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鷲爪伝  作者: 堀井俊貴
第二章 西の桶狭間
9/62

有田中井手の合戦(一)

 安芸の守護である武田元繁が、傘下の豪族に大動員を掛けたのは、重蔵が安芸に入ってから一月ほど後――御前試合のわずか五日後の事であった。この時期まで出陣を遅らせたのは、秋の刈り入れとその収税が終わるのを待っていたためであろう。

 その報せが高松山に届いた夜、重蔵を離れに呼んだ孫次郎は、


「いよいよ合戦いくさが始まるぞ」


 手酌で酒をあおりながら興奮気味に言った。

 向き合った二人の間には絵図が置かれ、それぞれの傍らには酒器がある。酒器に満たされているのは熊谷元直から褒美に賜った酒で、備前の名酒であるという。


「武田のお屋形は十月一日に出陣なさる。我らはこの城下で武田の軍勢を迎え、共に進むことになる」


 武田氏の本拠・佐東銀山さとう かなやま城(広島市安佐南区)から北東に向かって伸びる可部かべ街道(出雲街道)が、熊谷氏の高松山城の西麓に直結している。本拠で集結を終えた武田軍は、二日後にこの街道を北上して高松山城下に入る予定なのだそうだ。

 可部街道はそのまま辿れば北の高田郡へ通じ、毛利氏の本拠である吉田へと到るらしいのだが、街道沿いの山々には数珠球のように毛利氏の枝城が築かれていて、力づくで押し通ることは得策ではないらしい。


「此度は――」


 孫次郎は絵図を指差した。


「こちらの石見街道を進み、北西の山県郡やまがたごおりへと向かう」


 その山県郡こそが、武田氏とこれに敵対する毛利・吉川両氏が奪い合いを演じている境界なのだという。

 山県郡は安芸北部の西端にあり、そのほぼ北半分を吉川氏が抑えている。南部には山県氏、今田氏、壬生みぶ氏といった武田氏傘下の国人領主があり、それぞれ山砦を構えて領地を守っているらしい。


「ここ――山県郡の真ん中にあるのが有田の城じゃ。この城は、かつてはお味方のものであったのだが、一昨年に吉川・毛利に奪われた。その頃、我らは武田のお屋形に従って安芸の南西部の敵城を攻めておったが、北の守りを破られたために、お屋形は腹背に敵を受ける形となったわけじゃ。お陰で近隣を平らげるのが半年は遅れた。いわば因縁の城じゃな。現在いまは吉川の小田刑部ぎょうぶとか申す男が守っておるらしい。お屋形は、まずはこの城を取り返すおつもりなのであろう。ここを取れば、吉川の大朝にも毛利の吉田にも道が通ずる」


 吉川氏の小倉山城と毛利氏の郡山城の位置が、絵図には描き入れてある。


「なるほど・・・・」


 重蔵はもっともらしい顔で頷いた。


「おぬしが探しておる宍戸家俊は――」


 孫次郎は指で絵図を指した。


甲立こうだち――この辺りじゃ。吉田から北東へ一里半ほどかな。この五龍城が宍戸の居城よ」


 毛利氏の本拠と宍戸氏の本拠はほとんど隣接しているように見える。

 まぁ、それはともかく――と、孫次郎は話題を戻した。


「この有田城を睨むように、西に半里のこの山に今田氏がる今田城がある。おそらくここに兵を集め、吉川・毛利の動きを眺めつつ有田城を攻めるということになろう。吉川・毛利が有田城を救援に出て来てくれればシメたものよ。城攻めには日数が掛かるが、野戦でなら一息に叩き潰せる」


 孫次郎は自信満々である。吉川・毛利の如き小物を相手に、安芸の守護である武田氏の大軍が負けるはずがないと信じているのであろう。

 重蔵は諸豪族がそれぞれどれほどの動員力を持っているか、などという事をまったく知らないし、現地の地理地勢にも暗いから、合戦の推移を予見できるような立場ではないのだが、孫次郎の楽観ぶりを見ることで、やや気楽な気分にはなっている。


