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アザー・ハーフ  作者: 丹㑚仁戻
第七章 境界の罅
30/68

30. 遠ざかる日常

「なんで……」


 蒼の震える唇から、小さな声で疑問が零れ落ちた。


「お前、何やって……」


 蒼の目の前に現れた人物――朔は予想外の遭遇に驚き目を丸くした。しかしすぐにその視界に赤い色を捉え、切迫した状況だと理解する。左腕の上腕部分がぱっくりと切り裂かれたマスタード色のシャツは、その切れ目から真新しい傷を覗かせていた。


「とりあえず来い!」


 朔は返事を待たずに蒼を立たせると、そのまま無傷な方の腕を引き貨物の間に身を隠した。


 密着した身体から伝わってくる震えに、朔は何が起こったのか考えを巡らした。自分の腕の中で茫然自失とも言える状態になっている蒼の顔色はまさに顔面蒼白で、それが出血によるものだけでないことは簡単に想像できた。


 怯えているということは、いつかのように一人で怪我をしたわけではないのだろう。となれば何者かに襲われたのだ。そしてその何者かの正体は、朔自身がここにいる理由を考えればすぐに分かった。


 ――他の生き残りか。


 生き残りが現れる可能性が高いと考えてやってきた場所でこのような事態になっていることを踏まえると、彼らの仕業であることは明白だった。

 蒼が何故そんな場所にいるのか、そして何故襲われたのか、朔には分からない。単に都合の悪い物を見られたからかもしれないし、もしかしたら蒼だと分かった上でやったということもあるかもしれない。

 経緯を推測するには情報が少なすぎたが、それでも、ここにいるのはレオニード側の人間だということは確実だろう。


 朔が状況を理解しようと思考に耽っている間、蒼は二つの全く異なる感情の中にいた。


 助けが来たのだという安心感と、恐れていたことが現実になってしまったという恐怖――レオニードが危険だということは承知していたつもりだったが、いざ本当に自分の身に降りかかると急に実感が湧き上がってくる。


 そして同時に、これなら自分の父親も殺されかねないという認識を強くしていた。事故とはいえ蒼を切りつけてしまった男は、一切の戸惑いを見せなかった。それが意味するのは、彼にとってそういったことが何ら特別ではないということだ。


 とんでもないところに来てしまった――本当に自分とは感覚が違う人々なのだと、もはや疑う余地はなかった。


 ――それにきっと、朔さんも……。


 自分の姿を見た朔が少しでも狼狽えた様子を見せれば、また違ったのかもしれない。しかし先程の彼は蒼の怪我を見ても驚きこそすれ、慌てる気配が全くなかった。


 朔は人を殺したことがあるのかもしれない――向き合うことを恐れ逃げ出した考えが、蒼の頭の中を埋め尽くす。

 自然と初めて出会った時の記憶まで蘇り、朔にとってもこういった状況は珍しいものではないのだろうという確信が蒼の中に芽生えていた。朔という人物を知ってから初めて、彼のことが怖いと思った。


 思考に沈みながら浅い呼吸を繰り返す蒼の口を、朔はそっと手で覆った。びくりと蒼の肩が跳ねる。

 それでも朔はその手を外すことはしなかった。音の響く倉庫内では、彼女の呼吸音さえ聞こえてしまいそうだと思ったからだ。


 見ていて同情を覚えるほど震える蒼に、朔は彼女の怪我だけでも治そうかとその傷を見やった。

 しかし今この状況で油断するわけにはいかないと思い直し、そっと目を逸らす。傷を治そうとすると物をすり抜けるときの感覚に加え、相手の感情に引きずられてしまうということを思い出したのだ。

 ただでさえ不快感に意識が持っていかれるというのに、明らかに動揺している蒼の感情にまで触れれば、無事にこの場を切り抜けることができなくなってしまうかもしれない。


 幸い未だ放心状態なのか、蒼が騒ぐことはなかった。しかしそれも時間の問題だろう、と朔は眉根を寄せる。

 倉庫内には乱暴な足音と、男がロシア語で怒鳴る声が響き渡っていた。


 ――レオニード、ではないな……。


 声を聞いたことはないが、いつか遠目に見た人物がこんなふうに怒鳴り散らす姿を朔には想像できなかった。常に冷たい薄ら笑いを浮かべ、しかし気品のようなものを感じさせる佇まいの男は、仮に殺そうとした相手に逃げられたとしても余裕を失うことはないだろう。


