40. 遠い日
――十年前
「――でっかいネズミだなぁ」
しんと静まり返った倉庫内。薄暗く埃臭い空気の中、涼介は足元の大きな毛布の塊を見て呆れたように呟いた。
「……ネズミじゃねぇ」
毛布から聞こえてきたのは、変声期特有の少し掠れた声。もぞもぞと動くそれを見ながら、「ネズミじゃん」と涼介は笑った。
「違ぇよ」
苛立たしげな声と共に毛布から顔を出したのは、蒼色の瞳を持つ少年――朔だ。本来なら二つあるはずの目のうち片方は包帯で隠されており、思っていた以上の有様に涼介は「うわぁ」と声を漏らした。
「また派手にやったなぁ。それじゃ華さん怒って当然だよ」
「……うるせぇ」
そう不貞腐れた朔が毛布を身体に巻いたまま起き上がれば、痛々しい顔の怪我が顕になる。隠れた右目も含めいくらか手当てはされているが、赤黒く腫れた口の端や頬の擦り傷はそのままだ。
しかし朔は気にする素振りも見せず涼介を見上げると、「帰れよ」と機嫌悪そうに呟いた。
「帰るのはお前だよ、朔。ここはお前の職場であって寝床じゃない」
「……迷惑かけてないんだからいいだろ」
「今はな。けどもうすぐ十二月だぜ? いくら本格的な寒さじゃないって言っても、こんなコンクリの床に毛布一枚で寝てたら良くて風邪、最悪凍死。そんなお前を片付けるのはお前以外の人間だよ」
「……じゃあどこで寝ろってんだよ」
「家で寝なさい」
口では朔に帰るように言いながらも、涼介はその場に座り込む。そして胡座をかいた膝に頬杖をついて、「怪我の具合は?」と心配するように尋ねた。
「大したことねぇ」
「その顔でそれは説得力がない」
「……顔以外はなんともない」
「嘘吐け。お前華さんが卒倒するから割と顔庇うじゃん」
それにも拘わらずこれだけ顔を怪我したということは、他の箇所はもっと酷い怪我をしていてもおかしくはない――言外に込められた涼介の指摘にうっと眉間に皺を寄せ、朔は顔を背けた。
「……少し腕捻った」
「肋折れたって聞いたけど」
「知ってんじゃねぇか。つーか罅入っただけだから折れてねぇよ」
「それを亀裂骨折って言うんだよ」
呆れたように大きな溜息を吐いて、涼介は朔の頭を掴んで自分の方へと向けた。荒っぽく見えるが、朔さえ抵抗しなければ首を痛めないような力加減だ。
それでも怪我には響くのだろう。朔は「痛て」と小さな声を漏らしながら、忌々しげに涼介を見上げた。
「そんな怪我でこんなとこ居たら本当に死ぬよ?」
「死なねぇよ」
「お前鏡見た? 顔色やばいんだけど」
「あんま寒くないとしたら、熱でも出てるからじゃないの」と言いながら、涼介が立ち上がる。そして朔の頭から離した手を差し出して、「ほら、行くよ」と声をかけた。
「……行かねぇ」
「歩けるうちに自力で帰んないと、俺がおぶって帰ることになるよ」
「……くそ」
自分が背負われるところを想像したのか、朔は渋々といった様子で立ち上がった。その背丈は既に涼介と同じくらいで、背負われていたら相当目立つだろう。
そのまま毛布を片付けようとしたのか朔は身体を少し前に屈めたが、不自然な動きでそれを止める。その様子に涼介は呆れながらも、「俺がやるから」と朔を先に帰らせた。
「――歩くのおっそ」
「……うるせぇな」
涼介が毛布を倉庫の隅に片付けてから朔を追うと、驚くほどすぐに追いつくことができた。
後ろから見た朔は若干ふらふらとしており、もしかしたら途中で肩くらいは貸すことになるかもしれない、と小さく息を吐く。
「今回はなんで喧嘩したの?」
「向こうに売られた」
「買うなよ」
「……無視はしようとした」
そう言いながら、朔は決まり悪そうに顔を背けた。涼介なら今の言葉に嘘はないと分かってくれると知っていたが、それでも喧嘩を避けきれなかったことに後ろめたさがあったのだ。
朔の母親である華は、振礼島では人気の娼婦だ。
子供の頃の朔は、華の子であるという理由で目をつけられることが多かった。それは華が娼婦という職に就いているからではない。振礼島では広く認められている職業のため、それだけで不利になることは殆どなかった。
だから朔が目をつけられたのは、同年代の子供達の男親――華の客による、自分の子供への刷り込みが原因だった。不特定多数の男に愛をばら撒く仕事と分かっていても、彼らは華が特定の男の子供を生んだことが気に入らなかったらしい。
そのためいつしか朔は、周りの子供達としょっちゅう殴り合いの喧嘩をするようになっていた。