「此度の合戦いくさ、わしも孫次郎殿のご陣の端に加えてくださらんか」


 と申し出たのも、別に命懸けで功名を得ようというような気概があったわけではなく、

 ――大きな合戦をこの目で見てみたい。

 という物見遊山的な好奇心からに過ぎない。


「おぉ、そうしてくれればわしも心強い」


 孫次郎は破顔して喜んだ。


「雑兵の腹巻でも貸して貰えれば有り難いが――」


「何を水臭い。わしのために骨を折ってくれるというおぬしに足軽の真似なぞさせられようか。わしの換えの鎧があるで、それを使うてくれればよい」


「いやいや、人には分相応という事がある」


 孫次郎と二人きりの時は、重蔵もややざっかけない口調になる。


「わしに武者の装束などは似合わぬさ」


「何を申すか。そもそもおぬしは上北面のはた出羽守でわのかみすえと申すではないか。世が世なら、無位無官のわしなどは同座することさえはばからねばならぬほどの武門の名家ぞ」


「大昔の話よ」


 重蔵は苦笑した。


「わしは足軽稼ぎで暮らして来た素浪人に過ぎぬゆえ、着慣れぬ大鎧なぞを着て合戦に出るのは落ち着かん。重うて動きにくいしな。できれば御免こうむりたい」


「困った御仁じゃ・・・・」


 孫次郎は腕を組んで嘆息した。

 重蔵が吉岡兵法所で軍略を学んでいたことを孫次郎は知っているし、その実戦経験の豊富さも買っている。客分の待遇で己の馬廻りに組み入れ、常に自分の傍近くに置き、色々な場面でその意見を聞いてみたいと思っていたのだが、雑兵姿の者を馬に乗せるわけにもいかない。


「まぁ、そうまで言われるなら好きになさるとよい。いずれにしてもおぬしが共に働いてくれると知れば、わしの家来どもも勇み立とう」


 武田軍は十月一日の昼過ぎに高松山城下に入った。二千数百の武田本軍に、香川氏、己斐こい氏、品川氏、飯田氏、山田氏など安芸南部の豪族が加わり、総勢五千に近い大軍である。清和源氏の名流・武田氏の家紋である割菱わりびしの旗が、歩武の音と共に颯々(さつさつ)と流れて行く。

 ――あれが安芸のご守護殿か。

 中軍に馬を立てた武田元繁は、五十年配の大柄な男で、黒々とした大髭を蓄え、赤地錦あかじにしき直垂ひたたれに、紺、白、赤の三色の糸で威した見事な大鎧を纏い、阿古陀あこだ形の兜には金の三鍬形みつくわがたの前立てが輝いている。まさに威風堂々、この大軍の総大将に相応しく、どっしりとした貫禄がある。

 重蔵は、武田軍を馳迎ちげいした熊谷軍の中に居る。官給の腹巻をつけ、鉄の陣笠を被った足軽姿である。

 熊谷氏の最大動員力は千人を越える規模だが、出陣したのは五百ほどの人数であった。高松山は地理的に武田領の北東にあり、つまり熊谷氏は東側の守りを受け持っている。その領地は毛利領と接している上、安芸の南東部には小早川氏、平賀氏、阿曽沼氏といった国人一揆側の豪族たちがおり、武田氏出陣の隙を衝いてこれらが広島平野へ侵入しないとも限らなかったから、城を空にするわけにはいかなかったのである。

 熊谷軍を吸収した武田軍は、高松山から北西に進み、武田氏の枝城である下西山城で一泊した。ちなみに永正十四年(1517)の十月一日は新暦では十月ニ五日で、そろそろ晩秋と呼ぶべき季節である。周囲の山々はすっかり秋色に染まっている。

 翌日はそこから石見街道を取り、山塊に閉ざされた谷状の道を三里ほど北進した。今田城がある河内山という丘陵に到達したのは昼前である。行軍にはゆったりとした余裕があり、今日は休息と戦支度に当て、戦は明日の早暁からだという。

 ――城と言うより砦だな・・・・。

 河内山は麓からの比高がせいぜい一町ほどしかない小山である。しかし、山容の傾斜は急角度で、いかにも小豪族の根城らしく攻め難そうな作りになっている。山頂に本丸があり、南東に伸びる尾根に曲輪が三つほどあるそうだが、いずれもそれほど広さがなく、とても五千五百もの軍兵が寝泊りできる規模ではない。

