38. 嘘の気配
雲一つない夕焼け空、蒼は随分と日が短くなったと感じながら、未だ半袖のTシャツ一枚の朔に目をやった。寒い地域の出身だとこれくらいの気温はまだ薄着で平気なのだろうかと首を傾げつつも、先程まで会っていた涼介は上着を着ていたと思い直す。
寒くないのか、単に面倒なだけか――どちらも十分あり得ると考えながら、蒼は「ふふっ」と思い出し笑いをした。
「アイツと何話してた?」
急に一人で笑い出した蒼を不審に思ったのだろう、朔が怪訝な表情で彼女に問いかける。
「別に何も話してませんよ」
「とぼけるな」
「えー? 朔さんが子供の頃、前髪カット失敗した話くらいですよ……ぷっ」
「余計なこと話してんじゃねぇよ」
上からギロリと睨みつける視線は、竦み上がるいつもとは違って蒼の笑いを増長させるものでしかない。
「でも全然想像できませんね、ちっさい朔さん」
「しなくていい」
「美少年だったとお聞きしました」
「知らねぇよ」
朔は眉間に皺を寄せると、居心地悪そうに目を逸らした。
しかし不機嫌なわけではなさそうな様子に、蒼はそっと微笑む。朔の故郷がもうないことを思うと、彼の子供の頃の話ができる涼介という存在は、やはりとても大切なものなのだろうと感じたのだ。
──全部失くしてしまったわけじゃないんだな。
かつて蒼の前でレオニードの関与に気が付いた時の朔は、それにより当時の出来事を思い出したのだろう、とても暗く孤独な雰囲気を纏っていた。そのことを思い出すと、今のこの状況は朔にとってとても良いものだと感じられる。
それは小一時間前までのことを思うと、より強く実感させられた。
§ § §
――なんなんだろう、この状況……。
飲食店で涼介と向かい合いながら、蒼は気付かれないよう苦笑いをした。
事の発端は涼介だ。つい先程まで朔に疑いの目を向けられていたのにも拘わらず、話が一段落した彼が発したのは「なんか腹減らない?」の一言だった。
どうやら涼介は、蒼と朔を食事に誘ったつもりだったらしい。
しかし朔は流石にそんな気分になれなかったのだろう、顔を顰めながら涼介がレオニードの仲間に尾行されている可能性について言及した。
蒼も朔の意見にはその心境ごと同意ができたため、涼介が引き下がるだろうと思いながら彼の方をちらりと窺い見た。
「じゃあ、何か買ってきてここで食う?」
ここというのは、廃工場のことだ。あっけらかんとした表情でそう提案する涼介は知らないが、蒼にとってそこはつい最近死にかけた場所だった。朔がいくらか片付けたようだが、薄暗がりの中でもよく見れば、僅かに自分の流した血液の染みが残っている。
「流石にここでピクニックは……」
蒼が理由をぼかしながら渋れば、「じゃ、やっぱ外に食べに行こうよ」とトレードマークのニカッとした笑顔で押し切られてしまった。
その時蒼が助けを求めようと仰ぎ見た朔の顔は、「馬鹿じゃねぇの?」という言葉が聞こえてきそうな程呆れ返っており、それを見た瞬間、蒼はこうなったらもうどうにもならないのだと悟った。
その証拠に、乗り気でなかったはずの朔もまた抵抗を止めた。
朔としては自分一人ならまだしも、蒼という押しに弱い人間もいるのに断りきれる程の材料を持っていなかったのがその理由だ。朔から見て蒼は我が強いように思えて、少し強く出られただけで見ず知らずの人間を自宅に住まわせてしまうような性格。
そんな人間が強く断れるはずがないということは考えるまでもなかった。
それを思うと、たとえ蒼が周りにレオニードの仲間がいるかもしれないと警戒していたとしても、涼介相手であればすぐに気を許してしまっていただろうと嘆息する。朔の知る涼介という男は、相手にそうと気付かせずに自分の意見を押し通すのが上手いのだ。
朔の内心を知ることもなく、蒼は気付けば涼介達と共にとある飲食店に入っていた。最初こそ戸惑いを隠せなかったものの、涼介の世間話に乗っているうちにすっかり気まずさは消え、目の前の料理も平らげてしまっていた。
終始そんな蒼を呆れたような目で見ていた朔は、食事が終わると煙草を吸うと言って店の外にある喫煙スペースへと向かった。
取り残された蒼が「涼介さんは煙草いいんですか?」と問いかければ、問いかけられた本人は「俺も行くと蒼ちゃんが一人になっちゃうでしょ」と笑った。
そういうわけで、蒼と涼介は今、テーブルを挟んで向かい合っているのだ。
既視感のある光景に、蒼の頭の中には昨日の涼介とのデートは全て彼の企みのうちだったという事実が浮かぶ。すると先程までの楽しい気持ちはみるみると萎んでいき、自分を騙していた相手と何をやっているのだろうと情けない気持ちになった。
「蒼ちゃん?」
「あ、すみません。ちょっと考え事を」
