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いつもより二時間早く、マクレーの裏口をくぐった。
楽屋では衣装係のイルが、色とりどりの生地をテーブルいっぱいに並べて新作のステージ衣装のデザインを考えていた。
ホールを覗くと、ステージ設営係のアレルとジョーがセッティングをしていた。
二人は年子の兄弟で、息の合った調子でてきぱきとステージを作っていく。
その様子を照明兼音響係のロキオが、面白半分でやたらとムーディなライトで照らし、三人でげらげら笑い合っていた。
楽屋の奥に置かれた小さなデスクでは、マージが帳面と睨み合っていた。
「おはようマージ」
「ああクルト、おはよう。おや、素敵な帽子だね。プレゼントかい?」
「ええ。この街は冬でも日差しが強いから助かるわ」
書類が広げられたデスクの角に浅く腰かけ、ワインレッドの口紅の跡が残るカップを覗き込む。
「なに飲んでるの?」
「マージ特製ベジタブルミックスジュースだよ。なに、あんたも飲みたいのかい? そうだな、これは日常生活が乱れに乱れたあんたにこそ相応しい飲み物かもしれない。早くに出勤してきた優等生に、特別に飲ませてやるとするか」
冷蔵庫に作り置きしてあるどろりと濁った緑色の液体を大きなグラスに並々注がれて、思わず顔が引きつった。
更に「冷たいうちに残さず飲みな」と釘を刺され、きれいに飲み干すまでそこから動けなくなってしまった。
マージは自他共に認める菜食主義だ。
口にするものには気を配っていて、肉や甘いものは滅多に食べない。
そんなマージが作るジュースは、苦くて青臭くておまけにやけにもったりとしていて、飲み込むのに時間がかかる厄介なものだった。
なんとか強引に飲み下しても、五月の牧草地に吹くさわやかな風に乾かされた土みたいな後味が口の中にしばらく残り、さえない表情しかできなくなる。
甘党のあたしには到底理解できない味で、初めて飲んだ時はあまりの渋さに口が痺れ、味覚がおかしくなるかと思った。
グラスの中身をちびちび飲んでは顔をしかめているあたしに、長い足を組んだマージが言う。
「相変わらずあんたは夜遊びが盛んだね。いろんな経験を積むのはいいことだけど、もう少しやり方を考えないといつか痛い目を見るよ。この街じゃ、いつどこで、何に巻き込まれるかわからない。その可能性を減らすには、自分で自分を守るしかないんだ」
マージはあたしを心配する時、よく「何かに巻き込まれる」という言い方をした。
その「何か」の正体も、耳にたこができる程に聞かされている。
夜の闇に紛れて女を狙う、怖い怖い人さらいのことだ。
この街で働く人間は、日常的に行方をくらませる。
様々な事情でポーラーを出なければならなくなったり、よその店に引き抜かれるなんてのは平和な話だ。
マージが危惧しているのは、それ以外の失踪のケースだ。
幸いマクレーで被害が出たことはないものの、同じエリアや近所の店のショーガールが姿を消したことが何度かあるらしい。
手分けしてポーラーやホワイトナイトを探したけれど、結局その子は見つからなかった。
黒い噂の一つもないことや、街の唯一の出入り口である門から出た形跡すらないことがわかり、その子は行方不明ということになった。
野心や好奇心が旺盛な若い女を招く魔の手は、様々な形で張り巡らされている。
ポーラー内の情報網によると、金を餌に引き寄せられたり、恋人の皮をかぶった悪人の甘い囁きに惑わされたり、誘拐同然に連れ去られたりと、様々な手法があるらしい。
その手の人間に捕まると、劣悪な見世物小屋や、身体を売る店、ひどい時には言葉の通じない異国へ売り飛ばされてしまうという。
意思の疎通ができない異世界に金で買われていくなんて、想像しただけでもぞっとする。
今まで、神妙な面持ちのマージに「夜に紛れて生きている男には気をつけるんだよ」と諭されたことは数えきれない。
心配してくれてありがとうと告げると「あんたはうちの大事な稼ぎ頭の一人なんだから、下らない男に連れていかれると困るんだよ」と冗談で返された。
けれどその瞳には、思わず怯んでしまう程の真剣な色があった。