 城の大手口付近に土居で囲まれた今田氏の居館があり、熊谷軍はその北側で野陣を敷くことになった。

 近隣には貧しげな百姓家が十数軒あるばかりで、城下とも呼べぬ貧相な山村である。狭い平地には刈り入れを終えた田畑が並び、遠景はどちらを向いても山また山だ。

 目指す有田城は東に半里ほど行ったところにあるそうで、河内山の山頂からなら遠望できるらしいのだが、山麓からでは手前の丘に茂る木々に遮られて視認できない。

 熊谷軍に宿営を指示した熊谷元直は、


「有田の周囲を物見せよ」


 孫次郎を含めた三人の物頭にそのことを命じた。諜者でなくわざわざ物頭を物見に出すということは、威力偵察をせよということであり、武将としての戦略眼でもって予定戦場を眺めて来い、ということでもある。三人はもちろん別々の道を取り、それぞれの才覚とセンスで情報を集める。

 孫次郎は、連れて来た人夫に宿営地の設営や飯の支度などを命じておき、自らは手勢を率いて出陣した。部隊は武者が十騎に雑兵が四十人ばかりで、そこに重蔵が加わっている。

 有田城までの距離は直線で半里ほどである。重蔵たちは四半刻で有田南郊の茫漠ぼうばくとした原野に到った。数町の距離から見渡すと、何年か放棄され荒地になった田園の中に、比高が半町にも満たない丘がぽつんと盛り上がり、城頭に吉川氏の「三つ引両」の旗が翻っている。


「城兵は三百ほどもおるか。多くとも五百を越えるということはあるまい」


 孫次郎が言った。

 石見街道が南北に通り、北東へも東へも道が通ずるこの有田は交通の要衝であるはずだが、それを睨む有田城の規模は決して大きくない。山容はなだらかで山裾が広く、要害は悪そうだし攻め口も多そうである。一度落ちた城というのは二度、三度と落ちるものであり、吉川・毛利の後詰めさえ許さなければ攻略はさほど難しくないであろう。

 城山の東側に又打またうち川が、さらにその東をかんむり川が流れている。この二本の川は十町ばかり北で合流し、北東に向かって流れてゆくらしい。川の周辺は広い河川敷のようになっていて、背の低い草木に覆われ、ぬかるんだ湿地も多い。

 重蔵たちは、葦やススキを掻き分けながら、一刻ばかり掛けて川筋の浅瀬や淵、湿地がどこにあるかなどを調べた。又打川は川幅の割りに水深が浅く、深いところでも腰まで浸かるほどしかない。

 川筋に沿って徐々に北へと進み、やがて又打川と冠川の合流点に到った。


「この辺りは中井手なかいでと呼ばれておる」


 又打川を越え、背後の丘に登りつつ孫次郎が言った。


「吉川はあの石見街道を通って北から、毛利はそこの山裾を通って東から、有田へやって来るはずじゃ」


 いずれこの中井手の鼻先を通ることになる。


「吉川・毛利の軍勢はどれほどの規模ですか」


 重蔵が尋ねると、孫次郎は首を捻った。


「それは判らぬなぁ。両軍合わせても二千を越えることはないと思うが・・・・」


「二千・・・・」


 味方の半数以下である。敵に奇襲を許さず、正面からまともな野戦に持ち込みさえすれば、まず負けることはない。

 低い丘を登り切った孫次郎は、有田の方を振り仰いでしばらく地形を見ていたが、


「又打川を堀に見立て、この地に防塁を築けばどうであろうかな」


 ぽつりと言った。

 有田城を救援せねばならぬ吉川・毛利軍とすれば、中井手の武田軍を無視して進めば背後に敵を置くことになるわけで、それはできまい。これを排除してから有田に進む以外に手はなく、その時点で有田城を攻めている武田本軍を吉川・毛利軍が背後から奇襲・急襲する、といった展開は不可能になる。

 当然、中井手の武田軍は吉川・毛利軍を一手で支えねばならぬことになるが、時間を稼いでいるうちに武田本軍が駆けつけ、吉川・毛利軍を横撃するというような形になれば、勝利はまず間違いないであろう。

 重蔵は孫次郎の隣に並び、西方に顎を向けた。有田城の丘陵が見える。明日にはあの山裾に武田軍・五千が陣取るはずであり、武田元繁の本陣はその数町南方の丘陵に置かれるに違いない。

