04. 唐突な危機
アネクドートを後にした蒼は、ある廃工場を目指して歩いていた。
店長からは結局あれ以上何も聞けなかったので、彼が話した数少ない情報から振礼島の生き残りを探すことにしたのだ。
店長が口にした手がかりは、教会と取引現場。
教会に関しては蒼が調べたところによるとロシア正教会の可能性が高そうで、しかも都内にそれほど数はないらしい。効率を考えれば教会から当たるべきなのだろうが、今まで教会とは無縁で生きてきた蒼にとってはたとえ取材だとしても、いや、取材だからこそ、そこは気軽に行ける場所ではなかった。
彼女にとって教会のイメージとは、多くの日本国民とは違って真剣に信仰している人のための場所であり、取材という俗物的な動機で行っていい場所ではなかったのだ。
だから蒼は取引現場の方から攻めることにした。だが、その取引現場がどこなのかは見当もつかない。知り合いの記者や加納に尋ねてみたものの、何の取引だと聞かれて答えられず、呆れた彼らに電話を切られてしまったのだ。
仕方なく蒼はニュース記事を漁って、既に摘発済みの現場から当たることにした。摘発済みの場所に怪しい商売をしている人間が戻ってくるとは思えないが、何かしらの手がかりは残っているかもしれないと考えたのだ。
そうして見つけたのが、新宿からほど近い駅の住宅街にある廃工場。電車から降り、スマートフォンの地図を頼りに目的地へと向かう。
数ある犯罪現場からここを選んだのは単純な理由で、新宿から近いこと、それから今も使えそうなこと、この二つだった。
新宿近くを選んだのは、単に近いところから探したかったからだ。ロシア関連なら大使館のある街に行くべきなのかもしれないが、今日は折角新宿にいるため移動の手間を省きたかったのだ。
今も使えそうな場所を選んだのには蒼なりに理由があり、仮に島の生き残りが身を隠す生活をしていた場合、覚えのある人気のない場所はやはり選びたくなるだろうと考えたからだった。
この二つの条件を満たしたのが、今蒼の目の前で異様な存在感を放っている廃工場である。
夕方に差し掛かり赤味を帯びた太陽の光に照らされ、物寂しさと薄気味悪さが増長されていた。誰も手入れしていないのか、蒼の背丈くらいまでの雑草が生い茂り、その向こうに見える壁は汚れ、ガラス窓は割れている。さらにトタンの屋根は錆びてところどころ剥がれ落ちており、自分が身を隠すならここは嫌だと蒼は顔を歪めた。
建物への侵入を防ぐ柵のような扉は錆びた太い鎖で厳重に巻かれていて、乗り越えようにも足をかけられそうな場所が見つからない。勢いをつけたとしても柵の高さは蒼の身長を優に超えているので、どう頑張ろうともここから入ることはできそうになかった。
蒼は道案内の役目を終えたスマートフォンを上着のポケットにしまい、どこか入れるところはないかと廃工場の周りを伝い歩いた。
するとちょうど正面とは反対側にあたる場所に、柵が歪み、なんとか自分が通れそうな部分を見つけた。
――汚れそう……。
高いジャケットに汚れが付くのは御免とばかりに上着を脱ぐと、北海道帰りのままの大きなバッグにしまい込んだ。そのバッグを先に内側に通し、次に自分の身体を捻り狭い隙間にねじり込む。
無事侵入に成功すると、蒼は自分の胸元を一瞥して苦々しい表情を浮かべた。
――小さくてよかったと、思ってしまった……。
屈辱に顔を歪ませた蒼だったが、パンッと自分の両頬を叩くと荷物を持って廃工場の中を目指した。
雑草をかき分け、日当たりが悪いせいでまだ乾ききっていない土の上をゆっくりと進む。この地面を見て、蒼は網走取材のために歩きやすいエンジニアブーツを履いてきた自分を褒めたい気持ちでいっぱいになった。いつものようにヒールのある靴で来ていたら、悲惨なことになっていたに違いない。
割れた窓のサッシを動かしてみたところ、意外なことに鍵がかかっていなかった。