 怒鳴り声が何と言っているか詳細を把握できるほど朔はロシア語を理解していなかったが、それでも声の主が女を探しているということは分かった。

 その女が蒼である以上、見つかるわけにはいかない。無意識のうちに蒼を包む腕に力を込めた。


 このまま隠れ続ければ、騒ぎを聞きつけた人間が集まってくるためあの男は逃げるだろう。

 だがそうなれば、次にいつレオニードに近付けるか分からない。できれば逃げる前に捕まえたいが、この状態の蒼を放置するのも気が引けた。


 ――いや……奴を逃がす方がコイツにとってはヤバいのか。


 今まで可能性でしかなかったが、この状況では確実に蒼は顔を見られている。男のあの様子では一旦逃げたとしても、また彼女を狙ってくることもあるかもしれない。


 朔は一つ大きな息を吐くと、蒼の口を押さえたまま「おい」と小さく声をかけた。

 その呼びかけにやっと意識を戻した蒼は状況が理解できないのか困惑した様子だったが、待っている時間はないとばかりに朔は尻ポケットからずっと入れっぱなしになっていた袋を取り出した。


「これ持ってろ」

「何ですか……?」

「見りゃ分かる。俺がここから出たらすぐに使えるように準備しとけ。別に本当に使う必要はないが、目立つように持っとくだけでも牽制になるはずだ」


 そう言い終わるやいなや、朔はすっと貨物の間から出て行った。取り残された蒼は未だ震える手で渡された袋の中身を取り出し、驚きに目を見張った。


 ――なんで……。


 見覚えのある銀色に光るナイフを手にした瞬間、蒼の頭を支配したのは疑問だった。

 それが蒼の身を守るものだとは簡単に思い至ったが、朔が何故自分に渡したのか分からなかったのだ。


 ――だって、私は、朔さんを……。


 疑っているのだ、人を殺したことがあると。自分とは常識が全く異なるのだと実感し、恐怖すら覚えている。レオニードも朔も結局は同じ、どちらも簡単に人を殺せる人間なのだろう、と。


 それだけではない。もしかしたら朔は自分を騙しているのかもしれない、そう思っていた。

 実は蒼の父親と振礼島の関係を知っていて、その上で何か目的を持って自分に近付いてきたのではないかと考えていたのだ。


 だからこそ分からなかった。もし騙しているとしたら、そんな相手にこんな物を渡すだろうか。他の武器ならいざ知らず、確実に朔を傷つけることができ、更には朔自身の身をあの男から守ることのできるものを、この状況で自分に預けるだろうか。


 ――違うんだ……。朔さんはきっと……。


 そうしてやっと、蒼は自分の間違いに気が付いた。

 朔との出会いは確かに偶然とは思えない。だが今まで朔と過ごしてきて、彼が蒼に嘘を吐いたことは一度もなかった。本当に言えないことは嘘で誤魔化すのではなく、はっきりと言葉と態度で示していたのだ。それが騙している相手にする態度とは思えなかった。


 ――()()を渡したのも、私のことを信じてくれているからじゃないか……。


 気が付けば、朔に対する恐怖は消えていた。未だに自分の身が危険に晒されたことに対する恐怖は残っていたが、朔に対しては申し訳ないとすら思い始めていた。


 ――いつだって私の身を案じてくれていたのに……。


 それなのに自分は朔を疑い、その疑いから彼を恐れた。朔が一度も自分に危害を加えようとしたことがないにも拘らず、たった一度だけ抱いた疑念に流されていたのだ。


 途端に蒼は自分が恥ずかしくなった。強くナイフを握り締め、唇を噛み締める。


 ――自分に余裕がなくなったからって、なんで朔さんを疑ったんだ。たとえ朔さんが過去に人を殺していたとしても、私は……。


 いつの間にか震えは止まっていた。蒼はキッと前を見据えると、朔を追って争う音のする方へと踏み出した。



 § § §


 貨物の隙間から出た朔は、蒼の居場所が悟られないよう木箱やコンテナの合間を縫ってゲオルギーの後ろに回り込むと、一気に走り出して思い切り飛び上がった。


Ч()――!?」


 朔の隠しもしない足音が聞こえたのだろう。ゲオルギーは咄嗟に後ろを振り返ったが、その時にはすでに朔の蹴り出した脚が眼前に迫っていた。


 直後、朔の脚がゲオルギーの顔面を捉える。


 助走をつけた朔が全体重をかけて放った蹴りには耐えられず、喰らった勢いのままゲオルギーは後ろへ倒れ込んだ。しかしここは貨物が所狭しと置かれている倉庫だ。彼の身体が地面に近付くより先に、すぐ近くにあった木箱へと背中から突っ込んだ。


 重い衝突音と共に、乾いた音を立てて木箱の側面が割れ崩れる。中から蚕の繭のような緩衝材がバラバラと流れ出て、灰色の地面の上に散らばった。


 ゲオルギーはそのまま地面に崩れ落ちかけたが、それでも何とか立ち上がろうと壊れた木箱を掴み踏み留まる。同時に混乱しながらもこれ以上攻撃を喰らわないよう、必死に身体を変化させようと試みていた。