顔も知らない彼の父親は体格の良いロシア人だったようで、当時から朔は同い年の子供達よりも身体が大きかった。つまりそれだけ力もあるから、当然朔が勝つ。
そうすると今度はそんな朔が気に食わない上級生が彼に挑み、そしてそれに朔が勝ち、また上級生が――というのを繰り返していたのだ。
『朔、こちら涼ちゃん。今日からアンタの先輩だよ』
朔が華に涼介を紹介されたのは、二年前のことだった。
当時はもう、朔の喧嘩相手には大人もいた。だが相手が大人ならば、いくら朔でもただでは済まない。
毎回勝てるはずもなく、勝っても負けても怪我は酷くなる一方。華自身が見張っていられればいいがそうもいかず、かと言って家に閉じ込めることはしたくない――そこで華は、バーで何度か会ったことのある涼介に朔の世話を頼んだのだと説明した。
「喧嘩売られるのはまあ、今までのツケだと思いなよ」
喧嘩を避けようとしたという朔の言葉に、涼介が少しだけ困ったようにそう言った。
――俺が悪いみたいじゃねぇか……。
朔は反論しそうになったが、口を開きかけたところで過去の自分が悪いのだと気付き、顔を顰めるに留まった。
涼介と一緒に行動するようになってから、朔は喧嘩をすることが減った。喧嘩をするなとはっきり言われたことはないが、仕事に関しては厳しく教えられたからだ。怪我をすれば仕事に差し障る――その事実に気付き、以前のように誰彼構わずとりあえず殴るというのは止めたのだ。
しかし、変わったのは朔だけだ。周りは朔のことを以前と同じように見ているし、中には恨みを持つ者もいるだろう。だから時折、こうして怪我をするような喧嘩に発展してしまうことがある。
今回は久々に大怪我をしたせいで、朔は華と大喧嘩をしてしまったのだ。
そして華から事の顛末を聞かされた涼介がこうして家出した朔を迎えに来るのは、もはや恒例となっていた。
「喧嘩売ってくる奴らがガキなんだよ」
「お前もな。大人だって言うならもっと上手く立ち回れよ」
「……うぜぇ」
「はいはい、俺はうざいですよー」
そう言いながら涼介がわしゃと朔の頭を撫でれば、嫌そうに振り払われた。
けれどその手にあまり力が入っていないのはいつものことで、涼介は「思春期だなぁ」と顔を綻ばせる。いつかはこの手も朔の頭に届かなくなってしまうのかもしれないと思うと少しだけ寂しい気もしたが、全力の拒絶をされないだけいいだろうと肩を竦めた。
「……リョウ」
「んー?」
「仕事行ってるよな?」
「華さん? さあ、どうだかね。いつもだったら仕事行ってるだろうけど、今回は久しぶりの大怪我だし。逆に朔にムカついて家にいたくないってこともあるかも」
「……どっちだよ」
「どっちでもいいじゃん。どっちにしろ、華さんと仲直りするのは朔の仕事なんだからさ」
「……くそ」
それから何度か同じような会話をして、二人が朔の家についたのは二時間近く経ってからだった。
元々が徒歩で移動するにはそれなりに距離があるのだ。普段であればここまでかからないが、今の朔はやはり熱もあるらしく、時々足取りが覚束ないほどふらふらとしていた。
「朔、生きてる?」
「……あ?」
「うわ、焦点合ってない。もし華さんがいてもそのまま寝ちゃいな。華さんには俺から言っておくから」
涼介は朔の上着のポケットから鍵を取り出すと、当然のように解錠しドアを開けた。
途端に広がるのは、温かい空気。人の気配を感じさせるそれに涼介は少しだけ目を細めて、「ほら、早く入れ」と朔を先に中に入れる。
「涼ちゃん、おかえり」
廊下の向こうから顔を覗かせた華は、不機嫌そうな雰囲気を漂わせていた。その少しだけ鋭い視線は朔に向いていたが、朔はそれに気付ける状態ではない。
朔は今にも閉じそうな瞼をどうにか押し上げながら、涼介と華の会話に耳を傾けるのがやっとだった。
「言う相手は俺じゃないでしょ。っていうか朔、熱でふらふらしてるからとりあえず寝かせてあげて」
「甘やかしすぎじゃない?」
「だからって外に放置してたら死んじゃうよ? こいつ倉庫で寝てたし」
「うわ、馬鹿なのかな」
――誰が馬鹿だ。
涼介達の会話を聞きながら朔はそう言おうとしたが、その口はもう動かなかった。
§ § §
朔が目を覚ました時には、華の姿はなかった。
痛みに耐えつつ時計を確認すれば、夕方近くを指している。記憶を辿る限り自分は夜に帰宅したはずだから、少なくとも半日は寝てしまったことになると気付いて溜息を吐いた。
「だる……」
寝すぎたせいか、それとも熱のせいか。額に手を当ててみても自分に熱があるのかどうかは分からなかった。
――今日仕事あったか……?
