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「まっとうな世界、ですって? マージは、ここに来る前のあたしが幸せな人間の手本みたいな生活をしてた、とでも言いたいの? それじゃあ教えてあげる。あたしはあなたの言う通り、それはそれはまっとうな生き方をしてきたわ。分厚い雲に覆われて塩辛い風が吹く田舎で、滑稽な程一人でとんがってね」
危うくその続きまで口にしかけ、慌てて話の方向を捻じ曲げる。
「確かにこの街は汚れてるわ。
でも、どんなに空気が澄んだ楽園のような場所にいたとしても、血を吐いて倒れる可能性はゼロじゃない。
それは誰にもわからないことでしょう。
どこで生活していてもそんなリスクがあるのなら、自分の好きなところで自由に生きた方がいい。
幸せの基準なんて人によって違うものよ。
救世主なんて冗談じゃない。
あたしは誰かに救ってもらおうなんて、これっぽっちも考えたことはないわ」
心の中の醜い部分が、一方的に言われるだけではつまらない、と声を上げる。
いつも人の心にずかずかと踏み込んでくるマージに、たまには言い返してやってもいいんじゃないか、と。
きれかけた息を素早く吸い、目を細めてマージを見据える。
「大体マージだって、ずっとこの街にいるじゃない。
自分はうまくやれてるのに、あたしにはそれができないって言いたいの?
マージの言葉、そっくりそのままお返しするわ。
痩せ我慢してると、そのうちがたがくるんでしょ?
それならマージが例の白い彼と一緒に過ごしてみたらどう?
あたしみたいに面倒な女にも優しくしてくれる人なんだから、誰にとっても救世主になりえるはずよ」
我ながらよく回る口だと思う。
頭で考えるよりも早く、感情が言葉を形成して気付けばそんなことを口走っていた。
今度はマージが手痛い言葉を飛ばしてくる番だ。
あたしがヒートアップすると、マージも同じだけ感情を高めてくる。
だからマージもあたしと同じように、表情をきつくして言葉を返してくるのだと思った。
けれどそれまでの勢いはどうしたのか、マージはなかなか次の言葉を用意しなかった。
ボリュームが大きくなりかけていた言い合いが途切れ、くぐもった音楽が耳につくだけになる。
何も言わないことをたしなめようと口を開く。
けれどあたしが何か言葉を発する前に、マージはそれまでとは比べ物にならない細い声音で言った。
「ああ。あんたの言う通りだ。確かに私もここに一人でいるね。でも、ホワイトマンを連れ合いにしようとは思わない。彼は私の人ではないよ」
マージは微かに表情をかげらせ、唇の動きも乏しくそこまで言ってまた黙った。
普段よく笑い、よく喋り、どんな感情も顔に出している彼女からすると、それはとても珍しいことだった。
突然色を失った物言いに怖じ気づき、あたしまで噛みつく勢いを失った。
威勢のいい言葉を発しないマージとは、気持ちをぶつけ合う気にはならなかった。
マージに叱られたことは数えきれない程あっても、しょげたような顔で話をされたことはない。
そんなマージの態度は、どんなに大声で鋭いことを言われるよりも、あたしを牽制する効果があった。
とっさにシガレットケースを掴み「屋上行ってくる」と逃げ出すあたしを、マージは追ってこなかった。
あたしは楽屋のドアを乱暴に開閉し、細い階段を一気に駆け上がって屋上に出た。
*
一人になった途端、胸に苦い思いが込み上げてきた。
マージったら、なんで急に勢いをなくしちゃうのよ。
いつもと違う顔を見せられたら調子が狂うじゃない。
途中まではいつものマージだった。
いや、いつも以上に熱くあたしを心配して提案をくれるマージだったのに。
経験が豊富で懐も広いマージは、あたしの言葉なんかには傷つかないんだと思っていた。
でもそんなはずがなかった。
マージだって血が通う一人の女性だ。
あたしの過去をマージが知らないように、あたしもマージの人生がどんなものかほとんど知らない。
あたしが発したどの言葉に、マージが反応したのかすらわからなかった。
触れてはいけないボーダーラインを見極められなかったことに、暴力的な気持ちになる程後悔した。
マージはあたしにいやな思いをさせようとして、お節介をやいているわけじゃない。
それは痛い程にわかっている。
あたしだってマージのことを大切にしたい。
けれど弱いところを突かれると、必要以上に防衛本能が働いて、攻撃的な言葉が止まらなくなってしまう。
あたしは過去に触れられるのが苦手だ。
誰にも干渉されたくないから、古いあたしを生まれ故郷に置き去りにして、この街へやってきた。
自分の昔話を誰かに聞かせるつもりはない。
自分一人できつく抱えて、生きていく覚悟はできているつもりだった。
それなのに、ちょっとつつかれただけでたやすく悲鳴を上げそうになった。
この街に来てそれなりに経ったけれど、まだまだ夜の世界を生きてきた人間を言い負かせるだけの言葉を持っていない。
だから話題とは関係のないことを持ち出して、相手を攻撃する。幼いやり方だ。
心を強く保っていられる時は、過去はずっと遠くにあるのだと割り切ることができる。
でも、いくら放置して乾かしたつもりでいても、傷口はしつこく痛み続ける。
未練がましくぐじゅぐじゅと汁が滲んでいて、わずかな風にもひりつくから、他人の手で触れてほしくはなかった。
ここに来る前のことは誰にも話していない。
あたしを拾ってくれた支配人にも、姉のようなマージにも。
ポーラーでの生活が長く、色んな人間を見てきた彼らは、あたしの過去を詮索しようとはしなかった。
「事情がない奴なんてこの街にはいない」と、支配人はよく口にする。
二人だって、口に出すのもはばかられる過去の一つや二つ、胸に隠しているだろう。
どんなものが飛び出してくるかわからないこの街では、他人のことを知らない方がうまく生きられる。
様々なことを知り、この街に馴染んだ気になっていた。
でも実際は、マージの優しさにすら牙をむき、余計なお世話だと吠えるので精一杯だった。
満足に戦えないことを知って不愉快な気分になり、二本目のタバコに火をつけた。
ひょうひょうと音を立てるビル風に肌を叩かれながら、あたしは頭も身体も冷やし続けた。
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