31. 交錯する思惑
その時、朔には何が起きたのか分からなかった。
自分が気を逸らしてしまったせいでゲオルギーが逃げ出すという失態。慌てて彼を再び捕らえようとした時には既に遅く、近くに居た蒼の身が危険に晒されていた。
咄嗟に口をついて出た彼女の名前は、広い倉庫内に虚しく木霊して終わった。
間に合わない――そう思った時。
時が、止まった。
しかしそれは間違いだったとすぐに気付いた。止まっていたのは時ではなく、蒼を襲った男の方だったのだ。
てっきり彼女に危害を加えられると考えていた朔は目の前の状況に戸惑い、すぐに動くことができなかった。
「う、嘘……なんで……」
蚊の鳴くような小ささで、蒼の呟く声が聞こえる。朔からはゲオルギーが壁となり、彼女の表情を窺うことはできない。
――一体、何が……?
状況を把握できない朔が動き出そうとした時、壁が崩れた。
呻き声を上げながらゲオルギーが膝をつく。そうして現れた蒼は両腕を身体の前に突き出したまま、呆然とその場に立ち尽くしていた。
そんな蒼の姿を見ても、朔には何が起きたのか分からなかった。彼女が無傷なことに胸を撫で下ろしたが、ならば何故蒼は真っ青な顔をしたまま動かないのか。
その時、蒼を見つめる朔の視界に黒い煙のようなものが映り込んだ。
はっとして視線を移せば、それは崩れ落ちたゲオルギーの身体から発せられているのだと分かった。同時に、朔の脳内には事の顛末が一気に描かれ始める。
――アイツ、ナイフどこにやった……?
力なく身体の前に出された蒼の両手には、先程まで持っていたはずのものがなかった。
そのことに気付いた瞬間、朔の脚は地面を蹴った。
急いでゲオルギーの元に近寄り、死角となって見えていなかった彼の腹部を確認する。案の定そこに刺さったナイフに顔を顰めると、そのままゲオルギーの顔に目をやった。
まだ聞きたいことがある――そう思って話せる状態であることを期待したが、刺さった場所が悪かったのかすでにその目の光は失われつつあり、もはや虫の息だということは明らかだった。
とてもではないが話せる状態だとは思えない。朔は小さく舌打ちすると、蒼に視線を移した。
――まずいな……。
何がまずいのか、具体的には言えない。けれどこのままではいけないという予感が朔の頭の中に警鐘を鳴らす。
完全に動きを止めてしまっている蒼の様子は少し前に命が危険に晒された時よりも異常で、それが人を刺し殺したという現実のせいだとは考えずとも分かった。
気付いた時には、朔はナイフを掴んでいた。包帯が取れていたせいで焼け付くような痛みが走ったが、それを無視して「おい!」と蒼に呼びかける。
「あ……朔、さん……?」
「ぼけっとしてねぇでよく見ろ!」
「え……?」
「目ぇ逸らすなよ」
そう言うと同時に、朔はゲオルギーの腹に刺さったナイフを勢いよく引き抜いた。顕になった傷口からどっと血が溢れ出す。
「ひっ」と小さな悲鳴が蒼から上がったが、朔は構うことなく引き抜いたナイフを振りかぶった。
トスッ……――意外にも大きな音を立てることなく、それは突き立てられた。
「ちゃんと見とけ――」
静かに朔が呟く。
「――コイツは、俺が殺した」
ゲオルギーの首に刺さったナイフから焼け爛れた手を離しながら、蒼の方をじっと見据える。
震えながらも何か言おうと蒼は小刻みに口を動かしていたが、その口から発せられる声が言葉になることはなかった。
「……だから泣くな」
