03. 警告と憂患
蒼はJR新宿駅に到着すると、東口を抜けて西武新宿駅に向かって歩き始めた。
台風の名残か、路上の隅にはまだ青い落ち葉や木の枝が寄せられている。上を見ればよく晴れた青空が広がっていたが、久々に感じるじめっとした空気に蒼は少しだけ嫌そうに顔を歪めた。
大抵の駅で複数路線の乗り換えが外に出ることなく完結するこの都心において、毎日この乗り換えをしなければならない人たちはストレスを感じていることだろう。
夏は折角電車の冷房で汗が引いてもこの距離ならまた汗をかいてしまうだろうし、雨が降ればたった数分のために傘を差さねばならない。
考え事をしながら歩いていると、あっという間に西武新宿駅近くにある目的地に着いた。
看板にある名前は、ロシア料理店アネクドート。蒼は気を引き締め、目の前の店へと足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
「一名です」
カランカランとベルの音を鳴らすドアを開け店に入ると、外国人の男性店員が流暢な日本語で蒼を出迎えた。
この日の営業を開始したばかりなのか、店内はのんびりとした雰囲気が漂っていて他に客もいない。いくら日曜といえども、まだ朝十時を回ったばかり。この時間からレストランに行こうとする人間は少ないのだろう。
席に案内された蒼は料理を注文すると、ゆっくりと店内を見渡した。
天井からはオレンジ色の光を放つ小さな照明が何個か吊るされ、優しい光で落ち着いた雰囲気を作り出している。味のある漆喰の壁やアンティーク調の木製家具だけ見るとどこの国の店か分かりづらかったが、ところどころに飾られたマトリョーシカがここがロシア料理店であることを静かに主張していた。
――これだけ見ると、情報屋に勧められるようなイメージの店じゃないんだけどな……。
蒼はあまり利用したことがなかったが、彼女の知る情報屋は典型的なアンダーグラウンドの人間のような空気を放っている。だから彼に勧められる場所もまた、同じような雰囲気のものだと予想していたのだ。
だがこんな好立地に店を構えている時点で、必ずしもそうではないと気付けたはずだ。それなのに全く考え至らなかったのは、蒼がロシアのことをよく知らないのも影響しているだろう。どうしても学生の頃に習ったソ連だの冷戦だのといった暗いイメージが先行し、怖さにも似た感情を抱いていたのだ。
そのためロシア料理店といえば、きっと暗い雰囲気の店なのだろうと思っていた。しかし実際に見ると今のところ特に怪しい点はなく、何も知らずに来ていたら常連になりそうなくらい彼女にとっては居心地のいい店だった。
――値段だけちょっと厳しいけど……。
毎日気軽にランチをするには、この店の価格帯は蒼にとって少し高すぎる。事前に色々とメニューを見たにもかかわらず結局ブリヌイという軽食を注文したのは、まだ手が出る値段だったからだ。
いつかメイン料理も食べてみたいと思いながらスマートフォンでグルメサイトの写真を見ていると、店員が「お待たせしました」と注文した料理を運んできた。値段が張るだけあって盛り付けも綺麗にされている。
それを崩すことに躊躇いを感じながらも、蒼はゆっくりと料理を口に運んだ。
「美味っ……!」
思わず出た声に、はっとして口を手で押さえる。他に客のいない店内に、自分の品のない感想が思いの外響き渡ってしまったからだ。
普段行くような店なら気にすることはないが、先程料理を運んできたスタッフの価格帯相応の接客態度に少しだけ萎縮してしまっていたのだ。
一人で気恥ずかしさを感じながらも気を取り直すと、ゆっくりと時間をかけて料理を味わっていった。
