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アザー・ハーフ  作者: 丹㑚仁戻
第九章 謀の上に思い出を
35/68

35. 作られた真実

「――何があったんですか?」


 蒼は自宅の定位置に座ってぼんやりとしている朔に問いかけた。

 その声に若干の諦めが含まれているのは、この質問を夕方から何度も繰り返しているからだ。



 § § §


 喫茶店に戻ってきた朔を見て、蒼は思わず腰を上げた。急に何も言わず席を立った人間が戻ってきたのだから当然とも言える反応だったが、その姿を見た時に蒼が感じたのは、彼が戻ってきたという安堵よりも不安だった。


 それは少し前から降り始めた雨に打たれて朔がびしょ濡れになっていたからか、それとも別の何かのせいなのか。

 自分と目の合わない朔の頭の天辺から足の爪先まで観察してみたが、蒼には原因が分からなかった。


「朔さん……?」

「帰るぞ」


 蒼の呼びかけにぶっきらぼうに返すと、すぐにまた店を出て行こうとする。蒼は慌てて会計を済ませて、朔の後を追った。


「何があったんですか?」


 何かあったのか、とは聞かなかった。朔の様子もそうだが、彼が最初に喫茶店を出て行くきっかけとなった会話から考えても、何かがあったことは明らかだったからだ。


 涼介がレオニードの仲間かもしれない――一人取り残された店内で、蒼はその状況をなんとか理解していた。

 朔の言う通りミハイルの死後に出会った人物は皆疑ってかかるべきで、その条件に当てはまる涼介もまた、レオニードの仲間である可能性を否定できないのだ。


 涼介が日本人だからレオニードの仲間であるはずがないという考えは甘いのだと、先程の朔の反応を見て思い知らされていた。日本人であるということだけで除外されるのであれば、朔があんなふうに席を立つことはなかっただろう。


 自分が涼介の名を口にした瞬間に朔が反応したということは、彼の知る振礼島出身者に同じ名前の人物がいるのだろうと蒼は考えていた。

 “リョウスケ”という名前は特別珍しいわけではないから、有り得ない話ではない。だから蒼は偶然同じ名前なだけだと思いたかったが、状況がそれを許さなかった。

 いくらよくある名前だとしても、条件が揃い過ぎている――それの意味するところは分かっていたが、やはりまだ信じられない気持ちの方が勝っていた。蒼の持つ、朔を含めた島の生き残り達のイメージと涼介が全くそぐわないのだ。


 ――とりあえず今は、涼介さんのことよりも朔さんだ。


 蒼は思考を中断すると、大きな背中越しに朔の感情を読み取ろうとした。

 涼介の名前が出てからの朔はどうにも様子がおかしい。慌てて喫茶店を出て行ったかと思えば、帰ってきた時にはどこか意気消沈とした様子すらあった。


 それは何があったのかという蒼の質問に対する反応も同じだった。

 朔は彼女を一瞥すると何か言いたげに口を開きかけたが、すぐに「なんでもない」と視線を逸らした。


 朔が答えを隠すつもりではないということは、その様子から蒼にも判断できた。

 だが、今はまだ言えない――何かしら朔の中で葛藤があるのだろうと察した蒼は、それ以上何も言わずに帰路についた。



 § § §


 帰宅してからも、蒼は何度か朔に同じ質問を投げかけた。今度は答えられるようになっているかもしれない――そう期待を込めながら。

 しかし、今となっては答えてくれると思ったのは勘違いだったのではないかとすら思い始めていた。


 帰宅してからずっとダイニングチェアにじっと腰を下ろしていた朔の髪は、もうすっかり乾いていた。びしょ濡れだったはずの洋服も今では濡れていたのかさえ分からない。

 定位置にいるのに煙草の匂いが一切漂ってこないのは、朔が帰宅してからまだ一度も煙草に火を付けていないということを示していた。


 ――これでダメなら、もう諦めよう……。


 蒼は小さく息を吐きながら、そっと朔の向かいの席に座った。


「お前は……」


 期待していなかった声に、蒼が目を見開く。声の主はゆっくりと蒼に視線を合わせると、徐に口を開いた。


「お前、島に何があったかどこまで理解してる?」


 ――何故今その話を?