マージの不安はわかるし、心配してもらえるのはありがたい。
でも昨晩みたいに、一服つく度にあれこれ言われるのは正直鬱陶しかった。
あたしは、誰かに守られないと生きていけないような子供じゃない。
善悪の分別くらい自分でつけられる。
マージの過度な心配をはねのけようと、威勢のいい音を立ててデスクにグラスを置き、ぐっと胸を張った。
「心配しないで。あたし頭はよくないけど、そんなにとろくないもの。自分の身は自分で守れるつもりよ」
「へぇ。鍵のかかる部屋に、よく知りもしない男と裸でいる時でも?」
マージは口元に笑みを浮かべ、とがった視線であたしをちくちくと刺した。
まばたきもせずに執拗に見つめられ、冗談めかして小言をかわそうという気がそがれてしまった。
オーバーなアクションをとろうとしていた手をぱたりと下ろし、ついと視線を逸らした。
「裸の時はだめかもね」
「それなら敵を作らない努力をしな。いつも言ってるだろう。その場限りの甘い考えを直さないと、いつかトラブルを生むって。あんたも一応名が知られてるショーガールなんだ、もう少しその自覚を持ちな。まずは危なっかしい夜の過ごし方を改めた方がいい」
一歩も譲らない態度のマージに食ってかかってもいいことはない。
頭ではそう理解しているのに、強気な姿勢でこられるとどうしても言い返さずにはいられなくなる。
さっき逸らした視線を戻し、眉を持ち上げて問いかけた。
「危なっかしいってどういうこと?」
「誰にでも気のあるような態度をとったり、ランダムに相手を選んだりすることさ」
「じゃあ、声をかけてきた順に番号札を渡して、その通りに相手をしろっていうの? いやよ、そんな味気ないの」
「そうじゃない。誰彼構わず寝るのをやめろってことだよ」
「ポーラーは自分の気持ちに素直になるのが許される街でしょ?
それはここに来るお客だけじゃなく、働く人間にも適応されるルールのはずよ。
あたし、色んなタイプの人間と幅広く恋愛してみたいの。
何も好みの男だけ選り好みしてるわけじゃないわ。
全員平等にしてるからこそ、今まで目立ったトラブルが起きてないんだと思うの」
「自由な街であんたを縛るのは私だって気が進まない。でも、あんたの場合は度が過ぎてる。夜遊びをやめたら男たちからブーイングが起こるだろうけど、物騒なことに巻き込まれて刺されるよりいいだろう」
「いやだ、なんてこと言うのよ。とんでもない例え話はやめてよね。そもそも、そんな風に疑い出したらきりがないじゃない。夜道を歩く男がみんなナイフを隠し持っているかもしれない、なんて考えすぎよ。大体マージはいつも心配しすぎなのよ。あたしがうまくやってるの、知ってるでしょ?」
マージが無言で腕を組み、目を細くしてあたしを見据えた。
話の最中にマージがこの姿勢をとったら、それは危険な兆候だ。
マージの頭の中で言葉がまとまったその時から、一方的なお説教タイムが始まる。
それに捕まったら最後、一時間は離してもらえなくなる。
せっかく早めに来たのに、このままだとリハーサルの時間がなくなってしまう。
あたしは再びグラスを掴み、息を止めて中身を呷った。
全身が緑色に染まってしまうんじゃないかという錯覚に目が回しながら、喉を鳴らして最後の一滴まで残さず飲み下す。
あたしをこの場に引き留める原因をさっぱり退治してしまってから、デスクから立ち上がり口の端を拭った。
「さてと、そろそろ行かないと」
「逃げるのか。話はまだ終わってないよ」
「違うわよ。あたしリハーサルがしたくて早く来たのよ。今夜は久しぶりに歌を歌うから、あなたのお眼鏡に適うように練習しておきたいの」
ステージのことを絡めると、マージの言葉が詰まることは知っている。
大きな溜め息は聞こえないふりをして、指先でグラスのふちをなぞる。
「健康になれそうなドリンクをごちそうさま」
「気に入ったんなら明日も振る舞うよ。飲み続けていれば、刺されてもびくともしない丈夫な身体になれるかもしれない」
「だから物騒な話はやめてよ。縁起でもない」
ひらひらと右手を振って、あたしはロキオの元に向かった。
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