全部なくなる頃にはすっかりリラックスしていた蒼だったが、空腹を満たしきれなかったことに少しだけ悔しさを感じて眉根を寄せる。
――今度はもっとお金がある時に来よう。
網走取材の出費のせいで、これから圧迫されるであろう家計に一頻り思いを馳せる。溜息が出そうになるのをぐっと堪えて代わりに大きく深呼吸をすると、本来の目的を果たすべく店員を呼び寄せた。
「追加のご注文ですか?」
「いえ、すみませんが店長さんを呼んでいただけますか?」
蒼の言葉に店員は一瞬固まると、「何か粗相がありましたか?」と不安げな表情を浮かべながら、今までと比べると少しだけ不自然なイントネーションで聞き返してきた。
その様子に蒼は頻繁に接客に使う言葉以外は苦手なのかもしれないと考えながら、「そういうわけじゃないんです――」と言葉を続ける。
「――加納の紹介だと伝えていただければ分かると思います」
加納というのは、蒼にこの店のことを教えた情報屋の名前だ。彼に店長を呼ぶ際は自分の名前を出せば伝わると言われていたのだ。
店員は少し考え込むと、訝しげに首を傾げながらも「少々お待ち下さい」と店の奥へと消えていった。
慣れない要求のはずなのに、食べ終わった皿を片付けることも忘れない。その接客レベルに、蒼は改めて関心した。
彼がもしロシア出身であるならば、自分のロシアに対するイメージを変えなければならないだろう。
そんなことを考えながら待っていると、奥から恰幅の良い初老の白人男性が現れた。
ジャケットを羽織り、品の良さそうな佇まいのその男は、蒼に近付くと自分が店長だと名乗った。
――サンダースに似てる……。
某ファストフード店のキャラクターの姿を思い浮かべながら、蒼はまじまじと現れた男を見つめた。
綺麗に整えられた短い髪は見事なまでの白髪で、日本人のものとは全く違うその色は、さながら真っ白な雪のようだ。気難しそうな顔をしているが、白のスーツを着て笑ったところを見れば、誰もが自分と同じ印象を抱くだろう。
そう思いつつも、蒼は割とカジュアルなジャケットに身を包んだ男の姿を意外に感じていた。店長というからには、てっきりコックの格好かスーツ姿だと思っていたのだ。
「Не спи、девушка」
「なんて……?」
「『寝ないでくれ、お嬢さん』。君が私を呼んだんだろう?」
「あ、えっと、すみません……?」
寝ないでと言われたことに一瞬理解が追いつかなかった蒼だったが、咄嗟に謝った後に自分がぼうっとしていたことを指していたのだと気が付いた。
確かに自分が呼んでおいて失礼な態度だったと反省し、改めて小さく「すみません」と謝罪を口にする。
「Так、カノウの紹介と聞いたんだが」
パシンと胸の前で手を合わせ、店長は蒼に話を促した。ロシア語が混ざっていたように感じたものの、大した意味はないだろうと判断し、蒼はここへ来た目的を切り出す。
「そうです。振礼島ってご存知ですか? 実は私、振礼島のことを調べていまして、加納さんにあなたのことを教えていただいたんです」
「フレ……北海道にある島だったかな?」
「はい。あの島で何があったのか調べているんです。二月の災害のことでもいいし、振礼島自体のことでもいいです。何かご存知じゃありませんか?」
「フレは日本の島だろう? なら君の方が詳しいはずだ」
店長は「力になれなくて申し訳ない」と言って店員を呼ぶと、ロシア語と思われる言葉で何かを伝え、蒼に「折角だから紅茶をご馳走しよう」と愛想良く笑いかけた。
その様子に引っかかるものを感じた蒼は、疑いの眼差しで店長を見つめる。それでも彼は片眉を上げ、両手を広げるだけだった。
――何か隠してる……?