 蒼は疑問に思ったが、やっと朔が何かを話してくれる気になったのだと思いその質問を飲み込んだ。


「全然ですよ。なんか聖杯使って儀式をしたら、島民の命を犠牲にして何かが起こった、ってことくらいです。誰かさんが誤魔化すから」

「悪かったな」


 決まり悪そうに朔は目を逸らす。そしてゆっくりと、()()()の出来事について話し出した。


「俺は、島にいた頃は倉庫番みたいな仕事してたんだよ。普通に貨物の見張りしたり、盗まれることも少なくねぇから、その場合は取り返しに行ったり――あの日も、いつもどおり仕事してた、はずだった」


 ぐっと、朔の眉間に力が入る。蒼はその様子を見ながら、この続きは決して明るい話ではないのだろうと無意識のうちに背筋を伸ばした。


「たまにあるんだよ、よっぽど大事な貨物の場合はその貨物専属の見張りを付けるみたいなこと。あの時は、俺ともう一人がある荷物に対してそれをやってた。笑っちまうのが、こんな片腕で抱えられるくらいの箱なのによ、倉庫丸ごと一つ空にしてそれだけ置いてあったんだよ」


 「ちょうどお前の鞄くらいだな」、そう言って朔が示したのは、蒼が普段仕事に使っているバッグだった。A4サイズの書類が難なく入る大きさで、バッグとしては大きい方だが、貨物とは呼べない大きさだ。確かにこれでは倉庫一つ空にするには小さすぎると蒼は納得した。

 倉庫というのは、聞いてみれば昨日自分達が訪れたものよりも大きいようだ。それを空にするということは、それだけその荷物の中身が重要だということだろう。


 蒼はもしかして、と思い至ると朔に視線を合わせた。


「その中身が聖杯だったんですか?」

「あぁ」


 聖杯がどのくらいの大きさかを蒼は知らなかったが、ワイングラスとそう変わらないものだろうと想像した。

 そうすると朔の言う箱すら、中身を考えると大きすぎる。ワイングラスであれば優に二つは入りそうだと思ったが、大事なものならそれだけ中も厳重に梱包されていたのかもしれない、とそれ以上深くは考えなかった。


「ま、それが聖杯だったって知ったのは、盗まれた後だったけどな」

「盗まれた……? 朔さん達が見張ってたんですよね?」

「あぁ……一回だけ、目を離しちまったんだよ」


 朔は当時の状況を蒼に話した――彼の仕事場である倉庫街には倉庫が五棟あり、自分の仕事をしている最中に別の倉庫で火事が起きて席を外してしまった、と。


「――その間に盗まれたんだよ」

「……ちょっと待ってください、もう一人いたんですよね? その人はどうしたんですか?」


 二人で見張っていたのであれば、朔一人が席を外したところでもう一人が無事なら荷物は盗まれないはずだ。荷物が複数あって人手が足りないならまだしも、見張るべきはたった一つの小さな箱だった。


 ――まさか……殺された? 


 蒼は最近の出来事を思い返し、聖杯を巡る話であればそんなことが起きてもおかしくないと考えていた。しかし、朔の口から発せられた答えは彼女の予想を裏切るものだった。


「一緒に見張ってた奴が、盗んだんだよ」

「え……」

「レオニードに唆されたらしい。火事もそいつらに仕組まれてた――俺がいない間に盗むためにな」


 忌々しげ、とは程遠い辛そうな表情の朔を見て、蒼はその一緒に見張っていた人間というのが、彼にとって余程信頼の置ける人物だったのではと思った。信頼していた人間に裏切られた、いや、朔ならば止められなかったことに心を痛めているのではないか。

 どことなくそんな気がして、蒼は胸をぎゅっと掴まれる想いがした。


「でも、火事まで仕組んでたってことは、事前にそれなりの準備をしていたってことですよね? 朔さんは何で盗まれたって分かったんですか? その人が自分で言ったとか……?」


 朔は蒼の質問に少し考える素振りを見せると、「……ツメが甘かったからな」とぼそりと呟いた。


「雪が積もってたから、外歩くと足の裏が濡れるんだよ。戻ってきた時にそいつの足元が濡れてて、一人の時に煙草吸いに行くような奴でもないから少し変な感じがした」

「それだけで……?」

「後は……そいつを試そうとして荷物の前で煙草吸ったんだよ。そいつなら『大事な荷物の側で吸うな』って絶対言うと思ったから。でも何も言わなかった」

「だから、その荷物はもう大事じゃない――そう判断したってことですか?」

「そうなるな」


 蒼は朔の話を聞きながら、少し違和感を感じていた。朔が信頼している相手ということは、お互いのことをよく知っているはずだと考えられたからだ。

 朔が濡れた足元という細かいことに気が付いたのは、短い付き合いの蒼にとっても意外でも何でもなかった。実際に朔はミハイルの殺され方からレオニードという人物に辿り着いたし、蒼が彼らに狙われている可能性にまで気を回していた。朔が意識してやっているかは分からないが、どちらにせよそれらは彼が小さな違和感や気配によく気が付くということを表している。


 それなのに、当時朔が一緒にいた相手は不自然な点を残していた。


 ――そんなこと、ある……?


