2-14
「今夜はエスコートをさせてくださってありがとうございました。あなたのおかげでとても素敵な夜になりました。ささやかなお礼に受け取ってください」
老紳士は、闇に映える白いスーツの胸ポケットに手を差し入れ、手の平に乗るくらいの小箱を取り出した。
それは小さくても、胸元に入っていれば気付く程度の厚みがあった。
その姿を何度も眺めたはずなのに、まったく目に留まらなかった。
ひょっとすると、あたしを部屋に残して車に戻った時にこっそり仕込んだんだろうか。
暗い車内で、長身を屈めて小さな贈り物を胸に忍ばせる老紳士の様子を思い浮かべ、くすぐったい思いが込み上げる。
老紳士にならってあたしも姿勢をきちんと正して、差し出された小箱を両手で受け取った。
「どうもありがとう」
「どういたしまして。では、私はそろそろ失礼します」
満足げな笑みをふわりと浮かべ、老紳士は玄関から一歩、外に出た。
「本当に帰っちゃうの? 今夜のお礼にお茶でもいかが?」
「ありがとうございます。ですがレディの夜を邪魔する程、世間知らずではありませんから」
夜更けに女の誘いを断ることの方が世間知らずに当たるんじゃないかと思ったけれど、それはあたしの物差しで測った夜の話だ。
清潔な色が似合うこの人にとっては、出会ったその晩に結ぶ関係なんて汚らわしいものなのかもしれない。
車の中で「もうからかわない」と約束したのもあるけれど、しつこく色恋に結びつく話をして軽蔑の目を向けられたくないという思いが働いた。
誘いをかけるのはやめにして、あっさり引き下がることにした。
「今夜は助けてくださってありがとう。とても助かったわ。今度改めてお礼をさせてちょうだいね」
「とんでもないことです。あなたの時間を少しでも頂けただけで十分ですよ。それではお嬢さん、よい夢を」
「ありがとう。あなたも素敵な夜を」
最後まで穏やかな笑みを崩さず、老紳士はハットを持ち上げて小さく会釈をして、静かにドアを閉めた。
扉の向こうの気配が遠ざかり、階段を下りる足音が聞こえ、しばらくして遠くで共有ドアが閉まる音がした。
運び込まれた荷物をそのままに小走りでベッドルームまで行き、通りに面した窓を開いた。
あたしを下ろした時と同じ場所に車はまだ停まっていて、その傍らで老紳士がこちらを見上げていた。
あたしが窓を開けたことに気付き、その身体が揺れる。
小さく手を振ると、部屋を出る時と同じくまた会釈を返された。
老紳士が乗り込んだ後、車は音もなく滑り出し、来た道を引き返して見えなくなった。
本当に帰ってしまった。
親愛のキスどころか、手を握りもしないまま。
あたしの部屋まで来たのに、中にちらりとも興味を持たずに。
今までたくさんの男と過ごしてきたけれど、あんな人は初めてだ。
好意を滲ませてはいるものの、あたしの身体には指一本触れず、目的を果たしてすんなり消えた。
あまりにも潔くて拍子抜けする程だ。
ステージをこなした夜にこんなに早く帰ってきたのも初めてだった。
「変な人」
窓から吹き込む夜風が、身体の表面を冷たい手で撫でる。
でも心は不思議と温かくて少しも寒さを感じなかった。
不意に車の中で見た、あたしの話に慌てふためく彼の姿を思い出した。
性懲りもなく笑いが込み上げ、更に温かい気持ちになった。
窓を閉めてリビングに戻り、真っ先に老紳士からの小箱を開けた。
十字にかけられたリボンを解いてふたを開くと、中は四つに仕切られていた。
その一つ一つの部屋に入っていたのは、磨き上げられたようにつやめく大粒の宝石だった。
ルビー、サファイア、エメラルド、トパーズ。
円形だったりカットされていたりと形は様々だけれど、どれもマットな質感だ。
中でも目を引く真っ赤なルビーをつまみ、明かりに透かした。
岩場に転がる石のように透明感のないそれは、光を反射したり中が透けたりは一切しなかった。
掲げたまま角度を変えて覗き込むうちに、どういうわけか指がだんだん濡れてきた。
慌てて箱の中に戻し、どうしたのかとまじまじと見て、納得した。
指先の熱でかんたんに溶け出すそのジュエリーは、チョコレートでできていた。
昨晩、ホテルのフロントマンがくれたチョコを思い出す。
グラマンテのように、一粒単位で値段がつけられている高級チョコはいくらでも食べたことがあるけれど、こんなに美しいものは見たことがなかった。
部分的に光沢を失ったルビーを舌の上に乗せる。
口の中に閉じ込めると、それはじんわりと溶け出して甘い尾を引きながら舌先を滑った。
小さくなるチョコを追いかけて転がすうちに、ルビーは控えめな甘さを濃く残して跡形もなく消えてしまった。
あの人はどこでこれを仕入れてきたんだろう。
あたしはあの人より長くこの街にいるのに、こんなにきれいなチョコがあるなんて知らなかった。
何の前触れもなく現れて、たくさんの荷物を運ぶのを手伝い、下心の欠片も見せずに消えた、幻のようなジェントルマン。
夜毎人が入れ替わるこの街でも、あの清潔さにはなかなか出会えない。
「変な人」
再度そう呟いてから、それが的外れであるように思えて言い直した。
「不思議な人」
そう呟いた口元が笑っていたことを、この時のあたしは気付かなかった。
その夜は、歌った後なのに少しも荒れない、初めてだらけの夜だった。
*