少しだけおどけるようなその仕草に、やはり何か違和感を覚える。蒼は少しだけ視線を鋭くして、違和感の正体を探ろうと口を開いた。
「振礼島に行った人、口封じで殺されたそうですよ」
「……というと?」
「被害者が生前に会った方の話を聞いたんです。あの島は随分、ロシアと密接に関わっていたようじゃないですか。色々と、良くないものを運び入れていたんでしょう?」
これは蒼のハッタリだった。振礼島に行った人間が死んだのは事実だが、他殺とは断定されていない。ロシアから何かを運び入れているという話も、蒼の推測に過ぎなかった。
ロシア人も含めると島の人口は二千人、その人数を週に一回の物資輸送だけで食べさせられるとは思えず、ロシアからも物資を輸入していたのではと考えたのだ。
蒼の言葉に押し黙った店長は、考えるようにして彼女を見つめている。
その時、入り口の方でカランカランという音が響いた。店長は音の方を一瞥し店員が対応に向かうのを確認すると、蒼の向かいの椅子に座って諦めたように深く息を吐いた。
「どこで知ったか知らないが、それ以上関わらない方がいい」
「密輸を認めるということですね?」
「知らない方がいい」
――密輸してたのか……。適当に言っただけだったのに……。
思わぬ情報を得たことに蒼が閉口すると、ちょうど紅茶が運ばれてきた。店員は店長に何かを確認してから、テーブルの上にカップを並べ始める。蒼の席だけでなく店長の前にもカップを置いたことから、彼が飲むかどうか尋ねていたのかもしれない。
「なら、二月の災害のことはどうです? 何かご存知じゃないですか?」
「……生き残りがいるという話なら、聞いたことがある」
そう言って紅茶のカップを口に運んだ店長に、蒼は自分の中で期待が一気に膨れ上がるのを感じた。
「その生き残りの方というのは、今どこに?」
「Не знаю、生き残っているという話自体が噂のようなものでね」
「……どこにいるかは分からない、ということですか?」
「確かな情報がないんだ。教会で暴れ出したのを見たり、取引現場で見かけたり、そういう噂話が流れているだけでね。ただ、『奴らには関わるな』――これだけは、どういうわけかはっきりとした注意として流れている」
「どうして――」
蒼が詳しく聞こうとすると、店長は首を振ってそれを制した。
「悪いがお嬢さん、これ以上君に話すことも彼らに関わるうちに入るかもしれない」
そう言って、店長は再び紅茶を口にした。それはまるで、それ以上聞くなと蒼を突き放すようだった。
そんな態度を取られてしまえば、蒼も一度口を閉じるしかない。気まずい雰囲気を感じながら、居心地悪そうに自分のカップに目線を落とし、店長の言葉を反芻することしかできなかった。
――奴らということは、生き残りは複数いるってこと?
生存者はゼロという政府の発表とは異なる内容に、紅茶を飲んで気持ちを落ち着かせようとカップに手を伸ばした。
「甘いのが嫌いでないのなら、そのジャムを入れてみるといい」
「え?」
突然かけられた声に、蒼は目を瞬かせる。
「聞いたことないかい? ロシアでは紅茶に砂糖だけじゃなくジャムも入れる。まあ、本当は舐めるんだがね。日本では混ぜると伝わっているようだ」
「へえ……。でも、店長さんは?」
「У меня диабет……糖尿病なんだ」
小さく呟いた店長の顔は、心底悲しそうだ。
ジャムを入れるというのは馴染みがないため一瞬躊躇いを感じたが、それを勧めてきた甘い物好きであろう男の姿に、蒼は断る気になれなかった。そんなに変な味になることもないだろうと自分を説得して、勧められたとおりにジャムを溶かしてから紅茶を口に含む。
「あ、美味しい」
「Хорошо」
満足げに微笑んだ店長は居住まいを正すと、真剣な表情で蒼を見つめた。突然の変化に蒼は驚いたものの、すぐに自分も背筋を伸ばし、何か言いたげな店長の口から出る言葉を待つ。
「私の古い友人にИван Сергеевという男がいてね」
「…………」
「息子はМихаилという。年は大体三十くらいだったか。グレーの瞳にブロンドの髪で、確か左腕にトカゲのタトゥーがあったはずだ」
「あの……それが一体?」
要領を得ない店長の話に蒼が不審に思っていると、店長は目線だけ動かして周りをキョロキョロと見渡した。
すぐにそれはテーブルの上に落ち着いたが、眉間に力を入れたまま中々話し出さない。だが少しすると、意を決したように「フレにいたんだ」と呟いた。
「え?」
「Миша……Михаилはフレにいたんだ」
「亡くなった、ってことですか?」
「そう思っていた。だが東京で見かけたという噂を聞いた。八月のことだ」
「まさか……」
――そのミハイルという男は、振礼島の生き残りということ?
視線で蒼の言いたいことを察したのか、店長は神妙な面持ちでゆっくりと静かに頷いた。
生き残りには関わらないのではなかったのか――先程までと言っていることが違うその男に不信感を抱きかけた蒼だったが、すぐに自分の考えを改めた。おそらく店長にとってそのミハイルという人物は、それだけ大事な存在なのだろう。この話をしだす前の彼の様子を見れば、それなりの覚悟した上で自分に話しているというのは明らかだった。
「もしそれっぽい人を見かけたらお伝えしますね」
「……次来た時はメイン料理をご馳走しよう」
そう言って、蒼の目の前の男は弱々しく笑った。