そう言って朔が見つめる蒼の目からは涙が零れていた。それがどういった感情から来ているのかは、蒼自身にも分からない。
腰が抜けたようにその場に崩れ落ちた彼女を朔はそっと受け止めた。
「元々生き残りなら俺が殺すつもりだったって知ってるだろ? それに、あれが銀だと気付かずに刺さらねぇと高を括って突っ込んだのは奴だ。お前のせいじゃない」
「で、でも……」
「うるっせぇな、ぐだぐだ言うな。第一お前にあれ持たせたのは俺なんだよ。だから気にすんな」
言い終わるとともに、朔はゲオルギーの方を見ようとする蒼の頭を自分の胸に押し付けた。今はまだ見せるべきではない――ならばいつなら見せても良いのかと疑問が浮かんだが、その答えは分からなかった。
数秒の間。蒼が文句も言わず大人しくしていることが分かると、朔はそっとゲオルギーの方に目をやった。
黒い煙のようなものを発しながら、仰向けに倒れた身体がどんどん焼け焦げていく。いつかの時のように炎は上がらなかったが、無人となった振礼島で絶望の中いくつも見た物体に近付いていく様子は、朔にとって目を逸らしたくなるものだった。
しかし、朔はそうしなかった。思わず目を伏せそうになる己を律し、睨むようにして自分が殺した相手の最期を見届ける。
やがてゲオルギーだったものは完全に真っ黒な炭のような状態になり、バラバラと崩れ去った。
カラン……――支えを失ったナイフが地面に落ちる。
もうそこには彼が着ていた衣服と、灰のような粉しか残されていなかった。
――俺もああなるのか……。
改めて間近で見た自身の末路に、朔の左の口角が自嘲するように上がった。だがすぐにそれを戻すと、小さく息を吐いて気持ちを切り替える。
そして蒼の背中に左腕を回し、後ろから掴むようにして彼女の腕の怪我の治療を始めた。
「うぇっ……!?」
「アホな声出すなよ」
「だってこれ、気持ち悪い……」
「我慢しろ」
背筋におぞましい感覚を覚えながら、朔は少しだけ安堵していた。傷を治すことで触れた蒼の感情が思っていたよりも重くなかったからだ。恐怖や後悔は間違いなくあったが、身を喰われそうなほどではない――それが、今の朔にとっては救いだった。
――俺の名前を知る日本人、か……。
蒼の傷を治し終わり、血まみれとなった自身の手のひらをぼんやりと見ながら、朔は先程浮かんだ考えを反芻していた。
――リョウが生きているかもしれない。
それは昨日否定したはずの考えだったが、生き残りの口から朔の名を知る日本人が存在すると聞いて思い出さずにはいられなかった。
ゲオルギーが全く日本語を話さなかったのも大きいかもしれない。その発言を覚えている程度にはゲオルギーにとって近しい存在ということは、ロシア語を話せる人物に限られるはずだ。加えて自分の名前まで知っているとなると、例の煙草の匂いも相俟って、朔の脳裏には一人の姿しか浮かばなかった。
「――……朔さん?」
治療が終わったのにいつまでも自分を離さない朔を疑問に思ったのか、未だ弱々しい調子で蒼が顔を上げた。
「あ? ……ああ、悪い」
珍しくぼうっとした様子の朔に蒼は首を傾げたが、先程までの出来事を思い出し顔を伏せた。
朔は人を殺せる人間かもしれないが、今回は間違いなく自分のせいでその手を汚させてしまったのだ。そのことを思うと、どうしたのかと気軽に聞くことはできなかった。
「お前、ナイフ包んでた布は?」
「……ここにあります」
そう言って蒼は自分のジーンズのポケットの中から、乱雑に突っ込まれたハンカチとビニール袋を取り出した。