蒼はサッシに手をかけ、そのまま身体を持ち上げ中に滑り込ませた。パキパキッと音を立てて、着地した先にあった窓ガラスの破片が砕ける。工場内に大きく反響したその音を聞きながら、蒼はアメリカのドラマのようだと一人悦に入っていた。
「やっぱりちょっと臭うな……」
工場内は割れた窓や穴の空いた屋根のおかげか、蒼が思っていたよりも空気がこもっていなかった。それでも一部風雨に晒されたものもあるのか、黴臭さが彼女の鼻をつく。一歩踏み出した足元は埃だらけで、長いこと誰も入っていないのだということが窺えた。
工場内を歩き回ると、シートがかけられた大きな物体がいくつか鎮座しているのが分かった。
蒼は取引内容の手がかりかと思い嬉々としてそのうちの一つを引き剥がしたが、中から出てきたのは古い大きな機械のみ。大手重工業メーカーの名前が刻まれたそれは、かつてこの工場で使われていた物であろう。機械に疎い蒼には何に使うものなのか全く見当も付かなかったが、残りの物体も同じようなものだろうということは、シート越しの形でも簡単に想像がついた。
一通り見終わった蒼は辺りを見渡すと、二階へと続く階段を探した。何階建てかは知らなかったが、外から見た高さと今自分がいる場所の天井の高さが一致していなかったのだ。
「お、あった」
適当に開けた何個目かのドアの向こうに、上階へと続く階段が蒼を出迎えた。少し古ぼけていて落ちないか不安はあったが、蒼は自分を鼓舞すると嫌な音を立てる階段を一段一段慎重に上る。そしてなんとか無事に二階に上がると、蒼は目の前の光景に落胆した。
「……何もない」
二階は一階に比べて明らかに物が少なく、一階と同じようにいくつか存在するシートをかぶった山は、悲しいことに中身が少し見えていた。
期待感すら湧かない状況に蒼はいい加減邪魔に感じていた大きなバッグを階段脇に置いて、やる気なさげに一応と言った様子で二階を確認していく。一歩踏み出すたびにミシミシと鳴る床が、蒼のやるせなさを増長するようだった。
面倒臭そうな手つきで何個か軽くめくって見てみると、シートで覆われているのは一階と違って資材が多いということが分かった。二階に置くのは効率が悪いのではないかと思いながら、蒼は資材にまぎれていたバールを手に取り適当に振り回す。
「何か分かんないけど、ここにいる間の武器にはなるかな」
こういう場所は、浮浪者や不良少年にとっては格好の溜まり場だろう。
一般人ならいきなり襲ってくることはないだろうが、犯罪者であった場合は話が別だ。そう簡単に出会うものでもないだろうが、今回はわざわざ犯罪行為に関係のある場所を選んで来ている以上、警戒するに越したことはない。
この金属の棒が何のためのものかは蒼には分からなかったが、何も持っていないよりもマシだろうと暫く行動を共にすることを決めた。
L字に曲がっている一般的なバールとは違い、真っ直ぐ伸びるそれはカナテコという道具だった。一メートルはあろうかというそのバールを手に持ちながら、蒼はのんびりと散策を続けようと再び歩き出す。
その時だった。
「――えっ……!?」
脆くなっていた床が抜け、蒼は驚く間もなく宙に投げ出された。落ちる瞬間に咄嗟に床を掴んだものの、それさえ一瞬にして壊れて、背中から一階の床に叩きつけられる。
「ぐっ……カハッ……」
痛みのあまりそこから動くこともできない。しかし壊れたとはいえ床を掴んだことで衝撃が減ったのだろう、蒼の意識ははっきりとしていた。
――嫌な音してたじゃん、なんで気を付けないんだよ私……。
自身の不注意が招いたことだと気付き、仰向けのまま忌々しげに抜けた床――今となっては天井となっている――を見上げた。動けるようになるまで時間がかかりそうだと考えていると、天井を見上げたままだった蒼の視界に嫌なものが映る。
「ちょっ、待っ……!」
ズブッ……――腹から伝わってきた嫌な感覚に、蒼は状況をすぐに把握することができなかった。頭は真っ白なはずなのに、身体は無意識のうちにそれを確認しようとする。