 変化さえさせてしまえば、相手に何をされても文字通り痛くも痒くもない――そう思っての行動だったが、その努力は同じ生き残りである朔には意味がなかった。


 朔はすぐにゲオルギーに近寄ると、自分の腰あたりまで下がっている彼の襟首を掴み、力いっぱいその顔面を殴りつけた。


 自身の顔にさらなる衝撃が襲った瞬間、ゲオルギーはやっと相手が自分と同じであることを理解した。今の彼には当たるはずのない攻撃を当てることができる存在など限られている。

 無意識のうちに自分を殴った人間の気配を探れば、仲間の傍で感じるものと同じ雰囲気に何故もっと早く気付かなかったのかと舌打ちをしたくなった。


 そのままうつ伏せに倒れ込んだゲオルギーがたまらず咳き込むと、地面に血が飛び散った。しかし朔は全く気にする素振りを見せることなく、一連の争いによりすっかり包帯の取れた手で相手の両腕を拘束し、逃げられないよう体重をかけた。


Вставай(フスタヴァーイ)


 地を這うような低い声で、朔がゲオルギーに語りかける。相手が気絶したら言え――かつて彼が兄のように慕う人物から教えれたその言葉は、“起きろ”という意味を持っていた。


 朔の呼びかけにゲオルギーはうつろな目で彼を見上げると、自嘲するように口端を上げた。

 その表情ができるということは、ある程度意識ははっきりしているのだろう。冷たい目でゲオルギーを一瞥した朔はそう判断すると、レオニードの居場所を聞き出そうと口を開いた。


Где(グヂェ) Леонид(レオニード)?」

「……Он(オン)――」

「朔さん!」


 ゲオルギーが朔の質問に答えかけた時、蒼が貨物の影から飛び出してきた。両手には言われたとおりナイフを握り締めている。顔色はまだ戻りきっていなかったがその表情には既に恐怖はなく、ただただ朔を心配するかのように眉間に力が入れられていた。


「何やってる、隠れてろ!」


 朔はゲオルギーを拘束する力を強くしながら蒼を諌めた。しかし彼女は立ち止まりこそすれ、隠れる気配はない。何かを訴えかけるような眼差しで朔を見つめながら、その場に留まり続けた。


 蒼の視線の意味を計りかね、朔は眉を顰める。

 まさか自分がこの男を殺そうとしていると思っているのだろうか。あながち間違ってはいないが、そう考えた上での行動だとすれば止めようとしているのかもしれない。


 ――なんなんだよ……。


 急に感じた居心地の悪さに、朔は眉間の皺を深くした。結局蒼が何故そうしているのかは分からないが、その視線に自分を否定するような、敵視するような色が含まれていないせいで考えがまとまらない。


 しかし下からクックッと笑う声が聞こえてきたことで、朔は思考の中断を余儀なくされた。


Саку(サク)?」

「あ?」

Я(ヤー) слышал(スリーシャル) твоё(トゥヴァヨー) имя(イーミャ)


 ゲオルギーの言葉が理解できないのか、朔が怪訝そうに顔を顰める。それはロシア語が分からないというよりは、ゲオルギーの発言内容自体が理解できないという表情だった。


Японец(イポーニツ)……японец(イポーニツ) сказал(スカザール) Саку(サク)


 そう言い直されて、朔はその目を大きく見開いた。


 ――()()()()()()()()()()()()()()……?


 その時、朔の鼻腔を甘い匂いが掠めた。だが実際にはそんな匂いなどどこからもしていない。先日嗅いだばかりの匂いの記憶が蘇ったのだ。


 否定したはずの考えが、彼の頭を過ぎる。


 その動揺を拘束されている人間が悟らないはずがない。ゲオルギーは身体に思い切り力を入れると、自身を拘束する朔を押しのけた。

 それに朔が行動を起こすよりも早く、ゲオルギーは蒼を視界に捉える。そしてそのまま迷うことなく彼女の方へと駆け出した。


「えっ……!?」


 突然の出来事に蒼の身体は硬直した。顔を血まみれにした男が凶悪な表情を浮かべ自分に近付いてくる――それは先程まで彼女の身体を支配していた恐怖を思い出させるのには十分だった。


「蒼!」


 朔の声が響く。ゲオルギーを止めようと伸ばした朔の手は空を切った。


 ――今度こそ死ぬ……!


 蒼は咄嗟にぎゅっと目を瞑った。その直後、両手に鈍い感覚が走る。「グッ……」、苦しげにくぐもった声が、一拍遅れて頭上から落ちてきた。


 ――痛くない……?


 思っていたのとは違う感覚に、恐る恐る目を開ける。


「う、嘘……なんで……」


 視界の先には、これでもかというくらい力が込められた自分の両腕。それは男の身体に触れそうな程近く、しかし間にある何かに阻まれ直接触れることはない。


 無意識のうちに突き出していたナイフが、ゲオルギーの腹を貫いていた。

第七章『境界の罅』完

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