籠手斬り重蔵(ニ)
その夜、盃を傾けながら聞いた話である。
熊谷孫次郎は、熊谷氏の当主・熊谷 民部少輔 元直の従兄弟に当たるらしい。孫次郎の父は熊谷氏の先代・膳直の弟であり、孫次郎はその父の庶子(妾腹の子)であったのだそうだ。
京で重蔵が孫次郎に出会ったのは九年前で、熊谷軍が京を去るまでの三年ほど交流があったのだが、その頃は孫次郎の父・熊谷直祥がまだ現役であったし、跡継ぎとして正嫡(正妻の子)の立派な兄も居たそうで、庶子の孫次郎は兄の遥か格下の家来という身分であり、部屋住みの日陰者という立場だったらしい。服装や持ち物や従者の数など、当時の孫次郎はどこから眺めても下級武士であったし、だからこそ足軽稼業で暮らす重蔵のような素浪人が引け目なく付き合えたとも言える。また、そういう気楽な身上であったからこそ、孫次郎も剣術を身に付けようなどという酔狂を起こしたのだろう。一般に、この当時の武士の剣術に対する認識は、「歩卒(雑兵)の技」、「葉武者の技」であり、一軍を率いる大将に必要な技能とは考えられていなかった。
しかし、京を去って後、この六年間で孫次郎の境遇は一変した。
何のことはない。五年前に父が隠居し、家を継いでいた兄も二年前に戦死してしまったのである。
兄には子が二人いたがいずれも幼い姫で、婿を迎えることができなかった。他に家を継ぐべき男子はなく、降って湧いたように孫次郎のところに家督が転がり込んで来たというわけだ。熊谷氏の家中において孫次郎の家の家格は非常に高いから、庶子とはいえその家を継いだ孫次郎は、一躍、熊谷氏の重臣になった。
当然、その所領は大きく、家来も多い。ひとたび陣触れすれば雑兵が五、六十人も槍を抱えて在所から駆け集まって来るであろう。高松山の城下にある屋敷も実に広壮で、部屋数が知れぬほど広い母屋には離れまでが付き、厩には十数頭の馬が繋がれ、家僕(使用人)が暮らす長屋だけで二棟もあった。
その様子を眺めた重蔵が、
――わしは人間違いをしたのではないか。
と思わず気後れしてしまったのも無理はない。
重蔵はその長屋の一部屋を与えてもらい、衣服も貸してもらい、三度の飯も食わせてもらうという、まったく有り難い身分になった。
――無為に徒食しているだけではさすがに申し訳ない。
素浪人が貧窮した末、出世した古い友人に食を強請りに来た、なぞと周囲に思われては恥ずかしくもある。
――ここは孫次郎殿が望んだ通りにするしかないか。
半ば観念するような気分でそう思った。
重蔵が人の役に立つ事となると限られている。孫次郎の提案通り、家つきの家来たちに武芸の教導をしながら日を送るのが、自分にとっても孫次郎にとってもその家来たちにとっても、もっとも益になるであろう。
重蔵の一番の得手は何と言っても剣だが、そこは長く戦場で暮らし、日々兵法を研鑽してきた男である。槍も人並み以上に使えるし、弓も拙くはない。何より重蔵は大小併せれば三十以上の戦場を踏んでおり、圧倒的な実戦の経験があった。それも、家来に幾重にも守られながら後方で戦の模様を眺めていたわけではなく、使い捨ての足軽として常に戦場の最前線に立ち、矢の雨、槍の林という中で生き抜いて来たのである。殺した人間の数は優に五十を越え、手傷を負わせた者の数はその数倍にも及ぶ。重蔵の五体にはそれらの戦歴を示す傷跡がそれこそ無数にあり、夜討ち朝駆けは勿論、山岳戦の困難さも市街戦の心得も、勝ち戦の味も負け戦の過酷さも知り抜いている。いかに戦国乱世とはいえ、二十九歳の若さでこれほど修羅場を潜っている者も多くはないであろう。世故や世渡りには暗くとも、戦場で生き残るための知恵なら豊富に持っているという自負があった。
ただし、重蔵が教えられない事も勿論ある。
その筆頭が、馬上戦闘であろう。