 ――早馬なら、ここから二度往復したとしても一刻も掛かるまい。

 つまり、ほんのニ、三時間だけ敵を支えることが出来れば、武田本軍が援軍に駆けつけてくれるであろう。吉川・毛利の軍勢が二千と言うなら、防御陣地で守戦に徹する人数は、五百もあれば十分過ぎてお釣りが来る。


「悪くないかもしれませぬな」


「まぁ、吉川・毛利が必ずしも出戦して来るとは限らん。有田は吉川の城じゃ。毛利がこれを捨て殺しにするのは十分にあり得るし、戦っても勝てぬと見た吉川がこれを見捨てぬとも言い切れぬ。吉川・毛利の双方が兵を出さぬという事になれば、この中井手に配された兵はまったくの無駄になる」


「ですが、その無駄には十分な意味がありましょう」


 しゅうを打ち破ろうとすれば、夜討ちか朝駆けか、いずれ奇襲をもってするしかない。寡兵の吉川・毛利の側からすれば、正面からの野戦を望むはずがなく、必ず何らかの策を弄そうとするであろう。軍を分割するのは軍略上の禁忌だが、全軍の一割ほどを割くことで敵の奇襲を封じられるのなら、悪い勘定ではない。

 無論、孫次郎もそこまで計算に入れて言っているわけで、

 ――孫次郎殿は戦が解る。

 と重蔵は思った。


「後ほど熊谷の殿に言上なされ」


 重蔵が促すと、


「それはそのつもりだが――我が殿から武田のお屋形にそれを進言すれば、お屋形は我ら熊谷勢にここの守りを命ずるやもしれん・・・・」


 孫次郎は微妙な表情で苦笑した。


戦場いくさばにあって合戦に加われぬほど辛いことはない。こんなところを守っておるより、有田城攻めで手柄を競いたいというのが人情であろう。我が殿に貧乏クジは引かせとうないな」


 ――なるほど。

 言われてみれば、それも当然の人情である。

 彼我の戦力差を考えれば、どうせこの合戦いくさは勝つに決まっている――と、武田軍の将士は誰もが思っている。勝ち戦のどこで手柄を拾うかというのが諸将の思惑であり、緒戦の有田城攻めで華々しく活躍することをまずは考えるであろう。

 ――この驕りは危ういな。

 と、重蔵は思う。

 合戦に絶対ということはないのである。勝利の確率を少しでも上げるために十全の策を積み上げるのが軍略というものであろう。

 そうは思ったが、重蔵は武田軍の軍略にくちばしを入れるようなつもりはないし、そもそも入れられる立場でもない。あくまで傍観者の気分でいるわけで、孫次郎にそれ以上言おうとは思わなかった。

