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ホワイトマン  作者: 水見 あさや
1.日常
10/67

1-9


 タクシーに乗り込み、あたしたちはポーラーを後にした。

昼の間も太陽が昇らない極夜を意味する、ポーラーナイトの異名を持つ街。

それを取り囲むのは、夜も太陽が沈まない白夜を意味する、ホワイトナイトと呼ばれる健全な街だ。



 ホワイトナイトは、高層ビルやブランドショップが立ち並び、流行の発祥とされている都市だ。

雑誌で取り上げられる品物はなんでも揃えられる。



 ポーラーと対照的にホワイトナイトの夜は暗い。

店やオフィスに人気はなく、どこもシャッターが下りている。

明かりといえば、申し訳程度に設置された街灯や、オフィスやショーウィンドウのぼんやりとした常夜灯くらいだ。



 ディナーに向かった先は、スパイシーな異国料理を振る舞う高級レストランだった。

癖の強い食前酒で乾杯をして、改めて男に向き直った。



 男と二人きりになった時、軽い自己紹介から始めるようにしている。

酒が内臓を温めていくのを感じながら口を開いたけれど、それより先に向こうがねっとりとした口調で言った。



「やっとおれを選んでくれたね。今夜をずっと待っていた。どれだけ通っただろうな。おれのことを覚えてる?」



 面倒なタイプの男を選んでしまったと、心の中で顔をしかめる。

こういうことを言い出す男は、プライドが高く独占欲が強い。

嘘で固めたあたしの視線にまんまと騙され、ろくに話をしていないのに相思相愛のようなことを言ったり、勝手な運命論を語ったりする。

けれどこういう男は初めてじゃないから、そのあしらい方も心得ている。



「もちろんよ。でも、ごめんなさい。どんな話をしたかまでは覚えてないの。毎日があんまりにも目まぐるしくて、忘れたくない大切なことまで消えていっちゃうのよ。でも、あなたとの夜を待ち望んでいたのはあたしも同じよ。今夜をとびっきり濃厚な夜にして、忘れっぽいあたしの記憶を上書きしてね」



 口先だけの言葉を、めいっぱいの悲しみを込めてごまかした。

あたしはこの男のことなんてさっぱり記憶していない。

前夜に相手をした男の顔すらあっという間に忘れてしまうあたしだ。

何度ステージを見に来ようと、どれだけ高価な贈り物をされようと、一人一人の顔を覚えることなんてできない。



 男は機嫌を損ねた様子も見せず、胸ポケットに指を入れ、何かを思い出したように肩をすくめた。



「名刺を切らしてるんだった」

「あら、それは好都合だわ。ポーラーの女には、本当の名前は教えちゃいけないの。夜を生きる女は、複数の顔を器用に使い分けるのよ。どんな表情が隠れているかわからないから、不用意に名乗ってはいけないわ。そもそも、夜は危険な時間よ。闇に隠れて、誰が聞き耳を立てているかもわからない。だから本当のことは言わないでいて」

「なるほど。じゃあ君の名前もあの街でしか通用しない通り名なのか?」

「ええ。クルトという名はマージがつけてくれたの。いい名前でしょ? 気に入ってるの。あたしはこの唇でしか、自分のことを証明できない。だからあなたも名刺は使わずに、その口からあなたのことを教えて」



 空気をかき混ぜるように動かすあたしの指先を、男はぼんやりと見つめている。

すきっ腹に酒が回って気持ちよくなり始めているのかもしれない。



「あたしはあなたのことを何も知らない。だからこそ都合のいいことしか知りたくないの。今夜のあなたの恋人はあたしよ。いつも大事にしている人のことは忘れて、あなたもあたしだけの恋人になって」



 とろんとした目をする男を、指先で小さく招く。

黙っていても熱がほとばしる欲深い目を、額がくっつく程の距離で上目づかいに見つめて、吐息だけの声で囁いた。



「ありったけの愛を、たっぷり注ぎ込んでね」



 今にも唇に噛みついてきそうな口元を指で軽くなぞり「食事を終えるまではだめ」とたしなめた。



 かんたんな自己紹介の中、男はディールと名乗った。

その名の通り、商品売買の仲介の仕事をしていると言った。



「顧客の求める商品を探して提供するのがおれの仕事だ。よその商人から品を仕入れることもあるけど、大体は自分で、街を歩き回って調達する。小さくて軽いものから、歯を食いしばらないと持ち上げられないものまで、なんでもね」

「いろんなものを扱ってるのね。具体的にはどんなもの? 家具かしら」

「家具の時もあるし、装飾品や食品、ペットだったこともある。顧客の要望に沿うものを揃えるのは大変だけど、間に余計な人間を挟まないから、取り分をそのまま懐に入れられる」

「へぇ、そうなの。大変なお仕事なのね。いつもお疲れ様」



 尊敬と同情、労いを込めて囁き、ディールにグラスを傾けて乾杯の動作をした。



 男といる時、あたしはいつも聞き役に回る。

語られるのがあくびが出る程つまらない話でも、熱心に頷き続きをせがむふりをする。

この夜を快適に、そして熱くするためのささやかなリップサービスだ。

親身になって寄り添うと、男の心はぐっと開きやすくなる。

これはいくつもの夜を越えて会得したやり方だった。



 酒をたらふく飲んだディールは、あたしを情熱的な瞳で見つめるようになってきた。

ドレスを透かして素肌を見るようなねっとりとした目付きだ。



「君を独占できるこの夜を、おれはずっと待っていたんだ。次は何がしたい? どこへ行きたい? どんなわがままでも叶えてあげるよ」



 試しに「オセロットが飼いたい」とでも言ってみようかと思ったけれど、本当に贈られても困るからやめた。



 食事は終えた。

デザートも済ませた。

となれば残るは一つしかない。

熱っぽい視線でディールを見つめ返し「もっと近くであなたの話が聞きたい」と囁いた。



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