重蔵は幼い頃に馬術も学んでいるから馬に乗れぬということはなかったが、父が行方知れずになった時に、家にただ一頭いた馬も失った。それ以来この十四年間、重蔵は馬に乗ったことがなく、戦場にも足軽としてしか出たことがないのである。
騎馬武者というのは馬で駆けながら刀槍を振ったり弓矢を射たりするだけでなく、馬上組み打ちと言って騎馬武者同士で馬に乗ったまま格闘することもある。これらは馬に乗れる身分の上級武士には必須の技術と言ってよく、独特の鍛錬が必要だが、重蔵にはその経験がまったくなかった。
が、おそらく孫次郎もそこまでは望んでいないであろう。いずれにしても己が今やれることをやるしかない。
重蔵はその旨を孫次郎に伝えた。
「おぉ、それは有り難い」
孫次郎は無邪気に喜んでくれた。
「ならばさっそく頼むとするか。善は急げと申すからな」
そのニ日後、孫次郎は己の家来の中からニ十数人の若者、元気者を屋敷に集め、重蔵を紹介した。
「こちらは羽田重蔵殿と申して、京の吉岡兵法所で共に剣を学んだ兄弟子のようなご仁じゃ。その兵法の腕は数多おった門人の中でも特に優れ、わしなどは遠く及ぶところではない。厳島の神人や白光山の修験者にも剣術の達者はおるが、この重蔵殿に比肩するほどの者は多くはないであろう。せっかく当家にご逗留あるを幸い、親しく教えを乞い、その技を学ばせて貰うがよい。来たるべき合戦で必ず役に立とう」
最初は重蔵に不信の目を向ける者も少なくなかった。乱世を生きる男たちは実力本位であるから、いかに主人の古い馴染みとはいえ、急にやって来たどこの馬の骨とも知れぬ素浪人に師匠面をされて嬉しがる者はない。まして孫次郎の家来たちは主人の影響もあって兵法に親み、常日頃から武芸を心掛けており、並みの武士よりよほど使えるという者が多いのである。当然、自分たちの腕に誇りも自信もある。
その空気を敏感に察した孫次郎は、
「皆にまずは重蔵殿の腕を知らしめるか」
と重蔵に顎を向けて笑った。
「承った。されば――」
重蔵は、孫次郎の家来で腕自慢の三人に木太刀を取らせ、自らは手ごろな太さの竹を三尺ほどに切ったものを握り、それをもって立ち会うことにした。
この勝負は屋敷の中庭で行われたが、詳細は書いてもつまらない。
静かな佇まいで下段やや半身に構えた重蔵は、三人が裂帛の気合を込めて打ち込んで来るその初太刀に合わせて身を翻し、同時に下段から斬り上げて籠手を軽く打った。最初の二人は八双の構えから撃ちかかり、最後の一人は正眼に取った木太刀で中段へ突きを放ってきたが、結果はまったく同じある。静から動へと瞬転する重蔵の動きの疾さと質が、力と勢いに任せて撃ちかかって行った三人とは違いすぎて、事も無げに勝った――という印象だけが残った。
「今のは家伝の技で、『飛猿』と申す。戦場で鎧を着た敵も、籠手から指は出ておりますから、指を斬れば打ち物(武器)は取れぬようになり、戦うことができぬようになります」
それを目の当たりにした者たちは、ただ唖然とするしかない。
「あの頃より、また一段と腕を上げられたな。何やら凄みさえ感ずるわ」
久々に重蔵の妙技を見た孫次郎も、驚きを隠さなかった。
家来たちの不信の目は一瞬で尊敬へと変わり、重蔵に接する態度も手のひらを反したように丁重そのものとなった。
重蔵が見るところ、孫次郎が選んだ家来たちはさすがに基礎的な修練はできていて、足腰もよく鍛えられている。
しかし、組太刀の型というのは、教えたところで一月や二月で身につくものではない。凄まじい速度で迫って来る刀槍に対して、意識するより早く型の通りに身体が反応する、というところまで修練を積まねば意味がなく、その形だけを憶えたとしても実戦ではほとんど役に立たないのである。
