができない。

 酸欠のせいか、それとも尋常でない痛みのせいか。蒼の意識が遠のきそうになった時、ぬるっとした感覚と共に朔の手が彼女の腹から引き抜かれた。


 蒼はなくなった不快感に安堵しながら、朦朧とした意識の中で力なく虚空を見つめていた。

 荒い呼吸は徐々に落ち着き、頭の中がはっきりとしてくる。随分と楽になった身体にほっと息を吐いたが、あるものが足りないと眉根を寄せた。


 ――痛くない……?


 腹部の痛みが消えていたのだ。そんなこと有り得ない――そう思って、慌ててバールが刺さっていた場所に手を当てる。


「え……あれ? 傷は……?」


 ペタペタと何度も自分の腹部を触って確かめる。洋服は血で濡れているのに、服を捲くっても傷が指に触れることがない。


 蒼から引き抜いた血まみれの手を見つめていた朔は、そんな彼女を見て呆れたような溜息を吐いた。


「助けてやるっつったろ?」

「でも……え? なんで、どうやって……」


 自分の置かれた状況に理解の追いつかない蒼はそのまま暫く落ち着かない様子だったが、不意に目を閉じたかと思うと大きく深呼吸を繰り返した。

 これは蒼が目の前の物事が理解できない時にする癖で、こうすると勉強でも人の話でも、一旦そういうものとして受け入れることができる。いつまでも分からない事に拘ってその場に取り残されるより、一回全体を知った上で考えた方が結果的に理解しやすいと思っている蒼が身につけた技だった。


 ――なんだかよく分からないけど、傷は治った。助けてもらえた。一番の危機は脱したんだ。


 そう自分に言い聞かせ、蒼はゆっくりと目を開けた。

 すっかり落ち着きを取り戻した彼女の様子を、朔はつまらなさそうに見下ろしている。その態度に蒼は思わず朔をキッと睨みつけた。


「なんだよ、助けてやったのに文句でもあるのか?」

「……そういうわけじゃないです。ていうか普通助けるって救急車呼びません?」

「携帯持ってないのにどうやって呼ぶんだよ」

「私のが二階に……」

「めんどい」

「『めんどい』って、救急車呼ぶだけですよ? こんな訳の分からない方法より面倒臭いわけ……うっ……」


 反論しながら起き上がろうとした蒼は、突然襲ってきた目眩に再び倒れ込んだ。

 貧血のような感覚に顔を顰めて手を額に伸ばそうとすると、背中にズキッとした激痛が走る。どうやら朔が治したのは腹の傷だけで、地面に打ち付けた背中の怪我はそのままだったらしい。


 折角なら全部治してくれればいいのに――そう思いながらも視界の端に捉えた光景に、その気持ちを口にする事はできなかった。


「あー、傷は治したけど血は抜けっぱなしだから、鉄分取るか輸血するかしとけよ」

「……早く言ってください」


 一旦受け入れたとはいえ、自分の身に起こったことは夢だったのかもしれないと思っていた。しかし、倒れ込んだことにより改めて目にした血だらけのバールと血溜まりに、これが現実であると思い知らされたのだ。

 一歩間違えば死んでいたという恐怖が蒼の背中を撫でつけ、ブルッと身体を震わせる。どんな方法であれ助けてもらったことには変わりない、と改めて自分に言い聞かせた。


 もしかしたら自分はここで死んでいたのかもしれない。


 その恐怖から気を紛らわすため何か言わなければと考えを巡らせた蒼だったが、出会ったばかりで話題など思い付かない。結局「大体、こんな治し方するなら先に言ってください」とささやかな苦情を口にするに留まった。


「言っても信じないだろ?」

「そうかもしれませんが、心の準備というものが……」

「別にいいじゃねえか、気持ち良かったろ」

「どこが! むしろ逆ですよ、人生最悪の感覚です」

「そのうち良くなるんだよ」

「そんな何回も腹に穴開けろってことですか!?」


 大声で叫びながら、蒼は自分の状況に唖然とした。

 先程まで恐怖を感じていた相手と何をこんなに気軽に話しているのか。奇想天外な方法で傷を治されたせいで、それまでのやり取りが頭から消えてしまっていたのは認めざるを得ない。だが、相手は治せるとはいえ自分を痛めつけ、謎の交換条件を提示してきたような男なのだ。


 蒼は気怠さと背中の痛みを堪えてなんとか身体を起こすと、これまでの自分の態度を反省し、目の前に座る朔の顔を観察するように見つめた。

 位置が変わったことで見えるようになった彼の顔は蒼の予想に反してとても整った造りをしており、テレビで見かけるハーフタレントのような、日本人のものとは異なる顔立ちをしているのが分かった。


 ――どうせならもっと、極悪人っぽい顔してれば思い切り恨めるのに……。


 目つきは悪いが、極悪人という程ではない。何故か悔しい気持ちを感じながら、蒼はまだできていなかった話をしようと口を開いた。


「助けていただいたことは感謝しています。ですがまだ協力する内容を聞いていません。それに、あなたは一体……」

「お前、振礼島のこと知りたいんだろ?」

「なんでそれを……」


 驚きの表情を浮かべる蒼に、朔は楽しそうにクツクツと笑い声を漏らす。


「それ知らなきゃこんなとこ来ないだろ、どう考えても。お前馬鹿なの?」

「は!?」


 馬鹿にされたことで思わず声を上げてしまった蒼だったが、その直前の言葉が頭から離れなかった。

 何故ならそれは、自分の行動がいつからか筒抜けだったということを表しているからだ。


 ――でも、一体いつから?