これをどうするのかと視線を上げると、血まみれの手が視界に飛び込んでくる。蒼は一瞬悲鳴を上げそうになったが、その手が朔の左手だと気付くと、赤いのは自分の血だとすぐに分かってぐっと堪えた。
手を差し出してきているということは、渡せということだろう。そう判断して、蒼は手に持っていたものを朔の手の上に置いた。
「ん」という小さな声とともに、ハンカチとビニール袋を受け取った朔は蒼からゆっくりと身体を離す。そしてじっと蒼の上半身を見つめると、思いついたかのように口を開いた。
「つーか、その下何か着てんだったら上は脱いどけよ。流石に血まみれの服で歩き回るわけにはいかねぇだろ」
「そうですね……黒いTシャツ着てるし、そっちの方がいいか……」
「じゃあ脱いだやつも寄越せ。どうせ捨てるんだろ?」
「……朔さんて、やっぱりそういうご趣味の方ですか?」
「全部脱がすぞ」
「ごめんなさい」
蒼の軽口に怒気を込めた声で答えた朔だったが、その目元は穏やかだった。朔自身も決して明るいとは言えない心境だったが、彼よりも落ち込んでいるであろう蒼の調子が戻ってきたことに少しだけ気が緩んだのだろう。
朔は蒼に背中を向けて受け取ったハンカチを右手に巻きつけながら、その状態の悪さに顔を歪めた。治りかけていたはずの右手は、先程ナイフを強く掴んでいたことにより元に戻るどころか、更に悪化してしまっていたのだ。
――バレたら面倒だな……。
そっと右手を蒼から見えないように隠しながら、続いてフランネルシャツを受け取る。蒼は何故それが必要なのか分からない様子だったが、直前の脅しが効いているのか深く追求する気はないらしい。
朔はシャツを手に持ってゲオルギーの元に近付くと、そっと腰を下ろしシャツ越しにナイフを回収した。そのままシャツで包み立ち上がろうとしたが、不意にその動きを止める。
――もしリョウが生きていて、レオニードに関わってるなら……。
ポケットから煙草を取り出し中から一本引き出すと、それをゲオルギーが被っていたキャップの影に隠し置いた。
ここに最初に来るのが、一般人なのか生き残りかは分からない。しかし触らないと見つからない場所に置いておけば、彼の仲間が見つける可能性がほんの少しだけ高くなるだろう。
朔が吸っているのは特段珍しい銘柄ではなかったが、振礼島にいた頃から変わっていない。
――リョウならこれで多分、俺が生きているかもしれないと気付くだろ。
もし仮にリョウが生きているのであれば、自分を探さない理由が朔には分からなかった。だがそもそも朔が生きているだなどと微塵も考えていないのであれば、彼の知るリョウという人物の性格からは考え難いが、探さないということも有り得るかもしれない。
――問題は、なんでレオニードと一緒にいるかだ。
リョウが聖杯を盗む手引をしたのがレオニードなのであれば、最悪脅されている可能性すらある。そうなってくると自分を探さないのは、探さないというよりも探せない可能性の方が高く感じた。
――お前はどこにいる……?
生きているかもしれないことを素直に喜べない状況が歯痒い。朔は荷物をまとめると、心配そうに自分を見つめる蒼を連れて倉庫を後にした。
§ § §
蒼達が去り、無人になった倉庫に一人の男が現れた。
男は倉庫内を見渡しながら、ゆっくりと奥へと進んでいく。殆ど音を立てない男のつま先に、コツンと軽い何かが当たった。
――……緩衝材?