合戦が近いということもあり、重蔵は戦場で使えるより実戦的な技術を中心に指導することにした。木刀では場合によっては大怪我をするので、剣を得意とする者、槍を得意とする者にそれぞれの長さの細い竹の棒を持たせ、腹巻や籠手、脛当てなども付けさせた上で、わざと二対一、あるいは三対一という変則的な形で叩き合いをさせた。注意を常に分散せねばならない状況を強いて乱戦に慣れさせると同時に、複数の人数で一人の敵を倒すコツを身に付けさせるのが狙いである。これは足軽稼業で生きてきた重蔵ならではの指導法と言うべきで、卑怯を恥とする歴とした武士からは出ない知恵であろう。単に剣術の腕を競わせるより、雑兵たちにとっては得るものが多いに違いない。
また、重蔵自身が戦場で掴んだ心得やコツといったものも、折に触れて説いて聞かせた。
「何かひとつの物事に囚われ、その事に心が行ってしまうと、周りの物事は視えなくなる。これが人の急所です。戦場で敵と向かい合えば、誰でも怖い。相手が繰り出して来る槍先、振りかぶる太刀先にのみ気が行ってしまう。それしか視えなくなると、敵味方が入り乱れた戦場では死ぬ危険がずいぶん増えるのです。ひとつの物事に囚われる事なく、目に入るすべての物、すべての事を、視るとはなく全体として視て、周囲の流れの中で己の身体を自然に動かすという事が肝要です。それができるようになれば、戦場の呼吸というものが解ってくる。ここは進むべき、ここは退くべきという勘所が掴めるようになれば、不思議と死なぬものです」
「戦場では、敵を組み伏せておる時がもっとも危ない。下になった敵はそれこそ死に物狂いで反撃しようとするし、こちらはこちらで敵に止めを刺す、その首を取ることに夢中になり、周囲が視えなくなる。どんな豪傑も、そういう時は横手から突き出される槍、飛んで来る矢に気付かず、呆気なく死んだりするものです。なればこそ、味方が敵を組み伏せておる時は、助太刀せよとまで言わぬにしても、その者の周囲の敵に気を配ってやる事が大事です。それだけで怪我をしたり死んだりする者はずいぶん減る。『武士は相身互い』と申すのは、この事です。これとは逆に、味方を組み伏せておる敵がおれば、それこそ狙い目。敵は己が組み敷いた者の首を掻くことに夢中になり、周囲が視えておらぬゆえ、簡単に槍を付けられる。その敵を倒せば味方も救える。一石二鳥というわけです。広く戦場を視て、己が何を為すべきかを常に考えて動くよう心掛けておれば、そのうち考えずともすらすら動けるようになります」
重蔵を敬する男たちは熱心にその話を聞き、稽古に熱を入れた。
そうなると自然とやり甲斐も感じるし、愉しくもなる。
――なるほど、こうして暮らすのも悪くない。
何やら日々に充実感さえ覚えた。
それはそれで良かったのだが、しばらくすると重蔵が予想もしなかった反響も起き始めた。
孫次郎の屋敷から連日のように聞こえる凄まじい気合の声や戦いの喧騒は、狭い城下でたちまち評判になった。屋敷は練塀で囲まれているから覗くことはできないはずだが、孫次郎自身がどうやら自慢気に吹聴しているようで、家中の武士が見学にやって来たり、重蔵に教えを乞いに来るような者も出始め、半月後にはその噂が熊谷氏の殿さまの耳にまで入るほどになったのである。
ところで、高松山城下には、重蔵がやって来る以前から神崎弾正と名乗る兵法者が住み着いていた。厳島神社の神人あがりと噂のある三十男で、熊谷家中の知る辺を頼ってその屋敷に寄寓し、家中の下士に剣術を教授して暮らしていたらしい。
その神崎弾正、真偽のほどは判らないが、常陸国(茨城県)鹿島神宮で鹿島神道流を、下総国 (千葉県)香取神宮で天真正伝神道流をそれぞれ学び、安芸に帰って厳島神社に参篭し、厳島大明神の神託を受けて兵法の極意を悟った、なぞと喧伝しているのだと言う。兵法者の常だが、己の剣術で身を立て、あわよくば熊谷家へ仕官を――とでも目論んでいるのであろう。