 重蔵たちは丘を下って再び又打川を越え、中井手からさらに北に進んだ。


「あれに壬生みぶ城という味方の小城がある。城兵の大半は武田軍に加わっておるゆえ、城には大して兵は残っておらぬはずだがな」


 孫次郎が北東の山容を指差しながら言った。

 そこから一行は有田城を大回りに回るようにして西に進み、今田城へと帰陣することにした。

 幸い――と言うべきか、敵兵と遭遇することもない。

 河内山が見える辺りまで来た時、鎌を腰に差し、背負子しょいこに柴の束を背負った二人の農夫と行き会った。

 重蔵たちの一隊をやり過ごすため、二人は道脇にどいて小腰を屈めた。


「そのほうども、地の者か」


 孫次郎が馬を止め、馬上から気さくに声を掛けた。

 百姓たちは笠を取り、一人が慇懃に答えた。


「へえ、左様でございます」


「武田のお屋形の軍が有田の城をお攻めになるという話は聞いておるか」


「えっ。そうなのですか。それは――」


 農夫たちは顔を見合わせた。


「戦があるのでございますか」


「ある。明日にも始まろう。有田には近づかぬがよいぞ。ところで――」


 孫次郎は人懐っこい笑みを浮かべた。


「そのほうらが背負っておる柴――それを売ってはもらえぬか。銭はそのほうらの言い値でよい」


 年かさの男がいかにも困ったという渋面を作った。


「仰せではござりますが、どうかご勘弁くださりませ。これを売ってしまうと、わしら、今宵の煮炊きができぬようになってしまいます」


「そうか――」


 孫次郎は家来たちに顎を向け、


「捕らえよ。殺しても構わん」


 と短く命じた。

 瞬間、愚鈍そうだった百姓たちが短く舌打ちし、抜き手も見せぬ早業で腰の柴刈り鎌を孫次郎へと投げつけた。

 二本の鎌が回転しながら空気を裂いて飛ぶ。

 孫次郎の馬の脇にいた重蔵は、持っていた槍でそのひとつを弾き飛ばした。

 馬上の孫次郎は、籠手で顔を庇いつつとっさに半身を捻っている。残るひとつの鎌は孫次郎の鎧の大袖おおそでに突き立って止まった。

 百姓たちは背負っていた柴を駆け寄る雑兵たちに投げつけ、すでに二方向に別れて一散に駆け出している。


「孫次郎殿、お怪我は?」


「あぁ、大事ない」


 孫次郎は鈍く笑った。

 脱兎の勢いで駆ける百姓たちはこれを追って走る雑兵より俊敏だったが、さすがに馬の足には敵わない。たちまち武者たちに追いつかれ、一人は背後から槍で突き殺され、一人は臀部を突かれて転がったところを捕縛された。

 重蔵は身を屈め、百姓たちが投げつけた柴の束を丹念に見た。

 ――昨日今日刈った柴ではない。

 いずれも枝の刈り口が黒く乾燥しており、新しいものがただのひとつもない。

 つまり、あれらは農夫に成りすました諜者なのだろう。

 ――孫次郎殿も、やるものよ。

 重蔵はその慧眼に感心した。


「大方、武田の陣容を探りに来た間者の類であろう。吉川か毛利か――帰ったらたっぷりと痛めつけて口を割らせよ」


 孫次郎は冷徹に命じ、再び馬を進ませた。



 物見から帰った孫次郎が、熊谷元直にどういう報告をしたのか、重蔵は知らない。その夜、武田軍の本陣でどのような軍議が行われたのかも聞いてはいない。

 しかし、戦略眼を持った人間の意見というのは、おのずと一致するものらしい。孫次郎と同じように、中井手の戦略的重要性に気付いた者は複数いたらしく、ここに軍勢を置いて吉川・毛利の後詰めに備えるべきという意見が通った。

 武田元繁は熊谷元直にそのことを命じ、熊谷軍・五百が中井手に防塁を築き、そこに篭ることになったのである。

 翌十月三日の早朝、武田軍は出陣し、有田城を囲んだのだが、熊谷軍は数百人の人夫を引き連れて有田城を素通りし、そのまま半里ほど北東に進み、中井手に到った。

 又打川を堀に見立て、その背後の丘に陣地を据える。丘の前面に空堀を掘り、その土を掻きあげて土塁とし、背後の山から切り出した木で防御柵を植える。城攻めの旗が動く様子を遠くに見ながら、やらされているのは地味な土木作業である。


「つまらぬ事になった」


 柵を作るための木を担ぎながら、孫次郎は何度もぼやいていた。

 熊谷元直は武田元繁がもっとも頼りにする腹心であり、熊谷軍はまさに武田軍の主力と呼ぶべき存在で、当然、城攻めの先鋒を命じられるであろうと予測していただけに、熊谷軍の中でもこの役回りに不平を漏らす者は多かった。


「我らが防塁を築き終える前に、有田の城攻めが終わってしまうのではないか。そうなれば我らのやっておることはまったくの徒労になるではないか」


 などと嘆く者もいる。

 が、その懸念は的外れであろう。

 武田元繁の狙いは、吉川・毛利の軍勢を城から誘き出し、これを野戦に引きずり込むことであり、有田城はいわばそのための餌なのである。急いで城を抜く必要はなく、開戦早々、味方の出血を度外視してまで総攻めをするとは思えない。

