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不意に息をのむような音が聞こえ、次いで背後から短い声が飛んできた。
それは寸前まで胸に溜めていた空気を勢いよく放出したような、弾んだ声だった。
「あっ、明日は」
突然の呼びかけに驚いて振り返ると、暗がりの中、中途半端にこちらに手を伸べたホワイトマンが見えた。
小首をかしげ、目を凝らす。
その顔には、何か複雑な表情が浮かべられている。
視線は落ち着きなく揺れ、まるで何か縋れるものはないかと探しているようだ。
けれど頼りになりそうなものは見つからなかったようで、視線はすぐに地に落とされた。
歯切れの悪い言葉の続きを待っても、引き結ばれた唇はなかなか開かない。
だんだんあたしの方まで緊張してきてしまい、その場に棒立ちになって小さく喉を鳴らした。
意を決した様子で、ホワイトマンが勢いよく顔を上げた。
「あなたは明日、ステージに上がられますか」
「明日? 明日は休みの予定だけど」
先日ケールが「クルトを働かせすぎだ」と言ったことを気にしてか、今日のステージが始まる直前、支配人はあたしに急遽休みを言い渡した。
どうせ何もすることがないんだから休みなんていらない、と断ろうかと思ったけれど、支配人に「確かに俺はお前を働かせすぎていた。頼むからたまには休んでくれ」なんて言われたら頷くしかなかった。
質問の答えを得て、ホワイトマンはまた思い悩むように唇を動かした。
けれど、やはりそこから言葉が出てくるまでは少し時間がかかった。
一つ一つの言葉を組み合わせ、頭の中で何度か繰り返して、それからようやく口に出す。
そんな風に手順を踏んだ作業をしているように見えた。
「では、あなたは明日、何かご予定がおありですか」
「特に、用事はないけど」
ホワイトマンとの会話で、今までこんなに回りくどい話し方をされたことはなかった。
それを、いつものようにからかって笑うことも今はできない。
一度でも茶化してしまったら、ホワイトマンはもう二度とあたしに笑いかけてくれなくなる。
そう感じた。
実際は、次の言葉が出てくるまでそう時間はかからなかったのかもしれない。
けれどその時ばかりは、じれったさと得体の知れない期待が相まって、ひどく長い時間のように感じられた。
たっぷりと間を空けて、ホワイトマンは言った。
「よろしければ、明日、私に時間をいただけませんか。できれば、明るいうちに」
その誘いに、あたしは柄にもなく身体を硬直させてしまった。
まるで、弱い電流が足元から頭まで一気に走ったような衝撃だった。
自然に指先までぴんと伸ばして、ホワイトマンを見つめる。
さっきまで宙を漂っていた頼りない視線が、今は一心にあたしに注がれている。
身じろぎも許さないくらい、強い瞳だ。
その中には、年頃の少年が決死の覚悟で意中の相手にデートの誘いをかけているような、甘酸っぱい気配が潜んでいる。
勢いのいい誘い文句に押されて、気付けば短く頷いていた。
「は、はい」
ホワイトマンの表情が、一気に晴れやかなものになった。
目元にも口元にも喜びが乗り、黙っていても何を考えているのか伝わってくる。
そこにあるのは、いつもの穏やかで余裕のある表情ではなく、気持ちの動きに合わせて自然とほころんでしまった、というような、温かな笑みだった。
気持ちのままにホワイトマンが発しようとした言葉と、背後から飛んできた声が重なった。
「クルト、いる? そろそろ出るって」
出がけに声をかけた子が、あたしを呼びにきたのだ。
その声に、あたしもホワイトマンも揃って肩を弾ませて、反射的に顔を見合わせた。
「そ、それでは明日、よろしくお願いします」
ぎこちない動作で去ろうとする背中を慌てて引き留める。
「待ってよ。明日の何時?」
「ああ、そうでした。昼食の時間帯はいかがでしょう」
「ええ、構わないわ」
「ありがとうございます、では」
「待って待って、待ち合わせ場所はどうするの?」
「は、すみません」
とっさにいい場所が思い浮かばなかったようで、ホワイトマンが口ごもった。
その間にも、あたしを呼ぶ声が繰り返し聞こえる。
「あなた、ホワイトナイトに滞在しているのよね? どこなら待ち合わせができそう?」
「そうですね、トレイル、モールストーク、リテイクスリー、それから」
「ごめん、あたしその中のどれも知らないわ。もっとわかりやすいところはないの?」
「では、ホワイトナイトの時計塔とか」
「いいわ、そこにしましょう。じゃあ明日の昼、時計塔で」
押し付けるように約束をして、あたしは呼び声に大きく返事をした。
「ここにいるわ。今行く。鍵、見つかったの?」
「ええ、見つかったわ。それがね、どこにあったと思う? なんと、自分が最初に着た衣装のハンガーに引っかかってたの。あの子、今日は遅刻ぎりぎりに着いたもんだから、大慌てで支度をしてね、手に持ってた鍵束のキーホルダーを無意識にハンガーにかけちゃったんですって」
「衣装の影になってちゃ、わからないはずだわ。よく見つけたわね」
大げさな反応を返しながら、足早に裏口まで歩く。
声高に話すその子を中に誘導し、ちらりと路地を振り返った。
物陰に隠れて見送ってくれていたホワイトマンが、それに気付いて小さく会釈をする。
あたしは目につくように後ろ手を振って、裏口のドアを閉めた。
止まらないショーガールの話を上の空で聞き流し、頭では違うことを考える。
明日、何もない休日に、唐突に予定が入った。
まさかホワイトマンに会うことになるとは思わなかった。
向こうから声をかけてくれたのは二度目だ。
あまりにも慌ただしいことで、思い返してもまだ現実味がない。
明日あたしは、ホワイトマンと出かけるの?
前を歩いていた子が、思い出したように振り向いた。
「そういえば、迷子は無事に案内できたの?」
「ええ。話をしたら落ち着いたみたい。ちゃんと明るい道を選んで、ねぐらに帰ると思うわ」
「そうなの」、と相槌を打ち、その子が不思議そうな様子であたしの顔を覗き込んだ。
「どうしたのクルト。変な顔よ。困ってるような、喜んでるような。何かあったの?」
頬に手を当てても、自分がどんな顔をしているかはわからない。
「なんでもない。寒さで引きつっただけよ」
落ち着かない心を強引に隅の方へと追いやって、駆け込むふりをして楽屋に戻った。
「クルト、すぐに支度をして。トラブルのせいですっかり遅くなっちゃった。早く送り届けないと、俺が支配人に叱られるよ。ほら、みんなも急いで」
ダズに急かされて、ショーガールたちが賑やかに裏口へ向かう。
あたしも自分の荷物を持ち、まだ楽屋に残っているマージたちに挨拶してその後に続いた。
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