 蒼にはその違和感を拭い去ることができなかった。


「その人と朔さんって、結構付き合い長いです?」

「あー……俺が十二、三くらいからの付き合いだから、十年以上だな」

「じゃあ、その人ってちょっとおっちょこちょいだったり……?」

「なんだよ、さっきから。そういう奴じゃねぇよ」

「いや、なんか変だなって……」

「何が?」

「何がと言われると分かんないんですが……うーん、話進まないので一旦後でいいです」


 煮え切らない蒼の様子に怪訝な表情を浮かべた朔だったが、まだ本題に全く辿り着いていないことを思い出し、言われたとおり話の続きをすることにした。

 ここまではすべて、蒼に涼介のことを伝えるために話しているのだ。


「どこまで話したんだったか……あぁ、盗んだ後だな。俺が戻ってくる前に聖杯はレオニード達に渡してあったから、俺は取り戻すために外に出たんだ」


 そう言うと、朔は再び眉間に皺を寄せた。蒼も盗まれた聖杯で儀式をするためにエレナの姉が殺されたということは理解していたため、そっと目を伏せて言葉を待った。


「外に出て、探す宛もないから適当に走り回って……。いきなり嫌な気配がしたと思ったら、島が壊れた」

「壊れた……?」

「嵐と地震。全部収まった後には、そこらじゅう地割れだらけで建物もみんな崩れてたな」

「そんな……」


 想像していなかった状況に蒼は言葉を失った。島を壊すという願いがあったことは知っていたが、そんな形で影響を受けていたとは思ってもみなかったのだ。


「エレナの話じゃ島が壊れたのはレオニードの願いらしいな。俺やアイツはその代償として死にかけてて、なんとか生き残った結果がこの身体だった。他の奴らは……皆死んだ。島に残ってたのは、炭になった人間だけだった。……ミハイルみたいにな」


 やっと話が繋がった――そう思う反面、蒼の心境は暗かった。ずっと知りたかった振礼島の出来事が分かったはずなのに、それを語る朔の様子があまりにも辛そうだったからだ。

 全く知らない人間ならまだしも、朔という人物について知ってしまっている蒼にとっては他人事には思えない。蒼は気付かないうちに眉間に皺を寄せていた。


「……朔さんは、自分を責めているんですか? 自分が目を離さなきゃ、聖杯は盗まれなかった。そうしたら、レオニードが儀式をして人が死ぬことはなかったって」


 どことなく、そんな気がした。自分には全く責任がないと思っていれば、儀式の結果について話す時はともかく、盗まれた時の状況まで辛そうに話すはずがないのだ。


「……それもあるけど、それよりも……もう一人の奴にそんなことをさせたっていう方が正直思うところはある」

「朔さん、その人のこと大事だったんですね」


 やっぱりそうか、とどこかほっとするような気持ちで蒼は頷いた。蒼の知る朔という人物は、そういう人間なのだ。


「正直今はどう接していいか分からないけどな」


 意外な言葉に蒼の動きが止まる。


「もしかして、生きてるんですか……?」

「死んでると思ってた……昨日まではな」

「え?」


 昨日まで――その言葉に、蒼の背筋につうっと冷たいものが流れた。話の流れで死んでしまったものと勘違いしていた人物が実は生きていた――それだけでも驚きだが、島で起きたことを考えればあり得ないことではない。ここまではいいのだ。

 しかし、“昨日まで”。それの意味するところ、これから続くであろう朔の言葉を察して、蒼は自分の顔が強ばるのを感じていた。


「そいつの名前はリョウ、本名は田湯涼介。ここまで言えば分かるだろ?」

「涼介、って……」


 鈍い衝撃が蒼の頭を襲う。まるで全身が心臓にでもなったかのように、身体中からその鼓動が響いているようだった。


「さっき会って話してきた。アイツの話じゃ、本意じゃないがレオニードと行動しているらしい。お前のことは奴にバレないように誤魔化してるつもりなんだとよ」


 朔の言葉がうまく頭に入ってこない。


 ――涼介さんが、レオニードと手を組んで聖杯を盗んだ……? 今もレオニードと一緒にいる……?