 ――まず、一月ほどはじっくり様子を見るつもりではないか。

 と、重蔵は思っている。

 山深いこの山県郡は、広島湾岸の平野部よりはるかに雪が多いと聞いた。本格的な冬になれば兵を収めざるを得ないであろうから、そもそも武田軍に残された時間はそれほど多くない。有田城を力攻めで抜き、吉川氏の大朝なり毛利氏の吉田なりに攻め込んだとしても、敵の本拠であるだけに防備は固いであろうし、守勢に徹してそれこそ死に物狂いで防戦するであろうから、雪が落ちるまでに攻め落とすことはおそらく難しいであろう。それどころか、大朝に攻め入れば毛利氏が、吉田に攻め入れば吉川氏が、それぞれ武田軍の背後を脅かすに違いなく、挟み撃ちにされ、退路を断たれる危険さえある。地理的に言って、軽々に攻め込めるような形ではないのである。孫次郎は「大きな戦がある」とか「吉川・毛利を滅ぼす」などと大仰な事を言っていたが、現地の地理地勢を見、戦況を知るにつれ、それが意気込みに過ぎぬという事が、重蔵にもだんだん解ってきた。

 武田元繁にすれば、有田城を攻略し、山県郡での主導権を吉川氏から取り戻すことが今度の戦の主眼なのであろう。吉川・毛利軍が有田城を救援に来て、野戦を挑んでくれれば儲けもの、という程度の肚づもりに違いない。ゆるゆると様子を見ながら、敵が動かぬと見切った時に、はじめて有田城攻めに本腰を入れるはずである。


「今頃、吉川や毛利は、有田をどうするかで揉めておりましょうな」


 縄で横木を柵に結わえ付けながら重蔵が言った。


「そりゃ揉めておろうが、武田のお屋形に戦を挑むほどの度胸が連中にあろうかな。長々と話合うた末、結局は日和見を決めて、有田を捨て殺しにするのが関の山よ」


 孫次郎は敵を見下しきっている。

 吉川・毛利の側が、城から出戦して武田軍と雌雄を決するというなら、相当な覚悟が必要であろう。『鬼吉川』の異名で名高い勇猛な吉川氏なら、味方の城を戦わずに見捨てることを恥とし、勝敗を天に預けて出て来るような事もあるかもしれない。一方、毛利氏は当主が三歳の嬰児えいじであるという。重臣の合議で家政を執っているとすれば、果断な決断は下しにくかろう。

 重蔵がそう言うと、しばらく考えた孫次郎は、


「案外、吉川・毛利のふぐりを握っておるのは高橋かもしれんな」


 と返した。

 ふぐり――睾丸こうがんの事である。そんなものを握られれば、どれほどの勇者でも身動きが取れまい。


「高橋というのは、それほどの豪族ですか」


「あぁ、高橋は安芸より石見に広く領地を持っておってな。子牛の毛の数ほども家来がおると言われるほどじゃ。毛利の三倍は人数を集められるのではないか」


「毛利の三倍・・・・」


 すると、高橋氏が全力で吉川・毛利を応援するようなら、吉川・毛利・高橋で五千近い軍勢を集められるのではないか。武田軍とも互角以上に戦えるということになる。


「高橋の合力が得られねばおそらく毛利は動くまい。毛利が動かねば、吉川は単独で戦わねばならぬようになる。勝ち目がないゆえ、これも動けまい」


「なるほど・・・・」


 慧眼である。孫次郎の言う通りかもしれない。

 ――いずれにしても、敵方の動きを待つしかないわけか。

 吉川氏が有田城にどれほどの思い入れを持っているか。吉川氏と毛利氏の紐帯ちゅうたいがどれほど強いのか。敵将はどういう気性であるのか。吉川・毛利と同盟している高橋氏は援軍を出すのか。他の国人一揆側の豪族たちはどう動くのか――そういった多くの敵側の要素によって、この合戦の様相と意味は大きく変わってくる。