 アネクドートの人間が伝えたのか、それとも網走で取材していたせいか。蒼が深い思考に入ってしまったことに気が付いたのか、朔は「おい」と彼女を小突いた。


「振礼島のこと教えてやるよ。じゃなきゃ俺の協力なんてできないからな」

「……振礼島のこと、詳しいんですか?」

「そりゃあな。何せ故郷だ」

「え……!?」


 ならこの男は生き残りということか――関わってはいけないはずの人間に、確認を取った上で関わってしまっていた事実に蒼は呆然とした。


「お前が協力すんのは俺のための情報収集。それと風呂と飯と、あと寝るとこ」

「……ん? 後半なんかおかしくないですか?」

「おかしくねえよ。島のこと調べてんなら分かるだろ? 俺難民みたいなもんなの。世話しろ」

「はぁ!?」


 思いがけない言葉に叫ぶ蒼を放置して、朔はあっという間にどこかへと姿を消した。蒼にはそれを気にすることも、その場を動くこともできない。朔からの要求が頭の中を駆け巡っており、それどころではなかったのだ。


 ――振礼島の生き残りと関わってしまったことは、もうどうしようもないので受け入れることにしよう。振礼島のことを教えてくれるなら万々歳じゃないか。


 出会ってしまったことに関しては、どうにか自分を納得させることができる。関わってはいけないと分かってはいたが、振礼島の生き残りとは元々いつか接触したいと思っていたし、見返りを要求されているとはいえ命を助けてもらった。


 問題は朔の得体が知れないことと、残りの要求だ。特に彼が何者なのかという問題は非常に重要である。何せ朔は先程、有り得ない方法で蒼の傷を癒やしたのだ。


 だがそれ以上に今、蒼にとっては朔のもう一つの要求に関する問題の方が重要だった。

 風呂と食事と寝床――つまり衣食住を提供しろとのことだと思われるが、自分の生活で精一杯の蒼には金銭的に朔専用の住まいを用意してやる余裕などない。となると自宅を提供するしかないのだが、それをしてしまうと今度は自分の行き場がなくなる。


 どちらにせよ実質的に二世帯分の生活費を賄うことは、今の蒼には不可能だ。だから彼女としてはこの要求には応えられないと断りたい気持ちでいっぱいだったが、超自然現象的な技を操る得体の知れない存在の機嫌を損ねたらどうなるか全く予想がつかない。最悪、傷を元に戻される可能性だってあるかもしれない。


 蒼が現状に頭を悩ませていると、天井の穴から朔が下りてきた。ただし、彼女を跨ぐようにして、である。

 蒼は落ちた場所から動いていないので、同じ穴から下りたら同じ場所に着地するのは当然だろう。

 頭の片隅ではそんなことは分かっていた。それでも消えたと思ったら突然目の前に降ってきた朔に、蒼は驚く余裕もなく固まったまま彼の顔を見つめることしかできなかった。


Не() спи(スピー)девочка(ヂェーヴァチカ)

「え……って近!」


 どこか聞き覚えのある台詞に意識を戻せば、朔が至近距離で手を振っていた。朔は蒼が自分の方に意識を向けたのを確認すると、彼女の横に移動しながら手に持っていたバッグを地面に下ろした。


「それ、取ってきてくれたんですか?」

「また落ちられても治すの面倒だしな」

「うっ……」


 存外朔はいい人間なのかもしれない――彼の行動にそれまでの認識を改めながら、これは要求を断ることも可能なのではという期待が蒼の中に生まれた。


「あの、風呂と食事と寝床の件なんですが……」

「あ?」

「私の収入では朔さん用に別の住まいを用意するのは難しくてですね」

「お前んちでいいじゃん」

「え!?」


 さも当然とばかりに朔は言い放つと、「じゃなきゃお前の荷物取ってこないだろ」と呆れたような視線を蒼に向けた。


 ――つまり最初から人の家に転がり込む気だったと……? 普通別の住まいを要求するものでは……?


「安心しろよ、お前好みじゃないから何もしねぇって」

「は!?」

「まさか断ろうとか思ってないよな? 俺はお前の命の恩人だぞ。命の恩は命で返せって言うよな」


 ニヤリと笑う朔を前に、蒼は口をパクパクとさせ固まることしかできなかった。


 悪魔に魂を売るようなものだ――自分の身に立て続けに降りかかる災難に、蒼は少し前に朔に対して感じた自分の印象が正しかったのだと痛切に感じた。

第一章『作られた始まり、追憶の出会い』完

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