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ホワイトマン  作者: 水見 あさや
3.一方通行
30/67

3-2


 開演を告げるベルがけたたましく響き、照明が静かに落ち始めた。

客席をさわさわと賑わせていた雑音も次第に息を潜めていく。

光沢のあるベルベットの緞帳はまだ下りたまま。

でも、この時からステージは始まっている。



 キャッシュマクレーでは、昔から新米が幕上げを行うことになっていた。

経験の浅い子が一日でも早く一人前になれるように、観客の目に慣れさせるのが目的だ。



 マクレーに入ったばかりの頃、あたしも幕上げの役を与えられた。

当時のあたしは、今より恥じらいをもっていて、愛想もそれほどよくなかった。

それが、初めて幕上げをしたその時に、スポットライトを独占する快感を知ってしまった。



 新米のあたしに与えられた幕上げの演目には「ラブラビット」というタイトルがつけられた。

「人見知りの子ウサギを人間に慣れさせる」というのがテーマで、大きなうさぎの耳と小さな尻尾をつけてステージに立った。



 緊張と、それに伴う恐怖から楽屋で震えるあたしに、支配人は「失敗は結構、だが決して動きを止めるんじゃないぞ」と繰り返し言い、マージは「好きにやりな」と送り出してくれた。



 おののく気持ちを必死に押し込めてステージに上がり、開始位置に立つと、照明席で待ち構えていたロキオがあらかじめプログラムしたサウンドエフェクトを鳴らした。

間を置かずに、細く絞ったスポットライトをあたしに向ける手はずだ。

客席に背を向けた状態でのスタンバイで、その時のあたしにはまだホール内の様子はわからない。



 練習と同じ効果音、同じ照明に合わせ、何度も練習したタイミングで振り向く。

その瞬間、身体が硬直した。

ホール内は暗く、観客一人一人の顔は見えない。

けれどたくさんの目に見られているという感覚が、そこには確かにあった。

一人ぼっちでライトにあぶられ、顔の見えない影のような人間の好奇の目にさらされていることを強烈に意識する。

緊張の線が一気に振り切れて頭の中が真っ白になり、本当に震える子ウサギになったような気がした。



 そんな恐怖心が緩んだのは、スピーカーから音楽が聞こえた時だった。

すっかり身体に馴染んだ前奏が、あたしに動けと命令する。

人混みの中で親しい人間を見つけた子供のように、その音楽に縋りついて身体を動かした。

この音楽は知っている。

そして、これにしがみついていれば、じきにもっと頼もしい声が聞こえてくることも。



 力強い声がホールを揺すった。

あたしの震えを叱咤し、瞬時に目を覚まさせるマージの声だ。

縋りついた前奏とは比べ物にならない心強さに、さっきとは異なる震えが指の先まで走った。



 録音されたマージの歌声が、身体中に散る怯えを拭っていく。

今はステージに一人きりでも、マージの声があたしを支えてくれる。

ここでみっともない振る舞いをしたら、楽屋に戻った時にきっと笑われる。

姉のように、時には母のように接してくれるマージに呆れられたくない。

叱られたくない。

どうせなら、よくやったとめいっぱい褒められたい。

様々な気持ちが交錯して、身体中に力がみなぎった。



 太股をくすぐるお飾り程度のスカートを翻し、網タイツに締め付けられる爪先を高く掲げ、目尻が長く伸びるつけまつげをしばたかせる。

ここぞというポイントを正確に決める度、客席の視線が熱を帯びていくのがわかる。

さっきまで他人だった観客が、一人、また一人と味方になっていく。

みんながあたしを見ている。

今ではすっかり好意的な目で。

あたしは今、このステージの主役なんだ。



 それを実感した時、音もなく恐怖が晴れた。

周囲には一点の曇りもない。

隔てるものは何もなく、どこへでも、どこまででも行けるような気がした。

こんなに自分に自信が持てたのは生まれて初めてのことだった。



 あたしの変化に気付いたロキオが、不意にわざとスポットライトを明後日の方向に向けた。

途端に周囲が闇に飲まれ、暗がりの中に取り残される。

さっきまであたしを照らしていた強い光が、今は三歩分離れた誰もいない場所に向いている。



 アクシデントかと不安を抱くよりも早く、反射的に身体が動いた。

ステップを踏みながらライトを追いかけ、あたしは再び光の中に飛び込んだ。

客席から歓声が上がり、高揚が更に高まる。

胸の間を流れる汗の感触も、敏感になった身体には官能的に感じられる。



 緞帳が下りた状態のステージは狭く、伸ばした爪先が最前列のお客に届いてしまうんじゃないかと思う程に客席が近い。

細長く限られた空間を端から端まで使い、与えられた時間を味わい尽くす。

曲に合わせて声を張り上げても、スピーカーから流れる大音量にかき消されて誰にも届かない。

それでも黙っていられなかった。

身体の中に留めておくことができないくらい強い感情が、次から次へと飛び出していく。



 楽しさのあまり、危うく自分の役目を忘れるところだった。

予定よりもずれてしまった立ち位置を音楽に乗って修正しつつ、ステージの上手へと移動を始める。



 予定通りの場所に立ったあたしを見て、ロキオが音響装置を操作した。

騒々しく鳴っていたバンドの演奏が余韻を残してぴたりと止み、それと引き替えにガラスのマドラーがグラスにぶつかるような涼やかな音がちりちりと響く。

まるで、あなたの出番はもうおしまいよ、そろそろ次のステージに切り替えなさい、と急かすような音だ。



 それに合わせて小刻みにステップを踏み、ステージの端に立った。

指先までぴんと伸ばした右手を斜め上に掲げ、手首をくるくる回す。

それに合わせて、ステージの袖に潜んだアレルとジョーが、幕上げの太いロープを引いた。

ドレープを揺らしてするすると緞帳が上がっていき、それまであたしを照らしていたスポットライトが、ステージの奥にスタンバイしていたショーガールたちへ移った。

先輩ショーガールたちが足音を鳴らして前方に出てきたのを確認して、あたしは名残惜しい気持ちを残しつつ退場した。



 楽屋に戻って支配人にもみくちゃにされても、なかなか現実に戻ることができなかった。

マージが「よくやった」ときつくあたしを抱きしめている間も、心臓は痛い程に鳴っていた。

たった一人で世界をかき回したことの興奮が、繰り返し胸を叩いている。

泣きもせず、笑いもせず、いつまでも信じられないような顔をして、あたしはしばらく全身で呼吸をした。

無事に役目を果たしたラブラビットは、光に満ちたまばゆいステージに、すっかり虜になっていた。



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