そういう男が城下に居るという事を、迂闊にも重蔵は知らなかった。孫次郎に頼まれるまま、勝手に武芸指導を始めてしまったわけだが、このあたりが重蔵の世渡り下手と言わねばならない。
兵法者として生きるなら、兵法者の通すべき筋というものがある。こういう場合は土地の先達に挨拶をして話を通すのが当然の礼儀だし、場合によっては立ち合って先達との腕の上下関係をはっきりとさせ、相手の顔を立てるなり叩きのめして黙らせるなりしておかなければ、後から必ず話がこじれるのだ。
そもそも重蔵は熊谷家に仕官の望みはなく、高松山城下に長居をするつもりもないのだから、自ら出向いてその事を神崎弾正に説明しておけば、おそらく波風は立たなかった。神崎にしても、重蔵に負ければすべてを失い、勝ってもほとんど得るものがないわけで、そんな勝負を望むはずがない。重蔵が己の商売敵にならないという事が納得できさえすれば、それで話は済んだであろう。
しかし重蔵は、悪意はなかったにせよ、通すべき筋を通さなかった。
そうなると、話はまったく別になる。
神埼弾正にしてみれば、後からやって来た重蔵が、「熊谷氏の重臣」である孫次郎の庇護を受け、先達の自分を無視して勝手に門人を取り、兵法を教授し、それが城下で評判になっているというのは、己の存在と生存を脅かされたに等しい。これは死活問題であり、重蔵の行為を「自分に対する挑戦」と受け取るのはむしろ当然で、この「売られた喧嘩」を買わねば、「神崎弾正は臆した」と世間に取られてしまう。兵法の看板で飯を喰っている以上、己の面子が立たないのである。
怒った神崎弾正は、門人を孫次郎の屋敷に走らせ、
「正々堂々と立ち合い、どちらの腕が上かはっきりさせようではないか」
といった内容の挑戦状を送りつけてきた。
重蔵はその書状を受け取り、そこで初めて神崎弾正という兵法者の名を知り、同時に己の迂闊さに気付いた。しかし、城下の評判となってしまった後では取り繕いようがない。勝負の申し出は丁重に断ったのだが、重蔵はそのまま武芸の指導を続けているのだから神崎の側が治まるはずもなかった。
「羽田重蔵なる者は、兵法者を騙っておるようだがよほど腕に自信がないと見える。わしが何度も試合を申し込んでおるに、言を左右して決して受けようとせぬ。あれはただの騙り者、恥を知らぬ臆病者よ」
神埼弾正は重蔵を臆病、卑怯と罵り、負けるのが怖くて逃げ回っているのだと門人たちに吹聴させ、悪声を放つことによって己の矜持と世間の信用を保っている。
重蔵はこの城下に長居をするつもりがないから、罵声で済むなら安いものだとこれまで放っておいたのだが、それがかえって悪かった。
その事が、思いもよらぬ大事に発展したのである。
一日、重蔵は孫次郎に屋敷の離れに呼び出された。
「殿にお話してみたら、おぬしの剣の腕前を是非見てみたいと仰せられてな。家中の腕自慢と仕合わせれば面白かろうなどと、大乗り気であったよ」
孫次郎は嬉しくてたまらぬといった風情でそう言った。
どうやら雲の上の方でも重蔵の事が話題になっているらしい。熊谷氏の殿さまである民部少輔 元直までが興味を示しているというのだから、只事ではない。
「弱りましたな。わしは熊谷の殿さまに買いかぶられたようじゃ――」
重蔵は眉をしかめた。
重蔵には仕官の望みはなどはないのである。熊谷元直に謁を賜り、その御前で兵法を披露するというのはいかにも気が重い。
「その妙技を見れば、殿は勿論、家中の頭の古い連中も考えを変えるであろうよ」
孫次郎は、重蔵の剣名をあげる手助けをしているつもりなのであろう。熊谷家中における兵法の地位を向上させたいというような思惑も勿論あるのだろうが、半ば以上は重蔵への親切心であるに違いない。