もし仕事がある日だったのであれば、すっぽかしてしまったことになる。
本来であれば中学に通っているはずの年齢だが、ろくに学校も行かないため華によって涼介と同じ職場に放り込まれた朔は既に働いていた。責任感というものはまだよく分かっていなかったが、学校と違って無断で休んではいけないものだと理解している。それは自分自身がどうというよりも、自分の面倒を見ている涼介に迷惑がかかることを知っていたからだ。
朔が寝起きの回らない頭で記憶を辿っていると、ガチャ、と玄関の扉が開く音が聞こえてきた。
咄嗟に布団を被って部屋の入り口に背を向ければ、罅の入った骨がきしんで痛みが走る。
「朔、起きてる?」
その声は華のものではなかった。
朔は安心して再び身体の向きを変えると、布団から顔を出しながら「……今起きた」と声の主――涼介に答えた。
「熱は?」
「分かんねぇ」
「んー、顔色は良さそうだな。華さんは流石に連続で仕事休めないからって出かけたよ。んで、俺が様子見るよう頼まれた」
「……いらねぇのに」
子供扱いされている気がして朔が不貞腐れると、涼介が「そう言うなって」と笑う。
「仕事は?」
「俺? もう終わったよ」
「リョウじゃない」
「朔は休みにした。当然だろ? 熱だっていつ下がるか分かんなかったし、お前が今どれだけ動けるかも確かめないと分かんねぇじゃん」
その答えにほっとした表情を浮かべた朔を、涼介がにやにやと見ていた。
「……なんだよ?」
「いや、成長したなぁって」
「は?」
「前だったらお前、仕事のこととか気にしなかったろ。それなのに自分から聞いてくるって偉いじゃん」
「……うぜぇ」
再び布団を顔まで被って、小さく呟く。暗闇の中で顔は思い切り顰めていたが、気分は悪くない。
涼介にこうして認められることは、朔にとっては嬉しかった。だが、それを素直に認められない。だからそのたびに「うぜぇ」と言って顔を背けてしまうのだが、そんな反応しかできない自分が時折嫌になる。
華に対してもそうだ。
華が自分の怪我を見て怒るのは、それだけ心配してくれているからだと知っている。けれどそんなに心配されるほど子供ではないという気持ちがいつも主張して、気付けば口から暴言が出てしまう。
悪いとは思っているのに、謝れない。涼介はそれを反抗期だと笑うが、朔にはその意味はよく分からなかった。
「朔、起きれそう?」
「……なんで?」
「華さんと仲直り、しなくていいの?」
涼介の言葉にたっぷり十秒近く悩んで、朔はゆっくりと布団から顔を出した。
「……起きてどうすんだよ」
「じゃあそのまま何もしないわけ? 時間がある程度は解決してくれるかもしれないけど、そうやって有耶無耶にしてたらすっきりしないままだよ」
「別に……」
「もやもやしてんじゃないの? 華さんに怒りたいわけじゃないのに怒っちゃって、喧嘩になって。自分も幼稚だったなぁとかって、少しは後悔してるんだろ?」
「……なんで知ってんだよ」
朔が決まり悪そうに言えば、涼介がおかしそうに笑う。今の発言で何故笑われるのか理解できなかった朔は、不機嫌そうに眉を顰めた。
「朔って本当素直で可愛いなぁ」
「あ?」
「褒めてるんだよ。そういう素直さは後から欲しくなってもどうにもならないから。振りはできるけどね」
「……意味分かんねぇ」
「朔はそのままでいてねって話」
そう言って、涼介は苦笑を浮かべた。
時々こうして朔には理由が分からないのに困ったように笑うのは、涼介の癖なのかもしれない。もしかしたら内心何かを考えているのかもしれないが、朔には何を考えているのか検討も付かなかった。
――なんかムカつく。
涼介のその笑い方が、朔は好きではなかった。何故嫌なのかは朔にもはっきりとは分からなかったが、どうにも居心地が悪いのだ。
そんなことを考えながら朔がぼうっとしていると、いつもの表情に戻った涼介が「どうした?」と首を傾げる。
「……別に」
「そ? じゃあ、どうやって華さんと仲直りするか考えようか」
「……普通でいいだろ」