心配そうな涼介の表情に、蒼は慌てて気持ちを切り替えようと試みた。既に涼介のしていたことに関して、自分は二度と朔を裏切らなければいいと許しを与えているのだ。それを蒸し返すのも大人げないだろう、と必死に思考を巡らせ話題を探す。
できるだけ平和な話題を――そう思って見つけたのは、朔と涼介の関係性についての疑問だった。
「そういえば涼介さん達って、朔さんが子供の頃からの付き合いなんですよね? 幼馴染とかですか?」
「いや? 仕事の先輩みたいな感じかな」
「仕事の先輩……? 確か朔さんが十二歳くらいからって……その年齢から働いてるんですか? 義務教育は……?」
そう言いながら、振礼島はもしかしたらそういった制度までないのかもしれないという一抹の不安が蒼の中を過ぎった。
振礼島の子供たちが一般的な教育を受けているのであれば、北海道本土の学校に通う可能性もある。にも拘わらず、網走で取材を行っても振礼島の人間は滅多に見ないという話しか聞かなかった。それはつまり、学校制度自体が違ってもおかしくないということではないだろうか。
「中学までならあるよ。けど朔の奴、小学校の頃からろくに学校行ってなくて。華さん――朔のおふくろさんが、稼げなくてもいいから身になる勉強してきなさいって、アイツのこと俺の職場に放り込んだんだよ」
「あぁ、それで時々漢字読めないんですね……」
義務教育がないかもしれないという蒼の懸念は涼介の言葉により払拭されたが、問題は朔だ。
彼の活字に対する苦手意識はそこから来ているのかと納得したが、小学校からということは知らない言葉や読めない漢字が相当数あるのではないか――蒼が呆れと心配の入り混じった顔をすれば、その事実を告げた涼介は蒼の言葉に驚愕の表情を浮かべていた。
「げ、まだ読めない漢字あるの? 仕事で使う言葉は完璧なんだけどなぁ、周りが使わない単語は覚える機会なかったから……」
その言葉から、朔の学力が小学生止まりなわけではないと気付き、蒼はそっと胸を撫で下ろした。涼介の反応を見る限り、朔に勉強を教えたのは彼なのだろう。
まるで自分の責任と言わんばかりに項垂れる涼介を見ながら、この様子じゃかなり苦労をしたんだろうな、と蒼は苦笑した。
「でもこの話聞いてると、涼介さんって結構朔さんより年上っぽい感じしますね。私と同じくらいだと思ってたんですけど」
「朔とは六つ離れてるよ。だから俺は三十」
「全然見えないですね……。っていうか朔さんは二十四……? え、年下!?」
意外と涼介の年齢が自分よりも上だということにも驚かされたが、てっきり年上だと思っていた朔が、年下だったという事実に蒼は顔を歪めた。
――年下相手に私はこんなに気を遣って……? いや、そもそも朔さんの態度がでかすぎる……。
十代ならともかく二十代半ばにもなって、たかだか一つ二つ年齢が違うくらいで何を大袈裟な――そう思う大人な自分がいる一方で、蒼はやはり納得できないと眉間に力を込める。
そんな彼女の様子に涼介が「朔んちは年齢不詳だから」と付け足したが、蒼はそういう問題ではないと首を横に振ることしかできなかった。
「もう少し可愛げあればいいのに……。朔さんって子供の頃からあんなだったんですか?」
「殆ど変わらないかな、顔は女の子みたいに可愛かったけど。あとは切るの面倒臭いって髪がちょっと長いくらい……あ、それで一回俺が切ってやろうと思って前髪切ったら失敗しちゃってさ。あの時の朔凄く怒ってたなぁ」
「何ですかそれ、見たかった! 昨日ちょうど私の子供の頃の写真見せたら、その時の髪型馬鹿にしてきたんですよ!」
「そんな奇抜な髪型してたの?」
「奇抜って言っても、当時流行ってたアニメのキャラクターの髪型ですよ」
――周りに同じことしてる子はいなかったけど。
蒼はそう思いながらも、当時の自分のお気に入りの髪型を馬鹿にされたことが心外で口を尖らせる。
そんな彼女の様子に、涼介が考えるようにしながら両手の拳を自分の頭にくっつけた。
「こう、頭の上でお団子二つ作っちゃうみたいな?」
「そうです、それ! 別に変じゃないですよね!?」
「俺はいいと思うけどなー」
涼介の肯定の言葉に間違っていたのは朔なのだと蒼が認識を強くした時、二人のいるテーブルに朔が戻ってきた。蒼が思わずキッと彼を睨みつけると、睨まれた本人は怪訝な表情を浮かべる。
「なんだよ?」
「人の髪型馬鹿にしたくせに、自分だって子供の頃カット失敗してたんじゃないですか!」
「あ?」
訳が分からないといった様子の朔だったが、すぐに何か思い当たることがあったのか、にこにこと笑う涼介に疑いの目を向けた。
「……おいリョウ、お前何言った?」
「何もー?」
そう言って涼介は立ち上がると、「煙草交代ー」と笑いながら逃げるようにしてその場を後にした。
§ § §
昨日までは考えられなかった和気藹々とした出来事を思い返しながら、蒼は再び笑みを浮かべた。