「えっ、と……すみません、よく分かんないんですけど……つまり……涼介さんは、私が振礼島のこと調べてるって知って、近付いてきたってこと、ですか……?」


 混乱しているはずなのに、その考えはあまりにも自然に浮かんだ。

 理由は蒼にも分かっていた。無意識のうちに考えるのを避けていただけで、本当はもうとっくに気付いていたのだ。

 自分の知る生き残り達のイメージと涼介がそぐわない――それはこの事実に目を向けないための言い訳で、朔が涼介の名前を聞いた時の反応を見た時点で悟っていたのだろう。


 頭のどこかでは、涼介との出会いができすぎていると気が付いていた。職場の近くで出会った直後に、渋谷で再会する――そんな偶然、そうそうあるはずがない。


 乾いた笑いが蒼の口から零れる。それを見た朔は少し眉根を寄せて蒼の問いに答えた。


「……正確には、偶然ミハイルの死に際に居合わせたお前を調べることになったっつってた。元々レオニードから逃がそうとは思ってたってよ。でも、俺との繋がりが分かって、どうしようか悩んでたらしい」


 ――そういうことか……。


 どこか言いづらそうな朔の言葉を聞いて、蒼の中で合点がいった。

 ただ逃がすだけであれば、わざわざ時間をかけて距離を縮める必要はない。それでも涼介が自分に必要以上に近付こうとしたのは、彼にとって別の理由があったからだ。


「それは私が……朔さんの知り合いだから、ですよね?」


 蒼は涼介が自分と会うたびに朔のことを聞いてきていたことを思い出していた。朔という名前を出さなくとも、自分の状況を知っていれば朔について話していると判断するのは容易だろう。恐らく涼介は、蒼を通して朔の近況を気にしていたのだ。


 そうなると、元々逃がすつもりだったという言葉も怪しい。朔は本当にそう聞いたのだろうが、涼介が何も取り繕わずに全てを正直に話したとは限らないのだ。


 ――何せ彼は今まで私を騙していたんだから……。


 無意識のうちに俯いたのは、騙されていた悲しみのせいか、涼介を疑う自分の意地悪さのせいか――分からないことが、余計に蒼の気持ちを暗くさせた。


「なんか……馬鹿みたいですね、私。一人で勝手に涼介さんのこと、一緒にいると凄く落ち着くなって、普通の生活を感じられるなって、思ってたのに……全部、嘘だったなんて……」

「……リョウがお前を逃したいと思ってるのは本当だろ」

「でもそれは! 私が朔さんの知り合いだからで、涼介さんはきっと朔さんのためになることをしたくて、私自身のことは、多分……どうでもいいんだと、思います」

「……そういう奴じゃねぇよ」


 困ったように否定した朔に、蒼は苦笑を浮かべた。

 彼が自分のことを気遣って言った言葉だとは分かったが、それでも一度裏切った人間のことを肯定できるということは、それだけ彼らの信頼関係は強いのだろうと感じたのだ。


 ――分かる気がするのも、なんだかな……。


 涼介のことを信頼できる人物だと思ってしまっている。蒼は自分のそんな心情に戸惑いを覚えていた。

 一度裏切られた朔が涼介を今も信じているように、蒼もまた彼の自分に対する振る舞いが打算によるものだったと分かっても責める気になれない。涼介のことを疑おうとする自分に嫌気を感じるのはそのせいだろう。


「多分、分かってるんです。涼介さんの判断は正解だったって……。さすがに私だって、いきなり初対面の人にレオニードから逃がしたいだなんて言われても信用できません。でも、涼介さんが言うなら、多少悩んでも言う通りにするんじゃないかって気はするんです。その……こんな話聞いた後でも……」


 実のところ、蒼は何故朔がかつて涼介がしたことについて話す気になったのか、分かっていなかった。島で起きたことを話さなくても、彼がレオニード側の人間だったということだけ言えば十分なはずだ。むしろなるべく涼介の信用を落とさないようにするにはその方がいい。


 今はどう接していいか分からない――自分も同じ気持ちになってしまったと思いながら、蒼は朔に力なく笑いかけた。東京に来てから涼介がしたことを考えると、彼の行動は正しい。だが、気持ちが追いつかない。


 ――もしかして、朔さんも……? だから話したのかな……。


 なんとも言えないような表情を浮かべる朔を見て、蒼は再び苦笑を零した。

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