「――い、いやあああああッ!」
顔は真上を向いたまま、視線だけ腹部に向いていた。そうして目に入ったのは、自身の腹から生えた見覚えのある棒。それを見て、蒼は否が応でも状況を把握せざるを得なかった。
武器にしようとしていたバールが、床を転がり天井から落ちてきたのだ。確かに一緒に落ちなかった、と叫びながらも蒼は頭の片隅で納得していた。しかし、まさかそれが腹に刺さるとは誰が予想しようか。
「ハァッ……ハァッ……」
震えるような浅い呼吸を繰り返し、蒼は必死に痛みに耐える努力をした。頭を働かせなければ助からない――痛みと恐怖に支配されそうになりつつも、ほんの一欠片だけ残った冷静さでこの状況から助かるための最善策を取っていた。
「きゅ、救急、車……」
ほんの少しでも動けば腹を引き裂かれるような痛みが走る状況で、それでも助かるためにはこれしかないと、蒼はスマートフォンを探すため手を動かした。
――違う、あっちだ……。
ざあっと、頭から血の気が引いていく。
上着のポケットに入れたスマートフォン、だが肝心の上着はここにない。それに気付いた蒼は絶望の眼差しで階上を見つめた。二階に置いてきぼりにされたバッグの中に、助けを求める道具は入っているのだ。
――どうしよう。誰か助けに来てくれる? こんな廃工場に? 誰が?
声を上げたところで誰も気が付かないだろう。近隣の住民が物音を聞きつけたとしても、若者が隠れて悪さをしているだけだと思われてしまう可能性が高い。
――このままじゃ死ぬ。
急に襲ってきた死への恐怖に蒼の目には涙が滲んだ。彼女の身体がガタガタと震えるのは失血のせいだけではないだろう。いっそのこと気絶できたら――そう思う蒼の意識は、皮肉なことに身体の震えに合わせて襲う痛みのせいで、現実世界に留められていた。
だからこそ止められない。最悪の事態を考えてしまうことを。
いくら落ち着きたくとも、恐怖を振り払うことができない。
誰も来ないこの場所で、誰にも気付かれることなく、一人ひっそりと死んでいく。予想だにしてなかった自分の死に様を鮮明に想像して、蒼の身体はどんどん恐怖に侵されていく。
「なんか器用なことしてんな」
突然聞こえてきた声に、蒼は己の耳を疑った。こんなところに人がいるはずがないという思いと、助かったという安堵がせめぎ合う。蒼の中で安堵が勝ろうとしたとき、彼女の中に一つの疑念が浮かんだ。
こんなところで、こんな状況の自分を見て、慌てた素振りも見せない人間は、果たして助けを求めていい相手なのだろうか。
一度浮かんだ疑念は一気に蒼の身体を蝕み、現れた相手への不信感に頭を満たされる。
――もしこの人が振礼島の生き残りだったら? 探していたけど、“関わるな”と言われている相手に命を預けてもいいの?
それでも今この状況で頼れる人間は他にいない。蒼は少しでも不信感を払拭するため、相手の姿をその目に捉えようと痛みを我慢し、首を動かした。
「なんだ、意識あったのか」
蒼の視界に映ったその人物は、窓から入る光が逆光となり、日本人かどうかさえ判断することが出来ない。辛うじて蒼に分かるのは、相手が長身の男性ということだけだった。
「だ、誰……?」
「余裕だな」
「ちが……なまえ……あな、たの……名前……」
蒼が唯一把握している島の生き残りの名前。目の前の男が別の名前を名乗れば助けを求めよう。それがいつもよりも働いていない頭で、蒼が必死に考えた結果だった。
「朔だよ。庵朔。それがどうした?」
聞いたことのない名前に、蒼の胸に安堵が広がる。
これで助かる――そう思って、朔と名乗った男に助けを求めようと口を開いた。
「助けて……」
「めんどくせ」
「……え?」
思いもよらなかった返事に、蒼は言葉を失った。何も考えられず、唖然としたまま朔の方を見つめる。
しかし朔はそんな蒼に言葉をかけることもなく、無言のまま彼女に近付くと、腹に刺さったバールに手をかけた。