足元に転がる、蚕の繭によく似た形状の発泡スチロール。それを一瞥すると、男は再び辺りを見渡した。
するとその視線の先に、複数の緩衝材が転がっている床があった。出どころはそこだと判断すると、その場所に近付いていく。
「派手にやったなぁ」
壊れた木箱に、散らばる緩衝材。地面には血が飛び散っており、そこで誰かが揉めたのだろうということが簡単に見て取れた。
擦り付けられたような血の跡は、怪我をした人物が地面に押し付けられてできたのだろうか。
「怪我した奴はこっちに行って――」
地面に微かに残る血の跡を追って、男が歩いていく。
「――……殺されたわけね」
男の視線の先には、人型の黒い灰があった。残された衣服にそれが知った人間のものだと気付くと、楽しそうに笑みを浮かべながら口元に手をやる。
「ゲオルギーと連絡が取れないって言うから来てみたけど、死んでたんならそりゃ無理だよなぁ」
そう呟きながら、誰が彼を殺したのかを男は考えていた。通常の凶器であれば余程のことがない限りゲオルギーには通用しないのだ。
残された衣服の腹部に空いた穴は、ナイフのような刃物で彼が刺されたことを表していた。刃物であれば至近距離で襲われるため、近付くまでに対処する時間は十分あるだろう。それが銀製でなければの話だが。
男はゲオルギーが、自分にとって銀が毒だと知らないということを思い出していた。ミハイルがレオニードに殺される現場にいたようだが、その凶器が銀製だとは誰も彼に言っていないらしい。
ただのナイフで殺せるかという疑問は持ったかもしれないが、ミハイルは刺される直前に相当痛めつけられたとも聞いている。本人が意識しなければ凶器をやり過ごすことはできない――意識できる状態でないことが明らかだったのであれば、その疑問にはすぐに答えが与えられたはずだ。間違ってはいないが、正解とも言えない答えが。
だからゲオルギーは銀製の武器を持っていなかった。アクセサリーの類なら持っていたかもしれないが、もし持っていたなら触った段階で本人が異常に気が付くだろうし、そもそも銀とはいえ肌に触れただけでは死にはしない。
「俺たち以外で、銀が毒だと知り得る人間の仕業か……」
男は頭の中に三名の人物を思い描きながら、しゃがみこんで残された衣服の検分を続けた。
傷口から下に向かって垂れた形跡のある血の跡は、その量から立った状態で刃物を引き抜かれたのだろう。うつ伏せではなく仰向けに倒れたのは、誰かが後ろ方向に力を加えたからだろうか。
「抜いたナイフは――」
ゲオルギーだったものを隈無く見渡し、首辺りの灰に不自然な跡があるのを見て留めた。
「――首を刺したのか」
刺したままゲオルギーが灰となり、刺さる場所を失ったナイフがその上に落ちた――その状況を想像し、男は片眉を上げる。
「ド素人が首なんて刺そうと思うかな?」
先程頭に浮かんだ三人のうち、ド素人と思われる人物――小鳥遊蒼を対象から外す。人に危害を加えたことのない人間が、腹ならともかくいきなり首を刺そうとするとは思えなかった。
さらに首を斬りつけるのではなく刺したということも、男の興味を引いていた。
――斬りつけたら汚れるから? そんなん気にする余裕あんなら首より胸を刺し直すだろ。
これはこのまま考えても分からないと判断すると、答えの出ない疑問に見切りをつけ、別の問題に頭を切り替える。
一体誰がやったのか――思考を巡らせながらキャップを持ち上げれば、白い何かが転がり出た。それが、男にその疑問の答えを与えた。
「この煙草……」
吸っていない状態ということはわざと置いたのだろう。隠しておいたのも、ゲオルギーの仲間へと向けたメッセージだからだ。そう思い至ると、男は困ったというふうに顔を顰めながら首を傾げた。
「俺が関わってるって気付いてる?」
男の知る限り、煙草の持ち主――庵朔は自分とレオニードの関係を知らないはずだった。なのに自分自身のことをアピールする物を残したということは、レオニード側にこの煙草から朔に辿り着ける人物がいると気付いていることになる。
それが自分のことであるという証拠などどこにもなかったが、長年の付き合いからか、男はどこか予感めいたものを感じていた。
「んー……朔には人を殺して欲しくなかったんだけどな。しかもまだ蒼ちゃんとも仲良くなりきれてないし。……本当、コイツ余計なことしてくれたな」
地面を黒く汚す灰を睨みつけると、男――田湯涼介はゆっくりと立ち上がった。