 それらを知るために、重蔵が見えぬところで多くの諜者が駆け回っているに違いない。

 敵方が動かなければ、冬の到来と共に有田城が武田の手に落ち、この合戦はおそらくそのまま終わる。武田元繁が次に兵を動かすのは来春という事になろう。



 中井手の防塁は、三日目には空堀と土塁が概ね完成した。その間、柵の植え込みも続けられ、熊谷元直とその重臣たちが寝泊りするための陣小屋作りも始まっている。

 城攻めから外されてしまった熊谷軍は、ひたすら「待ち」である。

 五日経ち、十日経っても戦況は変わらない。吉川・毛利の援軍は姿を見せず、有田城では兵気が弛まない程度に城攻めが続けられている。

 やる事のない熊谷軍は、諜者や物見を出すなどして大朝や吉田の様子を探っているが、敵が動く気配はない。


「吉川も毛利も、すくみ上がって震えておるわ」


 熊谷軍の将士は、わざわざ遠征に出張って来たにも関わらず戦う相手がおらず、明らかに欲求不満になっていた。

 熊谷元直はもともと気の長い男ではなく、ついにれてしまったようで、


多治比たじいの辺りでも焼いてやれ」


 と毛利領北西端の多治比へ百人ばかりの兵を送った。

 毛利方を挑発し、兵を出させて戦に引きずり込もうと言うのである。

 有田城はそもそも吉川氏の支城であり、毛利氏の城ではない。その毛利氏が武田軍と戦い始めれば、吉川氏としてもこれを黙視しているわけにはいかず、出戦せざるを得なくなるであろう。戦いが始まってさえしまえば戦局は変わるわけで、それが大戦に発展することだって十分にあり得る。

 熊谷軍の部隊は中井手から山道を東へニ里半ほど進み、多治比の西部に侵入し、あたりの百姓家に押し入って略奪し、手向かう者は殺し、女・子供はさらい、家屋を放火して回った。

 多治比には猿掛さるかけ城という毛利方の支城があり、多治比元就という男がそれを守っているらしいのだが、毛利方はこの挑発に応じず、多治比の軍勢さえも動かなかったらしい。

 その夜、報告を伝え聞いた孫次郎は、


「多治比の少輔次郎しょうじろうとは、とんだ臆病者であるらしいわ」


 と吐き捨てるように言った。

 己の領民を守るために戦うのは領主の責務である。領民のために兵を出さなかったという事実が、武士として腹立たしかったのであろう。

 実際は、敵地にわずかな人数で乗り込んだ熊谷軍が、毛利方から反撃を受けることを嫌って一刻ほどで早々と引き上げたために、多治比勢の出陣が間に合わなかったというだけなのだが、孫次郎の手勢はこの焼き働きに加わらなかったから、そんな経緯は孫次郎も重蔵も知らない。


「多治比の少輔次郎――というのは?」


 重蔵たちは、焚き火の傍に座り、握り飯と汁の夕餉を取っている。


「毛利の先代・興元おきもとの舎弟じゃ。多治比の領主でな。猿掛城に居を据えておる。毛利の幼主の後見役をしておるらしいが、文弱な男で二十歳を越えた今でも初陣さえ踏んでおらぬと聞く。大方、合戦いくさの仕方を知らぬのであろうよ」


 そういう男が毛利家の舵を握っているのだとしても、その「文弱な後見役」に聡明さと人の意見を聞く耳があり、これを補佐する老臣に人材があれば、家勢を傾かせることはないであろう。


「毛利家の武将に人はおらぬのですか」


 重蔵が重ねて尋ねると、握り飯を頬張っていた孫次郎は、竹筒の水で喉を湿らし、しばし考える顔をした。


「毛利の武威は何といっても井上党が支えておる。井上河内かわちがその筆頭じゃ。他には、志道しじ上野こうずけ、福原左京、渡辺、桂、坂といったあたりが名高いか・・・・」


 そこでふと顔を上げた孫次郎は、重蔵を見て意味ありげに笑った。


「あぁ、肝心なのを忘れておった。『今義経』などという大そうな渾名あだなの男がおるぞ」


「今義経――」


 義経流の兵法者を自認する重蔵は、「義経」という単語に過剰に反応した。

 戦の天才と謳われた義経に喩えられるほどなら、よほどの合戦巧者なのではないか。あるいは鬼神の如き武勇の男か――


「これも、死んだ毛利興元の舎弟じゃ。毛利家では部屋住みの御曹司というが――確か、相合あいおうの四郎とか申すのではなかったかな」


「四郎――四男ですか」


「いや、三男坊のはずじゃ。なぜ四郎と名乗っておるのかの」


 孫次郎は首を捻った。


「いずれ二十歳かそこらの若造よ。大方、小柄で色白で女のような姿をした優男やさおとこなのだろうよ」


「あぁ――そういう事ですか・・・・」


 確かに、義経の容姿を連想させるような若者、というところから来た渾名という事もあり得るだろう。

 期待を裏切られたような気分になり、重蔵は苦く笑った。


 この相合四郎――毛利元綱という男が、重蔵の人生に大きく関わる存在になるのだが――

 今の重蔵は、そんな事を知るよしもない。




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