39. 伝えられない嘘
ソファの背もたれから覗く蒼の頭。それは先程から微動だにすることなく、ずっとその場でじっとしている。
部屋の状況から考えると、本来であれば目の前にあるテレビを観ているのだろう。しかし、笑い声の交じる音声と蒼の放つ雰囲気は全くの別物だった。
頭の先しか見えていないのにも拘わらず、少し離れたダイニングテーブルにいる朔の元にまで届く鬱々とした空気。帰り道に突如として底まで落ちた蒼の機嫌の理由も分からず、朔はただ煙草を吸いながらタイミングを見計らうことしかできなかった。
――いつまでもあのこと話せねぇじゃねぇか……。
以前の朔であれば、知らせる必要はないと判断していたかもしれない。
しかし今の彼は少なからず、蒼が振礼島に関わることを認めてしまっている。ただし、彼女の父親が関わっていたかどうか分かるまでの間だ。というよりそうしなければ、どれだけ朔や涼介が努力したところで蒼は引かないだろう。
朔に続いて涼介も、蒼の父親が振礼島に関わっていたかどうかを知らなかった。朔としてはそこで終わりたかったのだが、困ったことに蒼にはまだ友好的な振礼島出身者に心当たりがあるのだ。
朔は彼女がその人物に会おうとするのは時間の問題だと分かっていたが、涼介から聞いた話は十中八九蒼の心を乱すもので、普段ならともかく今の暗い雰囲気を放つ彼女には到底伝えられるものではなかった。
――先に言っときゃよかった……。
しかし上機嫌だった蒼が急に不機嫌になるなどと、誰が予測できただろう。しかも何かしらきっかけがあったなら別だが、朔の知る限りそれらしい出来事はなかった。
強いて言えば蒼とテレビを観るのを拒んだことくらいだが、それくらいでへそを曲げるような人間でないことは朔も知っている。何より単なる不機嫌というよりは、何かしら思い悩んでいるように思えたのだ。
朔は頭が痛むような感覚を覚えながら、どうしたものかと涼介とのやり取りを思い返していた。
§ § §
飲食店で蒼がトイレに立った時、朔は隣に座る涼介にある相談を持ちかけていた。それは相談というより、決定事項だったかもしれない。
いつ、どうやって、蒼をレオニードから逃がすか。
朔が問いかければ、涼介は「うーん」と考える素振りを見せてから、「今から拉致る?」とふざけたように笑った。
「真面目に考えろ。つーか今の状況じゃ、たとえ無理矢理どっか連れて行っても自力で戻ってくるぞ、アイツ」
「そうなのか?」
「さっきのリョウへの質問、あれが解決しなきゃ梃子でも動かないだろ」
深い溜息と共に吐き出された朔の言葉に、涼介が首を傾げる。朔が念の為詳細をぼかしつつ、蒼が他の生き残りに会って同じ質問をしたがっていることを伝えると、涼介は困ったように「でも――」と口を開いた。
「他の生き残りって言ったって、俺の知る限りあとはレオニードの仲間しかいないぜ?」
「一人いるんだよ、エレナって女が」
蒼も会ったことがある――そう続けようとした朔だったが、涼介の「だからいないって」という発言に先を越され、その言葉を飲み込んだ。
「どういうことだ?」
「エレーナだろ? 美人で背が高い子。――死んだよ、レオニードが殺した」
そう言って涼介はなんでもないふうにグラスの水に口をつけると、「これで蒼ちゃん動いてくれる?」と朔に視線を向ける。
「……殺されたって、いつだ?」
「いつってほら、ゲオルギーが死んだろ? あの日だよ。だからレオニードの奴、空いてなくてさ。俺が代わりにゲオルギーの様子見に行ったんだよ」
「空いてないって?」
「後始末じゃねぇの? アイツが自分でやるのは珍しいけど、自分の女の妹だったし、思うところでもあったんじゃね? 俺はアイツから『エレーナを殺した』としか聞いてないからよく分かんねぇけど」
動揺しながらも朔が更に詳しく聞こうとした時、その視界の奥に蒼の姿が映った。
朔はぐっと気持ちを抑えると、涼介に「この話はアイツにするな」とだけ伝え、何食わぬ顔で戻ってきた蒼を出迎えたのだ。
§ § §
あのタイミングで言っていれば、今こんなに気まずい思いをすることはなかっただろう。そう思うとあの時の判断は間違いのようにも思えたが、泣き喚くなら自宅の方がいいはずだと朔は強引に自分を納得させた。
――流石にアイツも顔見知りが死んだら落ち着いてられねぇだろ……。
つい先日人を刺してしまったことも、蒼の中で消化できているのか朔には分からない。今の状態が無理矢理空元気を出しているだけなのだとしたら、これ以上刺激すれば立ち直れなくなってしまうかもしれない。
何せ蒼は普通の人間なのだ。自分のように通常は有り得ない経験をしたわけでもなく、身近に死を感じてきたわけでもない。
自分ですらエレナの死に少なからず動揺したと言うのに、蒼が聞いたらどう思うか――そこまで考えて、朔を再び違和感が襲った。
――……リョウは?
エレナの死について話す時、涼介はいつもと変わらなかった。
ゲオルギーのこともそうだ。煙草を見つけたのが涼介であればその遺体を目にしているはず。それなのに全く気にした素振りも見せず、まるでなんでもないことのように話題に出していた。
確かに半年以上レオニードと一緒にいたのかもしれないが、それだけでそこまで価値観は変わるだろうか。自分の知る涼介は、あんな人間だっただろうか。
――リョウは……どんな奴だった……?
今と違っただろうか。いや、違わないはずだ。
だが、だったら何故自分はこんなに涼介のことが気になるのだろう。何故何度拭っても、この違和感は消え去らないのだろう。
これまでのやりとりを思い返しても、昼間話した煙草の匂いの件以外、彼の言動に不自然な点は見当たらなかった。それなのに、どうしてもこの不快な感覚は朔の肌の下を纏わりついて離れない。
再会の仕方が悪かったのだろうか。確かに死んだと思い込んでいた人間がレオニードの仲間として現れれば簡単には信用できないだろう。
しかし、その件については解決しているはずだ。涼介は不本意ながらレオニードの側にいて、そして自分はその言葉を信じている。今抱いている違和感は、そうした自分自身すら否定するものだ。
――根に持ってんのか……?
涼介が生存を隠していたことを。生き残っていたにも拘わらず、自分を探さなかったことを。
――……ガキじゃあるめぇし。
子供の頃ならともかく、今はいい大人だ。現に涼介が自分を探さずとも、朔は自分から涼介を、生存者を探し回った。
そして誰も生き残った者がいないと諦めてからは、自分の意思でこの東京の地まで出向き、元凶を突き止めるべく動いていたのだ。
――……神経質になってるだけだろ。
無意識のうちに涼介が自分を探すことを求めていたのだとしたら、それは単なる甘えだ。異常な状況のせいで子供の頃の甘えが出てしまっただけだろう、と朔は大きく息を吐いた。




