4-14
空気こそ冷えているものの、今日は珍しく風のない夜だった。
髪を乱す一吹きもなく、短いスカートはあたしの動きに忠実に揺れている。
癖でタバコを出そうとしたけれど、なんとなく気乗りしなくてすぐにケースを閉じた。
手すりに背中を預け、ただ暗いだけの夜空を見上げる。
周囲の店はいつも通りに営業してはいるものの、どこか堅苦しい雰囲気が漂っている。
マクレーと同じように、店の子の行動を制限しているのかもしれない。
しばらくは周囲を警戒して歩き、必要以上に一人で出歩くなと釘を刺され、安全な車でアパートまで送られる生活になる。
今まで経験したことがないくらい堅苦しい。
愛しい恋人たちとも遊びに行けなくなる。
支配人が男たちとの接触を禁止すると言った時、あたしは案外落ち着いていられた。
他のみんなも、あたしが真っ先に意を唱えるんじゃないかと思っていたかもしれない。
でも、行動を制限されることに不思議なくらい不満や喪失感はなかった。
今もそうだ。夜を持て余すことになるのに、不機嫌になる気配すらない。
そうだ、これでしばらくの間はホワイトマンに振り回されなくて済む。
あたしにとっては心休まる日々になりそうで、それを喜んでいるのかもしれない。
そんな風に考えてみたけれど、あまりしっくりこなかった。
裏手のビルの、細長い窓を見上げる。
さすがに今夜は、騒動の渦中にあるゴッデスは営業していないようだった。
ハマナは今頃、どこでどうしているんだろう。
その顔すらはっきり思い出せないのに、散々話を聞いたせいでひどく近しい人のように思えた。
ふと、心に違和感が引っかかっていることに気付いた。
あたしはあの晩、ここでハマナの情事を盗み見た。
顔までは見えなかったけれど、例の男の身体の一部も垣間見た。
たったそれだけの情報なのに、思い返せば返す程、その男の手の造りや動きがあたしの思考を引き付ける。
目をつむり、集中してあの夜のことを思い返す。
ハマナの身体に隠された男は、暗い色の服を着ていたようにも、明るい色の服だったようにも思える。
体格も髪の色もはっきりとしないけれど、ハマナの向こうに頭が見えたからそれなりに上背があったはずだ。
他に何か思い出せないだろうか。
繰り返し脳裏に窓の情景を思い浮かべたけれど、それ以上ろくなことは出てこなかった。
その時のことをもっとよく覚えていれば、何かの役に立ったかもしれない。
今更そんなことを思っても仕方がないのに考えるのをやめられず、胸がもやもやする。
こんな風に落ち着かない時は、何も考えずに遊びたい。
でも今夜は男と二人きりになることなんてできそうにない。
こうなったら、一人きりの部屋で適当な酒でも作って、眠くなるまで飲み続けるしかない。
飲んだくれる自分の姿を想像して白いため息をつこうとした時、視界の隅に人影がちらついた。
反射的に顔を向けても、その姿はもうあたしの視界から消えている。
手すりにもたれていた身体を起こし、ビルの合間からかろうじて通りが見える方角に移動した。
視界から消えた人影を再び捉え、思わず息を呑む。
低い屋上から見える狭い通りを歩いていたのは、見覚えのある白いスーツの後ろ姿だった。
ホワイトマンは、不慣れな様子で暗い道を歩きながら、落ち着きなく周囲を見渡していた。
そこは人一人分程度の広さしかない裏通りで、各店から出たゴミや不用品が山積みになっているようなところだ。
裏側の通りへの近道になるとはいえ、室外機がぼこぼこと飛び出していて歩きづらく、決してきれいとはいえないため、各店の従業員しか通らない。
まさか、こんなところで彼を見かけるとは思わなかった。
声をかけようかどうしようかと迷っているうちに、白い背中がビルの影に隠れようとした。
その姿が完全に見えなくなる前に、あたしはホワイトマンに呼び掛けていた。
「人気のない通りに迷い込んだ、白いスーツのジェントルマン」
楽屋まで届かないよう少しだけ張った声を聞き分け、白い影が足を止めた。
あたしの視界ぎりぎりのところで、不思議そうに左右に首を振っている。
あたしは手すりにぎゅっとお腹を押し付けて、さっきより声を大きくした。
「ここよ、こっち」
伸ばした右手を振ってみせると、ようやくホワイトマンがあたしの方を見上げた。
立ち止まったのがよその店の窓の近くだったから、その顔はよく見えた。
ホワイトマンは、どこか寂しさが滲む心細そうな顔の後ろから、ぱっと明るい表情を取り出した。
「こんばんは。まさか、こんなところでお会いできるとは思いませんでした」
「それはこっちのセリフよ。こんなところで何してるの?」
ホワイトマンは少し言葉に詰まり、あたしから視線を外した。
怯まず「どうしたの?」と問いかけると、その顔に恥ずかしそうな色が上乗せされた。
「キャッシュマクレーの周囲を散策して帰ろうと思ったんですが、行きすぎてしまいまして。元の道に出るために、必死で歩いていたところです」
マクレーの一本隣の道からは、極彩色のストリップエリアが始まる。
そちらの方へ行ってしまったのだろう。
そういったことに恥じらいを見せるその態度が、彼の車で短いドライブをした夜を思い起こさせて、急に懐かしくなった。
「あなた、車は?」
「ホテルに置いてきました。歩いた方が楽しめるという、あなたのすすめに従って」
「そうなの。ねぇ、ひょっとしてあなた、地理にあまり強くないの?」
ホワイトマンは眉尻を下げ、面目ないというような顔で肩をすくめた。
「あなたには隠し事はできませんね。実は、そうなんです。広い通りにはそれなりに免疫があるのですが、この街のような細道だらけの場所には不慣れでして」
「それで迷子になってしまった、というわけなの」
今度こそ弱り切った顔で、ホワイトマンは小さく頷いた。
その動作に、強引に忘れようと心の隅に追いやっていた記憶がよみがえる。
ああ、あの時と同じだ。
二人きりになった夜の、あの手ほどきをしたくなる感覚だ。
本当に困っていたのか、今夜のホワイトマンはなかなか話を切り上げようとしない。
そそくさとした会話をしなかったのも、初めての夜以来かもしれない。
まさかこの夜を狙ったように、アクシデントが振ってくるなんて。
「参ったわね。あたしこう見えて、困っている人を放っておけないたちなのよ」
顎に指を添えて、わざとらしく迷う仕草を見せつける。
けれどすぐにそれを引っ込めて、手すりから乗り出し指先でジェスチャーした。
「すぐ行くから、そこで待ってて」
急ぎ足で階段を下り、裏口から飛び出しかけて、黙っていなくなったらまた騒ぎになるかもしれないと足を止めた。
楽屋を覗き込むと、中は変わらず賑やかで、ダズが「鍵がなくて困るのは君なんだから少しは協力して」と嘆いている。
あたしは近くにいたショーガールを指先で小さく呼び寄せた。
「通りに迷子を見つけたからちょっと行ってくるわ。でもすぐに戻るから」
声をかけたその子は、ウィッグに潰されてぐしゃぐしゃになった髪をブラシでとかすのに忙しく、鏡から目を離さずに「迷子ぉ?」と言った。
「そう、迷子。助けてあげないと、ストリップエリアで途方に暮れちゃいそうなくらい純真な、ね」
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