――ああしてると、普通の人たちなんだよな……。
一緒に食事をして、冗談を言い合って――自分の知る普通の日常の中にいる朔達の姿に、蒼の胸には安堵が広がっていた。しかし同時に、何故彼らがこんな目に、と胸が締め付けられる想いもあった。
彼らは島で何も起こらなかったら、今も平和に暮らしていたのではないか。
今まで蒼は朔達のことを、どこか自分とは違う存在だと感じていた。しかし元からそうだったのではなく、そうならざるを得ない出来事があったのだ。それを実感して切ないような、苦しいような気持ちになった。
「朔さんは、レオニードから聖杯を奪ったらどうするんですか?」
それは今まで聞けていなかった質問。すべてが終わった後の朔がどうしたいのか、自分と何も変わらない彼の姿を見て急に気になったのだ。
「そりゃ元の身体に戻るだろ」
「……意外ですね」
「あ?」
「いや、朔さんのことだからてっきり島を元に戻すとかって言うのかなと」
「壊すのに千人死んでるんだぞ? そんなことしたら、今度は何人死ぬんだよ」
「あ、そっか」
考えていなかった状況に蒼は閉口する。しかし朔が生き延びるために百人が命を落としたはずだと思い出すと、恐る恐るといった様子で口を開いた。
「でも、それを言うなら元の身体に戻るのもそうですよね? もしまた百人死ななきゃいけないって話だったら、どうするんですか?」
「諦める」
「そんな簡単に……?」
「別にいいだろ、この身体と付き合うのは俺なんだしよ」
「でも……」
「俺は元々島をぶっ壊した奴に復讐できればそれでいいんだよ、元に戻るのはついでだ」
尚も食い下がろうとした蒼に、朔が背を向けた。
それでこの話は終いだと悟った蒼はやるせなさを感じながらも、その顔には自然と困ったような笑みが浮かんでいた。
――朔さんらしいな……。
ぶっきらぼうに思えて、実際は自分よりも他人を優先している。復讐というのはいただけないが、その奥にあるのは恐らく彼のそういった部分なのだろう。
そしてそう感じられることにもまた、蒼は安堵を覚えていた。
蒼は気持ちを切り替えるように大きく深呼吸をすると、「あ、とろとろ歩いてるからテレビ始まっちゃいます!」と全く関係のない話題を出して、朔の腕を取りずいずいと歩き出した。
「先行きゃいいだろ」
「たまには朔さんも一緒に観ましょうよ」
「なんでだよ」
「ほら、一緒に暮らしてるんだから親睦を深める的な? それとも他に観たい番組あるんですか? というか朔さん、何観るんです?」
「何も観ねぇよ」
何も観ないということはないだろう。振礼島でもテレビを見ることができるというのは、涼介に昔のアニメの話が通じたことから確実だ。それとも言えない程マニアックなものを観ていたのだろうか、と蒼は食い下がった。
「前に観ていた番組だけでも!」
「だから観ねぇって。つーか島じゃかなり南まで行かないと電波入らねぇんだよ」
そうか、と蒼が動きを止める。
確かに離島であれば、本土からの電波が届く範囲にも限界があるだろう。加えて振礼島は外界から閉ざされていた。朔の話を聞く限り生活に不便はなかったようだが、テレビのような生活必需品とも言えないものはそれほど整備されていなかったのかもしれない。
そこまで考えて、蒼の頭には以前観た、昭和の時代を舞台とした映画のワンシーンが浮かんだ。まだあまりテレビの普及していない時代、テレビのある家にみんなで集まって画面を取り囲む――自然と取り囲む子供たちの中に小さな朔の姿が思い浮かんで、蒼はにやっと口端を上げた。
「はっはーん、さては朔さん、子供の頃はみんなで南にあるお宅に集まって、テレビ鑑賞会とかしていた口ですね?」
名推理と言わんばかりにほくそ笑む蒼に、朔が呆れたような視線を向ける。
「してねぇよ。あそこらへんにある建物は下水処理場だがなんだか忘れたけど、そういうやつばっかなんだよ。子供どころか大人も仕事じゃなきゃ滅多に行かねぇよ」
そうなのか、と蒼は期待はずれの言葉に肩を落とした。しかしそうなると、不思議なこともある。
「テレビ、いつ観てたんですか……?」
「電波に乗ってんのは島出るまで観たことなかったな、家にもなかったし」
すっと、蒼の中から先程までの楽しい感情が消え失せた。
「それは……朔さんが少数派なんですよね?」
「大体どいつも一緒だろ」
ぴたりと蒼の足が止まったことで、後ろを歩いていた朔が彼女を追い越す。蒼が掴んでいた朔の腕は、するりと抜けて離れていった。
「どうした?」
数歩先で朔が振り返る。蒼は自分の血がザァっと頭から引いていく音を聞きながら、脳裏に浮かんだ疑問に心臓を鷲掴みにされるような感覚を覚えていた。
――ならどうして、あの人は分かったの……?
その疑問を、蒼は口にすることができなかった。
第九章『謀の上に思い出を』完