確かに、熊谷元直と言えば安芸の有力豪族の一人であり、素浪人の重蔵如きがその面識を得ることは願ったところで普通は叶えられるものではなく、これは千載一遇の好機と言わねばならない。孫次郎は重蔵の幸運を無邪気に喜んでくれているのだ。
しかし、重蔵にしてみれば、
――困ったな・・・・。
というのが正直なところである。
重蔵は剣の道に迷い、師とするに足る人物を探して流離っているだけの男であり、己が未だ道半ばの半端者である事を誰よりも知っている。名をあげようなどと望む事自体がそもそも烏滸がましく、孫次郎の好意は有り難いとも思うのだが、それを素直に喜ぶような気にはとてもなれない。
重蔵の冴えぬ表情から自分との温度差を察したのであろう、孫次郎は大慌てで言い訳めいた言葉を吐いた。
「いや、この話は、別にわしが企図したものではないのだ。例の神崎弾正とかいう兵法者が、是非とも試合の場を設けて欲しいと申し出ておるそうでな。それに殿が乗り気になったものらしい」
「あぁ――」
――そういう事か・・・・。
事の真相を察し、重蔵は尚更うんざりした。
神崎弾正は、勝負を受けようとしない重蔵の態度を「逃げ」と解釈し、重蔵の腕を見くびり、いっそ衆目の中で重蔵を打ち負かす事によって名をあげ、仕官の契機にしようと思い立ったのに違いない。どうせやるなら熊谷氏の殿さまを担ぎ出し、御前試合という派手な舞台を作ってやろうと、家中の知人や門人を通じて運動したのであろう。
――ならば、此度の事はわしの身から出た錆でもある。
ため息をつくような気分でそう思った。
話がここまで大きくなってしまえば、もはや逃げられない。危難を事前に避けるのが兵法の極意であるとすれば、重蔵はまったく未熟者と言わねばならぬであろう。
――面倒なことになった・・・・。
熊谷家の武士が相手なら、まだやりようはある。戦場覚えの介者剣術<*注1>しか知らぬような者が相手なら、どんな怪力の豪傑が出て来ようが「剣術の勝負」でなら重蔵は負けない自信があるし、勝負を綺麗に引き分けることも不可能ではない。先に一本取った上で、相手にわざと次の一本取らせてやり、そこで勝負を終えるような手だってあるだろう。要は相手の面子を潰さないように配慮すれば良いのだ。
しかし問題は、神崎弾正である。
「その神崎弾正、どのような男かご存じですか?」
重蔵が尋ねると、孫次郎はわずかに首を傾げた。
「懇意にしておる厳島の神人などから聞いた限りでは、決して評判の善い男ではない。若い頃は野心家で我誇りの気性が激しく、粗野な上に酒乱であったと言う」
「ほう・・・・」
野心家であるという事は、向上心が強いという事でもあろう。
我誇りというのも、「名」を売らねば身を立てられない兵法者には当然の特質である。
粗野というのは、あるいは出自の卑しさを表しているのではないか。つまり、礼儀作法を知らずに育ったという事なら、歴とした武家の出ではないのかもしれない。神崎が武家に生まれず、それでも武士を目指して兵法を志したのだとすれば、よほど努力をして研鑽を積んだという事にならないか。
酒乱というのは体質であるからその事自体をどうすることもできないが、神崎が高松山城下に住み着いてから酒の上での狼藉があれば、孫次郎は当然それを聞き知っているはずで、そういう噂がないという事は、酒を止めたか、深酒をせぬ自制が働いている証拠と言えるだろう。それは意志の強さに繋がるのではないか。
「家中に幾人かは門人がおるのだが、門人からは敬されておるように見える。それらの者が言うには、腕は立つらしい。わしはその技前を見たことがないゆえ、確かなところは判らんが――片手打ちに妙を得ておると聞いたな。そうそう、ニ年ほど前、城下に参った何やら言う旅の兵法者を、試合をして討ち果たしたという噂があった・・・・」