「馬鹿だなぁ、朔。あれだけ怒らせたんだから、たまには誠意を見せないと」
「セイイ?」
「そう、誠意。俺としてはプレゼントとかいいんじゃないかと思うんだけど」
「……は?」
なんでそんなことを、と言い返そうとした朔に、「そろそろ女心も学んだ方がいいよ」と涼介は悪戯っぽく笑った。
§ § §
そういえばあれのせいで華にバングルをプレゼントすることになったのだと思い出して、朔は顔を顰めた。
その後十年間、華にはプレゼントのセンスがないと周りに言いふらされ、振礼島が壊れた日にはバングルのせいで華の死を直視せざるを得なかった。
――……いや、あれがあったから母ちゃんだけ見つけられたのか。
炭の塊となった華の姿。背格好で華かもしれないと思っても、見つかった場所が自宅であっても、自分はどうにか華ではないと言い訳を探していただろう。それを考えれば、早い段階で華の死を消化できたのは良かったのかもしれない。
そんなことを思い返して、存外古い記憶を辿ってしまったことに舌打ちをしたくなった。
涼介がどんな人間だったか考えようとしただけなのに、どうしてこんな過去のことを思い出す必要があったのか。華へのプレゼント以外、特別なことなど何もない記憶。
何もこれでなくても、と朔は溜息を吐いた。
――リョウは……昔からあんなだな……。
改めて記憶を探っても、涼介と身近な人間の死について話したことは思い出せない。
だから比較できるのはそれ以外だけだったが、記憶の中の涼介と今の涼介に大きな差があるとは思えなかった。
本物の弟のように自分を想い、接してくれた。そんな涼介であれば、レオニードから自分を隠すための行動を取ったとしても何らおかしくはない。
何せ涼介は、ミハイルの最期を知っているのだ。レオニードに盗みを強要され続け、最終的には正気を失ってしまった姿も見ているはず。それを考えれば、自分が涼介の立場でも同じようなことをする可能性は十分にある。
――何もおかしくないか……。
やはり不貞腐れているだけなのかもしれない。しかし、もしそうだとすればあまりにも子供っぽい自分の感情を受け入れられなくて、朔は無理矢理思考を切り替えようと小さく首を振った。
そして自分が今考えるべきことはなんだと自問する。蒼にエレナの死を伝えなくてはならないし、その後は彼女を逃がさなくてはならない。
正直、今の蒼相手にエレナのことは言いづらい。ならば考えなければならないのは、彼女を無事に逃がす方法だ。
――あと四人……。
敵の数を数え、奥歯を噛み締める。
レオニード、涼介、ミハイル、ゲオルギー、そしてルカという人物。そこに朔とエレナを加えて、生き残りで名前が分かっているのは十人中七人だ。残りの三人もレオニードの仲間だと仮定して、既に命を落とした者と涼介を除けば、レオニードの仲間はルカとその三人で、残り四人ということになる。
――レオニードまで入れて五人……アイツを逃がし切れるか……?
蒼を逃した後、五人全員の動向に注意を払わなければならない。いくらか涼介に手伝ってもらったとしても、こちらの方が明らかに手が足りていないのだ。自分の目的のことも思うと、いつまでも蒼のために動いているわけにもいかない。
――先に数を減らすべきか……。
そこまで考えて、朔ははっとした。
――何当たり前みたいに人を殺そうとしてるんだ。
いくら彼らが自分の仇とは言え、相手は人間。エレナの死を口にした涼介の様子があまりにも自然だったせいで、自分も流されてしまったのだろうか。
朔は大きく深呼吸をすると、おかしくなりつつある自分の感覚を追い払った。
――本当に殺したいのは、レオニード一人だろう。
自分から全てを奪った男。直接面識のないレオニードが自分を狙ってやったはずはないと分かりきっていたが、それでも結果的に彼は朔の持つ全てを奪った。
やり返して死んだ人間が戻ってくるわけではない。それでも何かしなければ、何か目的を持たなければ、自分は今ここに立っていることすらできなかったはずだ──朔がぐっと眉間に力を込めた時、視界の端に蒼の動く姿が映った。




