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ホワイトマン  作者: 水見 あさや
3.一方通行
37/67

3-9


「こんばんは、お嬢さん。今夜も素晴らしいステージをありがとう」



 媚びた色など欠片もない落ち着いた声音を聞き、反射的に顔を上げる。

ほんの少し前、どれだけ捜しても見つけられなかった白いスーツ姿が、いつの間にかあたしの正面に立っていた。



 不意を打たれ、表情を繕うのを忘れた。

素直に驚いたその一瞬だけ、間抜けな顔の一つも見られてしまったかもしれない。

けれど即座に余所行きの顔を取り戻し、軽く腰を落として白い彼にあいさつをした。



「こんばんは、ジェントルマン。こちらこそ昨晩はありがとう。今夜も来てくれたのね。嬉しいわ」



 下手に出ながらも、心の中では「どうしてなかなか姿を見せなかったのよ」と高慢なあたしが唇をとがらせる。

でも、こうしてまた声をかけてきたということは、あなたはやっぱりあたしが想像した通りの男性だったというわけね。

もちろんそんな感情的なことを思っても、おくびにも出さない。

駆け引きの手綱を握るためなら、気持ちを押し込めるのなんて造作もないことなのだ。



「あなたがステージに上がる夜は、必ず伺います」

「本当? そんなことを言われたら、ちゃんと来てくれているかどうか毎晩確認しちゃいそうよ」



 前屈みになって試すようなことを言うあたしを見て、老紳士は優しい吐息で笑った。



 この人は、今夜も変わらずあたしがむずがゆくなるような態度をみせてくるのか。

はっきりと下心が滲むわかりやすい目に慣れているせいで、白い彼の視線にはむずむずしてしまう。

今夜の彼は、昨晩よりも熱く、真っ直ぐな目であたしを見つめているように感じる。

それなのに、クリーンさは昨晩と同じだ。

例えるなら、水槽の中で泳ぐ魚を熱心に目で追いかける少年のような、無垢な瞳だ。

そんなに一生懸命見つめなくても、あたしは逃げたりしないのに。

時々は目を逸らしてもらわないと、ささいないたずらもできなくなる。



 老紳士は大きな手の平をそっとこちらに差し出した。



「どうぞ。受け取ってください」



 一目見た時、その手に乗っているのは一輪のバラに見えた。

はなびらの先だけほんのりとピンクに色づいている、とびきり大きな白いバラだ。

両手で受け取って初めて、それが生花ではないことに気がついた。

目線の高さに掲げてみると、やわらかな不織布がうまい具合に重なってひだを作った、ラッピング袋だった。



 真っ白いスーツに大輪のバラ。

年若い男がやったら浮いてしまいそうなその組み合わせも、この人には違和感を覚えなかった。

それはこの老紳士が、ひと昔前の映画の世界から抜け出してきたような雰囲気を持っているからだろうか。

向かい合っていると、あたしまでヒロインになったような気持ちが芽生えた。



「本物のバラかと思ったわ。どうもありがとう」

「今晩の贈り物は、知る人ぞ知る名店のキャンディです。お口に合えば幸いです」



 老紳士の隣にいた男が、わざとらしく音を立てて吹き出した。



「キャンディだって? そんなもんじゃ、今時泣いてる子供だってあやせないぜ」



 つまらないヤジにも顔色を変えず、老紳士はあたしを見つめている。

下らないことを言う男の向こうずねを偶然に見せかけて蹴りつけて、あたしは老紳士に一歩近づいた。



「あなたのセンス、とても素敵よ。昨日頂いたチョコレートも綺麗だった。このバラの包みの中にどんなキャンディが入ってるのか、開けるのが楽しみだわ。ねぇ、せっかくだから一緒に食べない? あたし、あなたとまたゆっくり話がしたいの」



 あたしの言葉に、周囲の輪がざわりと波立った。



「誰なんだ、あいつは。男は大勢いるのに、わざわざあんなじいさんを選ぶのか?」

「あの白スーツ、昨日クルトを車で送っていった奴じゃないか?」

「じゃあクルト、二晩続けて同じ相手に声をかけたってのかよ」

「本当か? クルトが同じ奴を相手にするなんて、今までなかっただろう」



 確かにあたしは、二晩続けてこの人と夜を共にしようとしている。

でもね、昨晩はやましいことなんてこれっぽっちもなかったの。

だからノーカウントにしてちょうだい。

今夜たっぷり遊んだら、明日からはまた違う男の手を取るから。



 好き勝手に囁かれる不満は聞こえないふりをして、老紳士の答えを待つ。

お利口さんの顔をして上目で見つめ、瞳に少しだけ熱を込めて。



 念を押したり強引に頷かせようとはせず大人しく待つあたしの期待を、老紳士は笑顔を浮かべたまま、あっさりとへし折った。



「申し訳ありません、レディ。今晩はもう帰らなければ。昨晩慣れない夜更かしをした反動で、眠くて仕方がないのです」



 掲げた右手で帽子を持ち上げ、穏やかな口元が別れの言葉を紡ぎ出す。



「今晩もとても楽しかったです。またお目にかかれる夜を楽しみにしています。おやすみなさい、レディ」



 少しの未練もないという様子で深く笑みを浮かべ、老紳士は手入れの行き届いた革靴を鳴らし、本当にその場を後にした。

あまりの去り際のよさに空気がしんと静まる。

あたしも何が起きたのか把握できず、ぽかんと口を開けてその背を見送った。



 老紳士の足音が遠ざかりその姿が見えなくなると、あたしの予定が空いたことを知った男たちが一斉に誘いをかけてきた。

頭の切り替えができないのは、取り残されたあたしだけだ。



 まさか断られるとは思わなかった。

突然現れて、あっさり去っていくなんて。

あたしを待ってプレゼントをよこすということは、あたしが欲しいという意味なんじゃないの?

そうでなければ、あなたからの贈り物にはどんな意味があるっていうの?



 置いてきぼりにされた事実にも、周囲の騒々しさにも、だんだん腹が立ってきた。

大勢の男が見ている前であたしを振るなんて、いい度胸をしてるじゃないの。



「クルト、今夜はオレと」



 前に立った男の顔も見ず、胸ぐらを掴む程の勢いで力いっぱい誘いに乗った。



「ええ、行くわ。あなたはあたしとの夜を期待して、ここで待ってプレゼントをくれたのよね? そうよね?」



 あたしの気迫に押され、男はしどろもどろになりながら頷く。



「も、もちろんさ」

「それならあたしをとびきり楽しませてくれるんでしょう?」

「ああ、そのつもりだよ」



 嘆く男たちの声なんてもう耳には入らない。

無様に断られた事実なんてなかったことにして、一刻も早くここを離れたかった。

エスコートされるのを待っていられず、あたしの方から男の腕を引いて足早に歩き出した。





 その夜の恋人はとても優しい男だった。

生娘の相手にするように、時間をかけてあたしの身体を隅から隅まで温めてくれた。



 けれどどれだけ優しくされても、今夜のあたしはちっとも満足できなかった。

もちろん、恋人に選んだこの男のことを愛しく思う気持ちはある。

それなのに意識は度々途切れ、老紳士に断られた時の悔しさを思い出してはため息がもれそうだった。



 愛しい、愛しいと心の中で繰り返しながら、あたしは長い夜を消費した。

時折ちらつく白い後ろ姿なんて少しも気にならないと、自分自身にきつく言い聞かせて。



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