やはり、相当の実力を持っていると見ねばならぬであろう。吹聴している前歴も嘘ではないかもしれない。
もし神崎弾正が自分と互角かそれに近い技量を持っているとすれば――
――おそらくわしは勝てぬだろう。
と重蔵は思った。
同等の技量の者が戦えば勝敗は時の運であり、その試合に賭ける両者の気迫の違いが差になって表れるものである。
神崎にすれば御前試合は仕官のための千載一遇の好機であり、それこそ全身全霊で勝ちに来るに違いないが、重蔵の方はこの試合自体に乗り気でなく、できれば逃げ出したいくらいの気分でいる。自分の未熟さのせいで神崎を追い詰め、無用の騒ぎを起こしてしまったという負い目さえ感じている。こんな気持ちで勝負に臨んで勝てるわけがない。
「試合は五日後、お城の馬場に会場を設えるという事であったが――重蔵殿、どうなさる?」
「どうなさるとは・・・・。辞退しても良いものですか?」
「いや、それは困るのだが――」
孫次郎は珍妙な顔で苦笑した。
「しかし、どうにも気が進まぬという顔をしておるではないか。嫌がる者を無理に引っ張ってゆくわけにもいかんさ。重蔵殿は熊谷家の家士でもわしの家来でもないゆえ、命じることもできんしな。なに、いざとなれば、殿には代わりにわしが試合をするとでも言うておくわい」
――孫次郎殿らしい。
その言葉を聞いて、重蔵はわずかに笑った。
そして、肚をくくった。
試合とは、「仕合い」とも「死合い」とも書く。兵法者同士が試合をするということは、すなわち死を賭すということであり、殺されても文句は言えぬということである。たとえ命が助かったにしても、怪我から不具にでもなれば兵法者としてはやはり死ぬわけで、負ければ先はないというほどの覚悟がなければ勝負には臨めない。
――勝つまでだ。
重蔵は己が兵法者として半端だと自覚しているが、それでも漢としての矜持はある。避けられぬ勝負なら受けるし、勝負する以上は負けてやるつもりはない。
「わしの名が熊谷のお殿さまにまで聞こえておるのなら、逃げるわけにも参りますまい。まして孫次郎殿には世話になっておる恩があります。その顔を潰すような真似はできませんよ」
重蔵が言うと、孫次郎は救われたというように破顔した。
「おぉ、受けてくれるか」
「ただ、神崎弾正に勝てるかどうかは――やってみねば判りませんよ」
神埼弾正に恨みはなく、あるのはむしろ負い目だが、それでも、
――降りかかる火の粉は払うまでだ。
重蔵は敢えてそう思い直した。
神崎にとっては重蔵の存在こそが「降りかかる火の粉」であったろう。
それも解っている。
しかし、そこは兵法者という道を選んでしまった者の宿業と割り切るしかない。殺さねば殺される世界で重蔵は今日まで生き抜いて来たのだ。弱き者は淘汰され、強き者だけが生き残る。それがこの乱世の理というものであろう。
試合は、その五日後――永正十四年(1517)九月二十三日に行われた。
その日の天は、いまにも降り出しそうな重い雲が一面に垂れ込めていた。
<*注1>
「介者剣術」とは、鎧兜を着用した状態で戦うことを想定した剣術。
鎧兜を着た武者は、兜があるために剣を両手で振りかぶることができないし、鎧の重さで軽快な動きも制限される。鎧で守られている部位には剣は通じないから、そこを狙う意味はないし防ぐ必要もない。自然、武者たちは、目、首、脇の下、内腿、膝裏、手といった鎧で守られてない部位を狙うしかなく、攻撃は刺突が中心になった。また、防御は敵の攻撃を鎧兜に当てて受けるということが行われた。転倒させられぬよう、足を前後に大きく開いて低く構えるのが一般的で、「素肌剣術」の系譜を引く現代の剣道とはまったく別のものである。